「サッカー史上最高の『0円移籍』、TOP10!」

写真拡大

本日7月1日から本格的に移籍マーケットがスタートする。

ここでは、『Squawka』による「史上最高のフリー移籍」を見てみよう。

ズラタン・イブラヒモヴィッチ(元スウェーデン代表FW)

移籍:PSG→マンチェスター・ユナイテッド

シーズン:2016年

評価:7/10

理由:PSGを退団したイブラは、ジョゼ・モウリーニョに説得され、ユナイテッドで自らを試すことにした。年齢などを不安視する声もあったが、開幕直後のゴールラッシュでそれらを払拭。

ゴール欠乏に陥る時期もあったが、全コンペティションで計28ゴールをマークした。ただ、4月に靭帯を損傷する重傷を負ったことでシーズンが終了。

もしこの負傷がなければ、ユナイテッドにもう1シーズン留まったかもしれない。とはいえ、彼がフリー移籍で獲得できた掘り出し物であったことには違いない。

ソル・キャンベル(元イングランド代表DF)

移籍:トッテナム→アーセナル

シーズン:2001年

評価:8/10

理由:ボスマン移籍(フリー移籍)において最も物議を醸したケースかもしれない。キャンベルがトッテナムを離れアーセナルに加入すると発表した際、フットボール界は仰天した。

スパーズサポーターから“ユダ”と呼ばれることになったが、2004年の『インヴィンシブル』において欠かせぬ存在となるなど、宿敵への移籍という決断は正しいものだったと証明された。

アーセナルでは一貫してレギュラーであり続け、2006年のCL決勝ではバルセロナ相手にゴールも決めた(試合には敗れたが)。その数週間後に一旦は退団するも、数年後にアーセナルの守備陣が危機的状況に陥ると、アーセン・ヴェンゲル監督は彼を連れ戻すことにした。

ロベルト・レヴァンドフスキ(現ポーランド代表FW)

移籍:ドルトムント→バイエルン・ミュンヘン

シーズン:2014年

評価:8/10

理由:1年前にマリオ・ゲッツェを引き抜かれていたドルトムント。レヴァンドフスキもバイエルンへ移籍すると発表すると、サポーターたちは再び傷付いた。

その後、彼は世界最高の「9番」としての地位を確立。移籍1年目こそ25ゴールに留まったが、ここ2シーズンは42、43ゴールと大爆発。バイエルンのブンデス5連覇において、ここ3シーズンはレヴァンドフスキがチームを牽引してきた。

最近ではマンチェスター・ユナイテッドやチェルシーが莫大な金額で獲得を狙っているとも伝えられている。バイエルンはそんな彼を無料で連れてきたのだ!

エステバン・カンビアッソ(元アルゼンチン代表MF)

移籍:レアル・マドリー→インテル

シーズン:2004年

評価:9/10

理由:フットボール史上最高のフリー移籍かもしれない。2004年にマドリーを離れインテルと契約したカンビアッソは、以後10年に渡ってイタリアでプレーした。

セリエAでレギュラーを確保すると、その10年でスクデットを5度獲得。さらに、ジョゼ・モウリーニョのもとで、UEFAチャンピオンズリーグ優勝も経験。その後、2014年にインテルが新契約をオファーしなかったことで、レスターへと移籍することに。

とはいえ、サン・シーロでの活躍によって、世界で最も一貫したパフォーマンスを見せるMFのひとりとしての地位を確立した。カンビアッソはインテルにおいて本物のレジェンドになった。莫大な額を費やして獲得されたダメ選手ではなく(≒インテルはそういう選手が多いという揶揄)。

スティーヴ・マクマナマン(元イングランド代表MF)

移籍:リヴァプール→レアル・マドリー

シーズン:1999年

評価:8/10

理由:“マッカ”が加入した当時のマドリーは混沌としていた。だが、その後彼が過ごした4年はタイトルと栄光に満ちたものになった。

計7つのトロフィーを獲得し、イングランド人として国外で最も成功を収めた選手に。事実、マドリーのHPにはクラブのレジェンドとして彼の名が刻まれており、スペインで成し遂げた全ての偉業が記されている。

2003年、同胞のデイヴィッド・ベッカムの加入と入れ替わるように、マッカはマンチェスター・シティへと去って行った。だが、彼は今もマドリディスタたちの思い出に刻まれている。

ポール・ポグバ(現フランス代表MF)

移籍:マンチェスター・ユナイテッド→ユヴェントス

シーズン:2012年

評価:8/10

理由:満足な出場機会を与えられなかったユナイテッドを去り、アントニオ・コンテが率いていたユーヴェへの移籍を選択したポグバ

加入からわずか数週間後にはレギュラーを確保すると、欧州で最高の若手選手のひとりへと成長した。チームとしても個人としても成功を続け、『Serie A Team of the Year』にも3度選ばれた。2015年には、『UEFA Team of the Year』 と『FIFPro World XI』 も受賞。

干され気味の若手選手から、ワールドクラスのタレントへと飛躍してみせたのだ。昨夏、ユナイテッドはそんな彼を史上最高額の移籍金で連れ戻すことになった。

(※2012年当時ポグバは19歳だったため、ユーヴェはユナイテッドに80万ポンド(現レートで1.1億円)ほどの補償金を支払ったとも伝えられている)

ミヒャエル・バラック(元ドイツ代表MF)

移籍:バイエルン・ミュンヘン⇒チェルシー

シーズン:2006年

評価:7/10

理由:バイエルンとの契約が満了となった“皇帝”は、マンチェスター・ユナイテッドを蹴って、チェルシー入りを選んだ。ただ、移籍1年目は低パフォーマンスに加え怪我もあり失望に終わる。そのため、1年で退団する可能性すらあった。

だが、チーム残留を決めると、疑念を抱く人々にそれが間違いだと自ら証明してみせた。2007-08も素晴らしかったシーズンのひとつであり、翌季はさらにいいパフォーマンスを見せつけた。

最終的には、30代の選手に対して1年間の契約延長しかオファーしないというロマン・アブラモヴィッチ氏の方針によってバラックは退団を決断。ただ、当時のカルロ・アンチェロッティ監督は彼を保持したがっていたとされており、いかに評価されていたかが分かる。

ロベルト・バッジョ(元イタリア代表FW)

移籍:ミラン→ボローニャ

シーズン:1997年

評価:8/10

理由:ファビオ・カペッロやカルロ・アンチェロッティから拒絶されたバッジョ。当時30歳だった彼はミランを離れ、ボローニャへ加入することになった。

バッジョに課されたタスクはセリエA残留だったが、ボローニャは驚きの8位躍進を果たす。そのなかで、バッジョは自身キャリアハイとなるセリエA22ゴールをマーク。イタリア人としてこのシーズンに最も多くのゴールを決めた選手になった(得点王はオリヴァー・ビアホフの27得点)。その活躍によって、1998年W杯のイタリア代表メンバー入りし、同年のバロンドールにもノミネートされた。

結局、1年でインテルへと移籍し、ビッグクラブへと戻ったバッジョ。それでも、ボローニャのティフォージたちにとっては、今も彼はカルト的なヒーローのままだ。

ジェイ=ジェイ・オコチャ(元ナイジェリア代表MF)

移籍:PSG→ボルトン

シーズン:2002年

評価:7/10

理由:2002年、オコチャはボルトンにとって最高の掘り出し物になった。当時の指揮官サム・アラダイスは、チームを助けてくれと彼を説得しイングランドに連れてくることに成功。

このニュースは欧州全土に驚きをもたらした。1998年にPSGへ移籍した際にはアフリカ人史上最も高額な取引選手となったオコチャ。その彼がトロッターズ(ボルトン)でプレーすることになったと。

すぐさまファンのお気に入りになったオコチャの閃きと能力によって、ボルトンは17位、8位、6位と躍進し、カップ戦決勝にも進んだ。ただ、中東への移籍が噂されるなかでキャプテンを剥奪されるなど、ボルトンとオコチャの関係は微妙な形で終わりを告げることになった。

とはいえ、ボルトンのファンたちはチームに輝きをもたらしてくれたこのトリッキーなMFをしっかりと記憶している。

アンドレア・ピルロ(元イタリア代表MF)

移籍:ミラン→ユヴェントス

シーズン:2011年

評価:9/10

理由:近年、最も有名なフリー移籍のひとつ。2011年、ミランは大きな功績を残したピルロに新契約を提示しなかった。そして、コンテ率いるユーヴェが彼を引き入れたのだ。

チームの要に固定されると、ディープラインプレーメイカーとしてどれほど優れているかを世界に思い起こさせた。以後4年間にユーヴェが成し遂げたこと全てにおいて、ピルロは中心人物だった。全シーズンでスクデットを獲得し、2015年にはCLでも決勝進出を果たした。

その後は欧州トップリーグを離れて、MLSへと移籍。ミランの放出決定はあまりにも早過ぎるもので、それはユーヴェにとっては最高の利益となった。