ケンドリック・ラマーのピューリッツァー賞受賞、権威と名声が与える功罪

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米カリフォルニア州コンプトン出身のラッパー、ケンドリック・ラマーはこれまで多数の賞を受賞してきた。12のグラミー賞、タイム誌の「最も影響力のある100人」の一人、そして最高のラッパーという不動の地位を得た。今度はそこにピューリッツァー賞音楽部門が加わったのだ。とはいえ、現時点でラマー自身はそれほどの注目を求めていない。

ポップ・ミュージック界では前代未聞の受賞である。ラマーの歌詞が、文化的な批判として、ジャーナリスティックな表現として、今年の他のピューリッツァー賞受賞者たちと同じくらい審査員を納得させるものだったのだろう。

グラミーの最優秀アルバム賞を逃した数カ月後に届いたこの賞は、間違いなくラマーの並外れた音楽レガシーを大きくするはずだ。これは黒人特有の秘密の表現方法でもあるヒップホップが、アメリカで最も分かりやすく、なおかつ重要なアートとして受け入れられる態勢が出来つつあることの証でもあるし、その一方で複雑な状況を加速することになるだろう。

ラマーのピューリッツァー賞受賞の意味が大きい理由の一つは、ヒップホップ界がヒップホップを代弁する「場」を合法化して、その歴史を管理していない点にある。XXLやThe Sourceといったカルチャー雑誌は、リスナーへのガイド的な役割はほぼ終えてしまっているし、40年間のアーカイブという財産を持つクラシック・ヒップホップのラジオ局の多くは既に消滅している。ヒップホップよりも大きなポップスのコミュニティも、ヒップホップの助けにはなってこなかった。グラミー賞の時期になると必ずささやかれるのが、レコーディング・アカデミーと若者文化の乖離であり、特にブラック・カルチャーとの断絶は未だに大きいようだ。

そうやってできた隙間にピューリッツァーのような団体が入り込んで、ステータスを感じさせる賞を与え、それゆえに音楽業界とは質の違う問題を引き起こすのである。

デューク・エリントン、セロニアス・モンク、ジョン・コルトレーン、チャールズ・ミンガス、ルイ・アームストロングといった黒人のジャズの巨匠たちは皆、死後にピューリッツァー賞を受賞している。1965年から1995年まで、存命中の黒人アーティストは一人も受賞していない。生きているうちに受賞した最初の黒人はウィントン・マルサリスで、『Blood on the Fields』という平凡なオペラ作品が受賞の理由だった。半世紀にわたり舞台裏で衝突と矛盾を繰り返した結果として、存命中のミュージシャンへの賞の授与は祝うべき価値のあるものとは思えない代物となっていたのである。

2004年に規定が変わり、ヨーロッパの伝統的なポピュラー音楽以外にも選択の範囲が広がったが、それでもメインストリームの音楽が真剣な芸術と捉えられるまで14年かかった。エリート好みの芸術コミュニティが尊敬する賞をラッパーが受賞したことは前進を表わすことではある。ラマーの音楽はモンクとコルトレーンが作った規則破りで、自由で、ラディカルなジャズの伝統とも相性がいい。そう考えると、ラマーの受賞が前代未聞なのと同様に、審査員も無意識のうちに1965年と2018年をケンドリック・ラマーという存在で一気につなぐという前代未聞のことをやったのかもしれない。

それでも「最初の人」の多くは、何かを勝ち得たことで逆に落ちぶれてしまうことがあり、この現実は白人が多くを占める空間に黒人の芸術がポツンと置かれているのを見たときの違和感を思い起こさせる。そして、包括的な団体と思われているロックの殿堂や、米国議会図書館や、本質的なアメリカ人らしさに訴えかけるはずの米国内の数々の賞に、人種間の溝が存在しているのではと疑ってしまう。

ニーナ・シモン、マイルス・デイヴィス、エラ・フィッツジェラルド、Run-DMCのようなアーティストたちへの死後の称賛も同じように感じた。

ラマーには米国議会図書館に入れられたアルバムが既に1枚ある。そして、彼が一度の投票で殿堂入りするのは確実だろう。ただ、人生の始まりと終わりを深く物語る内容のアルバムの生死は、アルバムの死に場所という論点をうまくはぐらかす。そして、誰の天国にそのアルバムがいるべきか、ということも。