行列のできるラスク屋さんとして知られる、「ガトーフェスタ ハラダ」。実は、群馬県高崎市の老舗和菓子店が発祥だ(写真:原田提供)

洋菓子店「ガトーフェスタ ハラダ」の都内デパ地下の売り場は、年末年始の帰省シーズンやバレンタイン、ホワイトデー前となれば、女性客であふれかえる。お中元やお歳暮などの贈答品としても重宝されるため、地方百貨店からは催事への出店要請が引きも切らない。

お客さんがこぞって買い求めるのは、ラスク「グーテ・デ・ロワ」だ。フランス国旗をモチーフにしたパッケージを見れば、ピンと来る人も多いだろう。

「行列のできるラスク店」、発祥は群馬の和菓子店


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“行列ができるラスク店”として知られる原田だが、全国的にその名を知られるようになったのは、ここ十数年のことだ。

原田の歴史は古く、1901(明治34)年に群馬県高崎市で創業した老舗菓子メーカーだ。ただ、創業から100年余りは、地元、群馬県高崎市とその周辺だけに知られたお店だった。

それが、2000(平成12)年発売の「グーテ・デ・ロワ」発売と派生商品のヒットにより飛躍的に成長、その名は一気に全国へととどろいた。

ラスクの爆発的ヒットの裏側には、時流に合わせて業態を変化させる、柔軟な経営があった。

原田といえばラスク、というイメージが強いため、創業時から洋菓子店だったと思われがちだが、実はその始まりは「松雪堂」という和菓子店だ。東京の有名和菓子店で修業した初代・原田丑太郎氏が1901年に創業し、高崎市郊外の旧宿場町(当時の多野郡新町)で、まんじゅうや大福を製造・販売していた。太平洋戦争に突入し、物資や食糧不足が続く困難な時代になっても、家族一丸となって地元住民から愛される小さな和菓子店をなんとか守ってきた。

それが、現在のような全国区の菓子店へと成長した背景には、どのような転機があったのだろうか。

1つ目の転機は、終戦直後の製パン・洋菓子業への参入だ。戦後のコメ不足で、当時の日本ではアメリカが救援物資として放出した小麦を加工し、配給パンが作られていた。そこに目を付けた原田は、1946(昭和21)年には早々と製パン業に参入、学校給食向けや一般顧客向けのパン製造を開始。当時は「原田ベーカリー」と呼ばれた。

さらに、日本人のライフスタイルや嗜好が欧米化していくなか、ケーキをはじめとする洋菓子作りにも進出。こうして、1960年代には、パン・洋菓子・和菓子と3つの商品を扱う地場の食品メーカーとなった。

1967年(昭和42年)には給食パン部門を別会社化(3代目・原田俊一氏と知人が共同出資するパン工場)。これにより、製パン事業の規模は縮小し、和・洋菓子の製造がコア事業となって成長していった。

が、バブル崩壊後に原田は大きな危機に直面する。景気の悪化によって、引き出物向けや贈答品向けを含む菓子の需要が大幅に減少した。さらに、コンビニや大型スーパーの攻勢もあって、業績は年を追うごとに悪化。1997(平成9)年からは3期連続赤字も余儀なくされた。

こうして、いわば会社が危機的状況に瀕しているなかで社長に就任したのが、4代目・原田義人氏だ。大学で建築学を専攻していた同氏はゼネコンに勤務していたが、3代目・原田俊一氏の長女・節子氏(現・専務)との結婚を機に原田に入社。入社当初は畑違いの分野で戸惑うことばかりであったが、洋菓子に関する専門書を読み、菓子職人の講習会に参加するなど、ひたすら勉強。1998年(平成10年)、義父に代わって社長に就任したのだった。

異業種社長が、全国向けにラスク発売

この異業種社長が、会社の命運を懸けて挑戦したのが、全国展開開始と、ラスク「グーテ・デ・ロワ」の発売だった。これが2つ目の転機となる。


戦後に始めた製パンのノウハウを応用し、ラスクの発売に打って出た原田義人社長(筆者撮影)

「焼きまんじゅう」や「おっきり込み」など独自の食文化を有する群馬県。しかし、菓子文化だけは乏しいといわれてきた地域でもある。

将来的な人口予想を含め、発展性の少ないマーケットでの商売に限界を感じていた原田義人社長と、妻の節子専務は、生き残りを懸けて全国で挑戦していくことを決意。そのとき、勝負していくための商品として選んだのがラスクだった。

「最初は和菓子で勝負しようと思い新商品も開発しましたが、日持ちの面においても夏に弱いという課題がありました。そこで、夏でも強い商品をと考えていった結果、ラスクに到達しました」と、義人氏。

もっとも、戦後から製パン業をやっていたこともあり、パンの特性や扱い方は熟知していた。昔から余ったフランスパンをスライスしてオーブンで加工し、10枚くらいにした袋詰めをレジの横に置いて販売していた経験も、この決断を後押しすることになった。

1999(平成11)年、厳選した材料を使い、ネーミングやパッケージデザインまでこだわりぬいたラスク「グーテ・デ・ロワ」が完成。2000(平成12)年1月には店頭販売を開始すると同時に、自社ホームページを開設して電話とファックスによる通販業務も始めた。

が、発売当初の反響は驚くほど少なかった。「注文の電話が入るとビックリしていたくらいですから」と、義人氏。ただ、並行して都内百貨店の物産展に参加しての販促活動をスタートさせ、折り込みチラシを近郊に40万部配布したところ、注文は徐々に増加していった。

それから約1年後。2000(平成12)年の年末ごろになると状況は一気に好転。口コミだけで、来店客が増えていった。店頭では「本日売り切れ」との看板を掲げざるをえない日も出てきた。品薄状態であることが、人気にさらに拍車をかけた。もちろん、通販でも受注は雪だるま式に増えていった。


ラスク発売前には売上高が1億円弱にまで落ち込んでいた原田だが、発売後は破竹の勢いで盛り返し、経営危機を脱することができた(筆者撮影)

2000年代半ばからのラスクブームも追い風となり、増え続ける来店客と販売量に対応するために大胆な設備投資も実施。手狭になった店舗スペースを拡大し、外部(共同経営のパン工場)に大半を委託していた製パン工程を、完全な自社生産体制にしたうえで、大幅な増産体制を敷いた。

そのため、売上高3億円強の時点で7億円、売上高27億円の時点で42億円を借金し、最終的に高崎工場(最新の工場)の建設時には、工場用地の取得を含めて130億円もの設備投資を行い、生産能力をアップ。並行して、商品のブランドイメージが高まるよう、出店場所を厳選しながらも、店舗を拡充させていった。

ラスク発売で売上高はうなぎのぼり

投資の分、着実に成果は出ていった。ラスク販売開始前、1億円も満たないほどに落ち込んでいた年間売上高は、10年後には150倍、11年後には160億円を超え、200倍にまで伸張。3期連続で赤字決算だった損益は、最終利益数十億円を確保できるまでに回復した。

さらに、将来的な無借金経営に向けて財務体質の強化にも注力。結果、自己資本比率82%を有する優良企業に生まれ変わったのだ。

現在では、銀座や新宿をはじめとする都内ならびに全国の主要都市の百貨店を中心に合計24店舗を運営するまでに拡大した原田。ラスク販売開始前(2000年以前)には15人程度だった従業員も、1000人弱にまで増員した。

今ほどラスクがマーケットに出回っておらず、消費者の認知度も低かった1990年代後半。ジリ貧状態の業況の打破、いわば企業を存続させるために、他社に先駆けてラスクの商品性に着目し、開発し、全国のマーケットに向けて勝負に出た原田。

老舗ながら、創業時からの商品や伝統、手法を守ることだけを固執せず、時代に合わせてコアとなる商品を変えながら、創業から100余年を経て「町の和菓子屋さん」から「全国展開する洋菓子メーカー」に変貌。その姿は、時流に合わせながらしなやかに変化し、果敢にチャレンジしていくことの大切さを教えてくれる。