観客の熱気を受けコンサートでは即興で曲を奏でることもある

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音楽は世界共通の言語だ。相手の国の言葉を知らなかったとしても、音楽があれば感動は伝えることができる。ニューヨーク在住の日本人ピアニスト/作曲家・中村天平さんもその1人だ。

天平さんは、大阪芸術大学のピアノコースを主席で卒業したものの、クラシックにとらわれず、プログレッシブ・ロックやジャズなどさまざまなジャンルを取り込み、独自の音楽を生み出してきた。一方で、大学に入りクラシックピアノを本格的に始めるまでは、音楽とは正反対の解体業に従事した、異色の経歴の持ち主でもある。その天平さんにとって、海外へ出たということが、各国で活躍する今の自分を形作る転機になったという。彼のキャリアをひも解くと、海外でチャンスをつかむヒントが見えてくる。

――ピアノはいつから始めましたか?
6歳頃から12歳頃まで、姉が習っていたという理由で始めました。将来ピアニストになろうと真剣にやっていたわけではなく、多くの人がそうであるように習い事の1つでした。その後はピアノから離れ、中学3年生からは引っ越し屋のアルバイトを始めたり、高校にも進学しましたが半年でやめて、肉体労働を転々としていました。

――なぜそこからまたピアノの道へ?
将来の姿を明確にイメージできなかったからです。フィジカルに生きようと思っていたのですが、例えば肉体労働の場合、年上の人を見ても年齢関係なく、給料も変わらず同じ仕事をしている場合が多いです。一度きりの人生ですし、せっかくならもう少し違うことも経験してみたかったので、今の仕事以外に得意なことはあるだろうかと考えた時に、たどり着いたのがキーボードでした。

――そこからキーボードに集中したんですか?
じつは、その後もフラフラしていましたね(笑)。17歳の時にバンド系の音楽を習える大阪の専門学校へ通い始めて、ヴァン・ヘイレンとかボン・ジョヴィとかをカバーしていたのですが、音楽に没頭するという感じではなかったです。それがある時、先生から「お前はやったらできるのに、何でやらへんねん。お前に期待してんねん」と言われてふと我に返りました。もともと、社会のコミュニティから外れて生きてきた人間なので、他人から何かを期待されることはありませんでした。それが他者から強烈な期待を感じて、それ以降は音楽に没頭し、芸大を受験しました。

――芸大の音楽というと、ロックよりクラシックのイメージが強いですが。
音楽専門学校時代にプログレッシブ・ロックにはまったのですが、それにはジャズやクラシックの要素が多分に含まれています。そのため、クラシックをきっちり学ぶことが、自分のキーボードに生きるのではないかと考えました。それが、いざ芸大に通いピアノの音楽を知り出したら、ピアノの方が面白いんじゃないかと感じ始めて……。大学3年生あたりから、徐々にピアニストになろうと考えました。

――曲はすべてオリジナルですが、過去の作曲家のカバーはしないんですか?
私の場合、人が書いた曲を弾くより、自分の感情から生まれた曲を演奏することに楽しみを感じるので、(もちろん要望に応えてコンサートなどで他の曲をカバーすることもありますが)常にオリジナルの曲を弾きます。

――なぜニューヨークに渡ろうと思いましたか?
自分の中で何かしら壁がやってきた時、それがニューヨークへ行く機会だと思っていました。芸大卒業後、2年半は関西で活動していたものの、簡単に仕事は広がりません。モチベーションも下がっていきます。そこで、ニューヨークへ行こうと決めました。ニューヨークを選んだ理由は、ジャズやポップス、ロックなど、いろいろなジャンルのトップミュージシャンが集まる場所で、枠にとらわれない自分の音楽にとって最適の場所だと思ったからです。

――今は欧米を中心に各国でコンサートを成功させるなどご活躍中ですが、国ごとに違いは感じますか?
ニューヨークのアコースティック音楽市場は巨大ですが、万人がジャズやクラシックを肩肘張らず聴きに行くという環境ではありません。その点、クラシックに限れば、欧州は米国より一般化している感じを受けます。欧州内でも違いがあって、フランスは芸術のある環境が当たり前過ぎて、観客も芸術にお金を払うことにシビアですよね。また、(イタリアもそうですが)良くも悪くもストイックさに欠け、社会が緩い分クリエイティブな土壌があります。一方で、ドイツは米国と似てオーガナイズされていますし、経済的にも他と比べ潤っているので、コンサートを開くという点では良いです。

――もっとも印象的だった国はどこですか?
ウクライナとポーランドです。特にウクライナは人々がエモーショナルで、人に底力を感じました。ウクライナは優れたピアニストや作曲家を多く輩出する国でもあるんです。コンサートを開いても、観客の熱気が他国の時よりじかに伝わってくるので、それに呼応された演奏になります。

――海外の活動で、何にもっとも苦労しましたか?
言葉です。コンサートで言葉は必要ないですが、現地エージェントとの調整ではとても重要です。英語なら苦労することは少ないものの、もっとしゃべれれば、さらに違っていただろうなということは常々感じます。

――今後の目標はありますか?
何かを伝え残すことです。それを考えた時に、自分の場合は手段が音楽です。人は皆、死んでいきます。自分の命が単体であると考えれば死ぬことは悲しいことですが、一方で命というのは単体ではなく、過去から未来につながっているとも言えますよね。自分が死んだ後も、いろいろな演奏者が自分の曲を弾いてくれて、聴いてくれる人たちがいる。その中で生き続けられるということが目標です。
(加藤亨延)