高校野球 YouTubeで楽しむ伝説の名勝負・名シーン8選
穿った言い方をすれば、甲子園は「神様は不公平だ」ということを確認するためにある。
同じ時代に生まれた高校生が、同じように毎日ぶっ倒れるまで練習に明け暮れる。努力の総量は変わらないのに、なぜあいつはあんなに凄いプレーができるのか。やはり「天才」は存在するのか?
YouTubeで見ることができるものの中から、そんな「天才」たちのプレー、「奇跡」のパフォーマンスを厳選した。
青森県立三沢高校の太田幸司は、甲子園が生んだ最初の「アイドル」ではないだろうか。アメリカ人を父に持つハーフ。日本人の継父とロシア人の継母に育てられた。甘いマスクに日本全国が沸いた。
やせっぽちだが下半身がしっかりしていた。粘り強い投球で、夏の甲子園を一人で投げ抜き、決勝戦まで進出。引き分け再試合となり、松山商業に2-4で敗れた。
人よんで「コーチャンブーム」。若い女性が甲子園にこんなに熱狂したのは初めてだと思う。大会期間中、太田の両親は入院していて病室から息子を応援したとか、そんなストーリーまで大々的に報じられた。私は母の名前「タマラさん」まで覚えている。
翌年、太田は近鉄バファローズに入団する。まだプロで1球も投げないのにグリコのアーモンドチョコのCMに出演した。
オールスターのファン投票もダントツの1位。太田自身は実力もないのにもてはやされることに苦しんだと言われるが、のちに近鉄の先発ローテの一角を担い、実力を証明した。
作新学院時代の江川卓は本当に速かった。甲子園で実際に見たが、ゆったりしたフォームから軽く投げたボールが唸りを上げてミットに飛び込んだ。
しかし江川は甲子園の覇者にはなれなかった。3年生の夏は2回戦で調子商業と対戦。作新打線も相手のエース土屋正勝(のち中日)を打てず0-0で延長戦へ。
12回裏、雨が降る中、江川はコントロールを乱して満塁に、銚子商業2番長谷川に対してもフルカウントから投じた速球が高めに外れて押し出し、サヨナラ負けを喫した。中学生だった私は、塾の帰り道、傘を差しながら電気店の店先のテレビに釘付けになった。
翌日の朝日新聞は「力尽きた“一人の江川”」と書き、ワンマンチームが団結力のチームに敗れたと評した。
しかし、真相はそうではなかった。
江川は満塁でフルカウントになった時に、マウンドに集まったチームメイトに「ストレート一本で勝負したい」と打ち明けた。キャプテンの鈴木秀一に「お前に甲子園に連れてきてもらったのだから、好きなようにしろ」と言われ、この瞬間に「チームが一つにまとまった」と感じたという。
だから江川は押し出し敗戦になった「あの一球」を「最高のボールだった」と語っている。彼に言わせれば100マイル(161km/h)は出ていたと言う。
太田幸司に続く二代目のアイドルはバンビこと坂本佳一。
愛知県東邦高校1年生でエースとして甲子園のマウンドに立つ。三振より四球が多い荒れ球ながら要所を締める投球で勝ち進み、優勝候補の兵庫県東洋大姫路と決勝戦に。まるで中学のような細い体とあどけない表情が、女性ファンに大人気になった。
坂本は投げた後、前歯がちょっとのぞくのが「たまらなくかわいい」と言われた。
東洋大姫路の松本正志は大会屈指の左腕と言われ、大会後ドラフト1位で阪急に入団したが、バンビ坂本のあまりの人気ぶりに「やりにくかった」と漏らしている。
東洋大姫路の梅谷監督は「坂本にわざと長打を打たせて走らせ、疲れさせろ」と変な指示も出した。結局、坂本は捕手の安井にサヨナラホームランを打たれる。
坂本のピークはこのときだったようで、以後は鳴かず飛ばず。大学、実業団と野球を続けたが、プロには行かなかった。甲子園で燃焼し尽くした選手の一人と言えるだろう。
やまびこ打線こと池田高校は、「攻めダルマ」と言われた蔦文也監督の下、徹底的な「攻めの野球」で80年代の甲子園を席巻した。
1974年から使用が認められた金属バットの特性を生かし、少々芯を外しても振りぬけば飛ぶから思いきり振れ、という指導で大躍進した。
また畠山準(のち南海、大洋)、水野雄仁(のち巨人)と言う好投手にも恵まれ、春夏通じて優勝3回、準優勝2回という実績を挙げた。
しかし、この池田を完全に凌駕するチームが現れた。
大阪のPL学園だ。
1983年夏の大会では、準決勝でPLが池田を7-0で下す。エース桑田真澄、4番清原和博のKKコンビは、他の高校生とは次元の違うパワーを見せつけた。
敗戦後、蔦監督は「ああ負けたな、それだけ」と言った。あまりの完敗に、言葉も出ないという感じだった。この試合を見て、私は「時代は変わった」と実感した。
96年の夏は松山商と熊本工の公立勢同士の決勝戦となった。3-3で延長戦になった10回裏、熊本1死満塁で、熊本工の本多の飛球は右翼定位置あたりへの飛球、だれもが犠牲フライで熊本工がサヨナラ勝ち、と思った。
しかし、右翼の矢野は飛球を捕るとすかさずバックホーム、ボールはノーバウンドで捕手石丸のミット収まる。石丸はすべりこんでくる三塁走者星子の顔辺りにタッチ、審判はアウトを宣した。
まるで勝ったかのような松山商ナイン、落ち込む熊本工ナイン。
事実、次の回に松山商は3点を挙げて優勝するのだ。
松山商の沢田勝彦監督は、満塁になったタイミングで右翼を2年の新田浩貴(本来は投手)から正右翼手の3年矢野勝嗣に代えていた。この交代が奇跡を生んだのだ。
右翼からのバックホームと言えば、イチローのレーザービームを思い浮かべるが、矢野の返球は山なりの「大遠投」。しかしそれが捕手のミットにどんぴしゃで飛び込み、そこに走者が滑り込んできたのだ。
とにかく松坂大輔は規格外の投手だった。
・高校3年で春夏連覇した松坂大輔の成績
春は5試合を一人で投げ抜く。夏は8月20日、PL学園との死闘で延長17回を投げたために翌日は他の投手にマウンドを譲り左翼を守った。8回まで0-6と負けていたが8回4点、9回3点を取ってサヨナラ。松坂は最終回だけマウンドに上がった。
そして決勝。
松坂はこの大舞台でノーヒットノーランを達成するのだ。一番疲れているはずの決勝戦で一番すごい投球をする。こんな投手はいない。
松坂大輔は高校3年の甲子園だけで1400球を投げた。プロ野球なら半年で投げる球数。
以後、プロ野球でも大リーグでも活躍はしたが、彼のピークはこの時だったのではないかと思う。
この夏の酷使が、今の度重なる肘の故障につながっているのかもしれない。
記憶に新しいところだ。早稲田実業の斎藤佑樹と駒大苫小牧の田中将大。
斎藤佑樹は、3年の春に甲子園に初出場、準々決勝で横浜高校に敗退、夏は1回戦で鶴崎工業、2回戦で大阪桐蔭(中田翔がいた)、3回戦で福井商、準々決勝で日大山形、準決勝で鹿児島工業を破って決勝進出。
田中将大は、2年の夏に甲子園の優勝投手となっている。駒大苫小牧はこの時点で夏連覇だった。3年春の甲子園は部員の不祥事で出場できず。夏は2回戦で南陽工、3回戦で青森山田、準々決勝で東洋大姫路、準決勝で智弁和歌山を降して決勝進出。
田中にとっては母校の夏3連覇がかかっていた。
8月20日の決勝戦は1-1のまま両者譲らず15回で引き分け、8/21に再試合となって4-3で早稲田実業が勝った。駒大苫小牧の3連覇はならなかった。
斎藤は4連投、田中は3連投。試合数も斎藤の方が1試合多かったが、最後はハンカチ王子がマー君に投げ勝ったのだ。
斎藤はその頃から技巧派で、130km/hのスライダーで面白いように打者を打ち取っていたが、決勝再試合の終盤はかなり苦しそうだった。9回には本塁打を打たれたが、最後の打者田中将大を三振に打ち取るのだ。
この大会で田中は742球、斎藤は948球を投げた。斎藤の球数は恐らく大会史上最多。この二人も18歳の夏に過酷すぎる経験をしている。
佐賀北高校は公立校。2回目の甲子園だったが、これまで勝ち星はなし。
開会式直後の1回戦第一試合で福井商業を降し甲子園初勝利を挙げると、2回戦は古豪宇治山田商業と延長15回4-4で引き分け。
翌々日の再試合、9-1で宇治山田商を降すとそこから調子に乗り、3回戦で前橋商を5-2で破り、準々決勝は延長13回、優勝候補の一角である帝京に4-3でサヨナラ勝ち。準決勝は長崎日大を3-0で破って広陵との決勝戦に臨んだ。
この時点でも、佐賀北が勝つと思った人は少なかっただろう。無名の公立校に対して、相手は戦前から大選手を輩出してきた名門私学。
事実、広陵は8回まで4-0とリード。「よく頑張ったがここまでか」と思ったのだが、8回裏、突如佐賀北打線が大爆発。副島浩史が逆転満塁本塁打を打ってひっくり返し、優勝したのだ。
佐賀北打線は「がばい打線」とよばれ、今や伝説となっている。優勝ナインで、プロ野球に進んだ選手はいない。大殊勲者の副島も地元の金融機関に就職した。
普通の選手たちが、プロを目指すエリート球児たちに打ち勝ったと言う点でも、痛快な優勝だった。
【執筆:広尾晃】
1959年大阪市生まれ。日米の野球記録を専門に取り上げるブログサイト「野球の記録で話したい」でライブドアブログ奨学金受賞。著書に「プロ野球なんでもランキング」(イーストプレス刊)。
同じ時代に生まれた高校生が、同じように毎日ぶっ倒れるまで練習に明け暮れる。努力の総量は変わらないのに、なぜあいつはあんなに凄いプレーができるのか。やはり「天才」は存在するのか?
YouTubeで見ることができるものの中から、そんな「天才」たちのプレー、「奇跡」のパフォーマンスを厳選した。
1. 1969年夏 太田幸司、4連投45回の力投の末に涙!
青森県立三沢高校の太田幸司は、甲子園が生んだ最初の「アイドル」ではないだろうか。アメリカ人を父に持つハーフ。日本人の継父とロシア人の継母に育てられた。甘いマスクに日本全国が沸いた。
やせっぽちだが下半身がしっかりしていた。粘り強い投球で、夏の甲子園を一人で投げ抜き、決勝戦まで進出。引き分け再試合となり、松山商業に2-4で敗れた。
人よんで「コーチャンブーム」。若い女性が甲子園にこんなに熱狂したのは初めてだと思う。大会期間中、太田の両親は入院していて病室から息子を応援したとか、そんなストーリーまで大々的に報じられた。私は母の名前「タマラさん」まで覚えている。
翌年、太田は近鉄バファローズに入団する。まだプロで1球も投げないのにグリコのアーモンドチョコのCMに出演した。
オールスターのファン投票もダントツの1位。太田自身は実力もないのにもてはやされることに苦しんだと言われるが、のちに近鉄の先発ローテの一角を担い、実力を証明した。
2. 1973年夏 江川卓、雨中の敗戦
作新学院時代の江川卓は本当に速かった。甲子園で実際に見たが、ゆったりしたフォームから軽く投げたボールが唸りを上げてミットに飛び込んだ。
しかし江川は甲子園の覇者にはなれなかった。3年生の夏は2回戦で調子商業と対戦。作新打線も相手のエース土屋正勝(のち中日)を打てず0-0で延長戦へ。
12回裏、雨が降る中、江川はコントロールを乱して満塁に、銚子商業2番長谷川に対してもフルカウントから投じた速球が高めに外れて押し出し、サヨナラ負けを喫した。中学生だった私は、塾の帰り道、傘を差しながら電気店の店先のテレビに釘付けになった。
翌日の朝日新聞は「力尽きた“一人の江川”」と書き、ワンマンチームが団結力のチームに敗れたと評した。
しかし、真相はそうではなかった。
江川は満塁でフルカウントになった時に、マウンドに集まったチームメイトに「ストレート一本で勝負したい」と打ち明けた。キャプテンの鈴木秀一に「お前に甲子園に連れてきてもらったのだから、好きなようにしろ」と言われ、この瞬間に「チームが一つにまとまった」と感じたという。
だから江川は押し出し敗戦になった「あの一球」を「最高のボールだった」と語っている。彼に言わせれば100マイル(161km/h)は出ていたと言う。
3. 1977年夏 東邦高校 1年生投手バンビ坂本の活躍
太田幸司に続く二代目のアイドルはバンビこと坂本佳一。
愛知県東邦高校1年生でエースとして甲子園のマウンドに立つ。三振より四球が多い荒れ球ながら要所を締める投球で勝ち進み、優勝候補の兵庫県東洋大姫路と決勝戦に。まるで中学のような細い体とあどけない表情が、女性ファンに大人気になった。
坂本は投げた後、前歯がちょっとのぞくのが「たまらなくかわいい」と言われた。
東洋大姫路の松本正志は大会屈指の左腕と言われ、大会後ドラフト1位で阪急に入団したが、バンビ坂本のあまりの人気ぶりに「やりにくかった」と漏らしている。
東洋大姫路の梅谷監督は「坂本にわざと長打を打たせて走らせ、疲れさせろ」と変な指示も出した。結局、坂本は捕手の安井にサヨナラホームランを打たれる。
坂本のピークはこのときだったようで、以後は鳴かず飛ばず。大学、実業団と野球を続けたが、プロには行かなかった。甲子園で燃焼し尽くした選手の一人と言えるだろう。
4. 1983年夏 PL学園のKKコンビ、池田高校のやまびこ打線を圧倒
やまびこ打線こと池田高校は、「攻めダルマ」と言われた蔦文也監督の下、徹底的な「攻めの野球」で80年代の甲子園を席巻した。
1974年から使用が認められた金属バットの特性を生かし、少々芯を外しても振りぬけば飛ぶから思いきり振れ、という指導で大躍進した。
また畠山準(のち南海、大洋)、水野雄仁(のち巨人)と言う好投手にも恵まれ、春夏通じて優勝3回、準優勝2回という実績を挙げた。
しかし、この池田を完全に凌駕するチームが現れた。
大阪のPL学園だ。
1983年夏の大会では、準決勝でPLが池田を7-0で下す。エース桑田真澄、4番清原和博のKKコンビは、他の高校生とは次元の違うパワーを見せつけた。
敗戦後、蔦監督は「ああ負けたな、それだけ」と言った。あまりの完敗に、言葉も出ないという感じだった。この試合を見て、私は「時代は変わった」と実感した。
5. 1996年夏 松山商、奇跡のバックホーム。
96年の夏は松山商と熊本工の公立勢同士の決勝戦となった。3-3で延長戦になった10回裏、熊本1死満塁で、熊本工の本多の飛球は右翼定位置あたりへの飛球、だれもが犠牲フライで熊本工がサヨナラ勝ち、と思った。
しかし、右翼の矢野は飛球を捕るとすかさずバックホーム、ボールはノーバウンドで捕手石丸のミット収まる。石丸はすべりこんでくる三塁走者星子の顔辺りにタッチ、審判はアウトを宣した。
まるで勝ったかのような松山商ナイン、落ち込む熊本工ナイン。
事実、次の回に松山商は3点を挙げて優勝するのだ。
松山商の沢田勝彦監督は、満塁になったタイミングで右翼を2年の新田浩貴(本来は投手)から正右翼手の3年矢野勝嗣に代えていた。この交代が奇跡を生んだのだ。
右翼からのバックホームと言えば、イチローのレーザービームを思い浮かべるが、矢野の返球は山なりの「大遠投」。しかしそれが捕手のミットにどんぴしゃで飛び込み、そこに走者が滑り込んできたのだ。
6. 1998年夏 松坂大輔、決勝でノーヒットノーラン
とにかく松坂大輔は規格外の投手だった。
・高校3年で春夏連覇した松坂大輔の成績
春は5試合を一人で投げ抜く。夏は8月20日、PL学園との死闘で延長17回を投げたために翌日は他の投手にマウンドを譲り左翼を守った。8回まで0-6と負けていたが8回4点、9回3点を取ってサヨナラ。松坂は最終回だけマウンドに上がった。
そして決勝。
松坂はこの大舞台でノーヒットノーランを達成するのだ。一番疲れているはずの決勝戦で一番すごい投球をする。こんな投手はいない。
松坂大輔は高校3年の甲子園だけで1400球を投げた。プロ野球なら半年で投げる球数。
以後、プロ野球でも大リーグでも活躍はしたが、彼のピークはこの時だったのではないかと思う。
この夏の酷使が、今の度重なる肘の故障につながっているのかもしれない。
7. 2006年夏 ハンカチ王子vsマー君
記憶に新しいところだ。早稲田実業の斎藤佑樹と駒大苫小牧の田中将大。
斎藤佑樹は、3年の春に甲子園に初出場、準々決勝で横浜高校に敗退、夏は1回戦で鶴崎工業、2回戦で大阪桐蔭(中田翔がいた)、3回戦で福井商、準々決勝で日大山形、準決勝で鹿児島工業を破って決勝進出。
田中将大は、2年の夏に甲子園の優勝投手となっている。駒大苫小牧はこの時点で夏連覇だった。3年春の甲子園は部員の不祥事で出場できず。夏は2回戦で南陽工、3回戦で青森山田、準々決勝で東洋大姫路、準決勝で智弁和歌山を降して決勝進出。
田中にとっては母校の夏3連覇がかかっていた。
8月20日の決勝戦は1-1のまま両者譲らず15回で引き分け、8/21に再試合となって4-3で早稲田実業が勝った。駒大苫小牧の3連覇はならなかった。
斎藤は4連投、田中は3連投。試合数も斎藤の方が1試合多かったが、最後はハンカチ王子がマー君に投げ勝ったのだ。
斎藤はその頃から技巧派で、130km/hのスライダーで面白いように打者を打ち取っていたが、決勝再試合の終盤はかなり苦しそうだった。9回には本塁打を打たれたが、最後の打者田中将大を三振に打ち取るのだ。
この大会で田中は742球、斎藤は948球を投げた。斎藤の球数は恐らく大会史上最多。この二人も18歳の夏に過酷すぎる経験をしている。
8. 2007年夏 佐賀北の大逆転優勝
佐賀北高校は公立校。2回目の甲子園だったが、これまで勝ち星はなし。
開会式直後の1回戦第一試合で福井商業を降し甲子園初勝利を挙げると、2回戦は古豪宇治山田商業と延長15回4-4で引き分け。
翌々日の再試合、9-1で宇治山田商を降すとそこから調子に乗り、3回戦で前橋商を5-2で破り、準々決勝は延長13回、優勝候補の一角である帝京に4-3でサヨナラ勝ち。準決勝は長崎日大を3-0で破って広陵との決勝戦に臨んだ。
この時点でも、佐賀北が勝つと思った人は少なかっただろう。無名の公立校に対して、相手は戦前から大選手を輩出してきた名門私学。
事実、広陵は8回まで4-0とリード。「よく頑張ったがここまでか」と思ったのだが、8回裏、突如佐賀北打線が大爆発。副島浩史が逆転満塁本塁打を打ってひっくり返し、優勝したのだ。
佐賀北打線は「がばい打線」とよばれ、今や伝説となっている。優勝ナインで、プロ野球に進んだ選手はいない。大殊勲者の副島も地元の金融機関に就職した。
普通の選手たちが、プロを目指すエリート球児たちに打ち勝ったと言う点でも、痛快な優勝だった。
【執筆:広尾晃】
1959年大阪市生まれ。日米の野球記録を専門に取り上げるブログサイト「野球の記録で話したい」でライブドアブログ奨学金受賞。著書に「プロ野球なんでもランキング」(イーストプレス刊)。