タモリを特集した「クイック・ジャパン」vol.41(太田出版、2002年)。本人のインタビューこそないものの、山下洋輔の特別寄稿をはじめ、詳細な年譜などを収録した完全保存版。

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第1回、第2回より続く

■“リスペクト・フォー・タモリ”ブーム
2000年前後ぐらいから、ふたたびタモリブームが訪れます。何がきっかけだったのかはよくわかりません。ただ、タモリが自分の趣味を以前にも増しておおっぴらにし始めたのがちょうどこの頃だったようです。2000年末にゲスト出演した「徹子の部屋」では、電車に乗り運転席の後ろから車窓を眺めていたところ、近づいてきた中年男性から「線路、やっぱりお好きですか」と聞かれた……という話を披露しています。21世紀に入ると「タモリ倶楽部」で鉄道をとりあげた回が増え、タモリ=テツというイメージはすっかり世間に定着しました。

同時期には、コージー冨田によるタモリのモノマネが、原口あきまさの明石家さんまのモノマネとセットで人気を集めました。そこで真似された「笑っていいとも!」の「テレフォンショッキング」での「髪切った?」というお決まりのセリフなどは、みんなが薄々感じていたタモリの変さを的確に表現したものだったといえるでしょう。

タモリについてはこのほか、サブカルチャー誌「クイック・ジャパン」のvol.41(2002年3月)で特集が組まれています。こうしたタモリブームを、消しゴム版画家でコラムニストのナンシー関は、《正確に言うと、「リスペクト フォー タモリ」ブームだ。タモリにリスペクトを捧げるのが流行っているのである》と評しました(「噂の真相」2002年3月号)。少し長いですが、引用すると……

《今の「タモリを良しとする」は、かつてモンティ・パイソンの番組に出ていたりした頃から「今夜は最高」あたりまでの「やっぱりさ、タモリっておもしろいよな」というものとはつながっていない。その後、「本気になりさえすれば」というまるでかつての「ジャンボ鶴田最強説」信者みたいなお笑いマニアタモリ派の影も徐々に薄れ、まるで風景のようになってしまったタモリに至るのである。みんなが見ているけれども、誰も見つめてはいないというある意味「テレビタレント」の一つの到達点に至ったと言ってもいいかもしれない。もうタモリは何も期待されていないのである。期待されなくてもいいという所にいたのである》

前回とりあげた、90年代における吉川潮や高田文夫のタモリ批判は、まだどこかに彼に対する期待を残していましたが、ここへ来て「タモリは期待されなくてもいいところに達した」というのです。

ナンシーは「まるで風景のようになってしまったタモリ」とも書いています。そういえば、前出の「クイック・ジャパン」でのタモリ特集にジャズミュージシャンの菊地成孔が寄せたエッセイのタイトルは、「昼間から素っ裸のガールフレンドはブラウン管を見つめて『いつかタモリが死んだときにどんな気持ちになるかしら? 全然わかんない』と言った」というものでした(本文の内容とはあまり関係ないのですが)。もはやこの時点で「いいとも」におけるタモリは、わざわざ批判するのも野暮なほど、風景や空気にも近い存在になっていたのかもしれません。

面白いのは、風景となったタモリがその後、東京の坂道や町並みなど文字通りの風景の観察者として人々の共感を得ていったことです。ある出版社役員とともに「日本坂道学会」を結成し、2004年には雑誌連載をまとめた『タモリのTOKYO坂道美学入門』を出版、テレビでも「タモリ倶楽部」にNHKの「ブラタモリ」と、この手のテーマをとりあげることが大幅に増えました。ナンシー関がこうした流れを見届けることなく、2002年、先の「噂の真相」のコラムを発表した数カ月後に亡くなったのは惜しまれるところですが。

■タモリは「おじいちゃん」になりたい?
いや、ナンシーは現在のタモリの位置づけをかなりの精度で予見していたような気もします。というのも、亡くなる4年前に彼女は、《タモリは自分の番組の中で「おじいちゃん」になりたがっている。この「おじいちゃん」願望は、ここ最近でめっきり強くアピールされるようになったものでもある》と書いているからです(「週刊朝日」1998年1月30日号)。

《「父」や「兄」と比べると「祖父」というのは無責任感を漂わせる続き柄である。「祖母」の持つ郷愁みたいなものも薄いし。そのあたりをふまえると、タモリは最近の「おじいちゃん」的司会者という境遇を、やぶさかではないとしているはずである》

ナンシーはまた、タモリがかつて《得体の知れない通りすがりの、もしくは近所に住んでるけど素性のわからない「他人」的司会者を標榜したがっていた》ことを指摘しつつ(事実、タモリ本人も過去にそのような発言をしています)、《関係性を持たない「他人・通行人」的立場より、「おじいちゃん」的というのは、より規制がないのかもしれない》とも述べています。

デビュー以来のタモリを踏まえたうえで、彼が50代の時点でその将来の位置づけも含め、ここまで見抜いていたナンシーの慧眼にあらためて驚かされます。

では、タモリが「おじいちゃん」になりたがっているとして、具体的な理想像があったりするのでしょうか? これについて、タモリの才能を見出したジャズピアニストの山下洋輔は、《タモリは森繁久彌さんに憧れているそうです》と意外な事実を明かしています(「週刊文春」2009年1月1・8日号)。もっとも、タモリの過去の発言をひもとけば、その伏線はかなり前から用意されていたことがわかるのですが。

1985年の山藤章二との対談で、タモリは森繁久彌とドラマで共演したときのことを語っていました。台本の読み合わせの際、森繁の横に座ったタモリは、テーブルの上にヨットの本が置いてあることに気づき、手に取ったそうです。そこへ森繁が、ふいに「お前、船が好きか」と訊ねてきたことから、「森繁節」と呼ばれる独特の語りが始まったとか。タモリが再現したところによれば、こんな感じ。

《(眉間にしわを寄せて森繁の口調で)「お前、船が好きか」「ハッ、もう小さい時からクルーザーを持つのが夢でした。で、だんだんとその方向に近づきたいと思ってます」「フフーン。ま、いいことだよ、それはね。お前みたいなバカなことやってねェ。この前も見てたぞ」って、結構知ってんですね(笑)。(中略)「バカなことやって、それはいい。仕事だから、なにやってもいい。でも、趣味だけは高尚なものを持て。ヨットは最高の趣味だぞ、お前。男にとっては、なァ。だからそうやって目標を持ってヨットを買うんだぞ。やんなさい」っていうから、僕は「ははァ」って、まわりの人もシーンとして聞いている。「お前、ヨットはいいぞ。夕陽が向こうに沈むねェ。ヨットをスーッと出して行くんだよ……。沖に出て、この辺でいいかと思った時に、静かに錨をおろす……」あ、やっぱりすごいなと思って「はァ」って。「そうした時に……、わからんだろうけどね、もう、女は貞操観念ありませんよォ」(爆笑)》(『「笑い」の解体』)

周囲も緊張しながら聞いていたというのに、このオチ。タモリは、森繁が自分の権威を笠に着るのではなく、逆に権威を利用し落としてみせたことに、感心しています。なお、タモリが夢への第一歩として一級小型船舶操縦免許を取得したのは、1995年のことでした。

放送作家でお笑い評論家の西条昇は、タモリを、戦前から戦後にかけて活躍した喜劇人であるロッパ(古川緑波)になぞらえています。どういうことかというと、両者は同じく早大中退で、30歳をすぎてモノマネ芸で世に出た点で共通するというのです(『東京コメディアンの逆襲』)。

この説にならえば、森繁もまた早大中退で、戦前に俳優としてデビューしたもののなかなか芽が出ず、戦時中は旧満州の放送局でアナウンサーをしたりと紆余曲折を経て、30代後半にしてようやくブレイクしたという点で、ロッパ〜タモリの系譜に組みこめます。

さらにいうなら、タモリのデビュー以来の持ちネタとして知られるインチキ外国語も、森繁が映画「スラバヤ殿下」(1955年)で披露したのが本家本元とする説もあります。そもそも森繁は、コメディアンになろうとして芸能界に入ったわけではありません。たまたまブレイクしたのが喜劇映画だったというだけです。その経歴からいっても、タモリと同じく、いわゆるコメディアンとしては異端だといえます。こうして見ていくと、タモリが森繁に親近感から憧れを抱いたとしても、まったくおかしくはないでしょう。

■「いいとも」から消えたタモリ
タモリはこの8月22日で68歳になります。年齢的にはすでに老人の域に達しており、そこへ来て「いいとも」でタモリが出てこないコーナーが目立ってきたことから、番組自体がそろそろ終わるのではないかとの憶測も飛び交っています。なかには、約25年前の「今夜は最高!」終了の顛末を引き合いに出した記事もありました。

これは、「今夜は最高!」の裏でとんねるずの「ねるとん紅鯨団」が始まったことから、スポンサー側が「タモリひとりだけでは心許ない」と発言したのにタモリが激怒、自分から降板を申し出たという話です。もっとも、長年「今夜は最高!」を手がけてきた高平哲郎は、タモリは怒ったりはしないと、この話を否定しています(『今夜は最高な日々』)。

私には、タモリが「いいとも」のコーナーに出て来なくなったのには、べつの意図があるように思えます。というのも、「いいとも」の元プロデューサーの佐藤義和が、著書で次のようなエピソードを明かしているのを読んだからです。

それは「いいとも」が放送開始からちょうど5年を迎えた1987年10月、佐藤が同番組のプロデューサーになったときのこと。彼は就任するや、あきらかにマンネリ感のただよっていた「いいとも」をあと5年続けるにはどうしたらいいかを考え、ディレクターは全員、出演者も大幅に入れ替えました。

この改革を断行した直後、佐藤はタモリから青山のバーに呼び出されます。何事かと思いきや、タモリは何も話そうとしない。けっきょく真夜中まで一緒にいたものの、まともに話さないままその日は別れます。タモリからの呼び出しは翌日もあったものの、前夜と同じく彼は何も言わない。

そんな夜が1カ月続いたある晩、バーを出るとき、タモリが送ると言い出します。そしてタクシーに同乗した佐藤が、自宅の前で降りようとすると、タモリはこんな一言を発したのでした。「佐藤ちゃん、今度の改革、成功だったね」と。

《彼は、私がプロデューサーとして信用できるかを1カ月間、観察していたのだろう。私を観察しながら、番組の成り行きを観察し、やっと「君を信用するよ」というOKのサインを出してくれたのである。独特の念の入りようであるが、私は、とてもうれしかった》(『バラエティ番組がなくなる日』)

この話を読むにつけ、タモリは今回もまた、テコ入れをはかる「いいとも」スタッフやほかの出演者たちを、楽屋から観察しているように思えてなりません。

「いいとも」を終わらせるという決断は、果たしてタモリ自身が下すのでしょうか。それとも持ち前の無責任さから、プロデューサーなり誰かにゆだねるのでしょうか。まあ外部の人間がいくら考えても、それは下司の勘繰りにしかすぎないわけですが。

しかしいざ「いいとも」が終われば、それなりに喪失感を抱く人はけっして少なくないでしょう。私としては、「いいとも」の司会からタモさんが降板するとしても、「森田一義アワー」という看板は外さずに、ときどき思いついたようにアルタに立ち寄ってくれるというのが、いちばん理想的なんですがね。それこそ、山下洋輔たちが騒いでいるホテルの一室にフラッと現れ、強烈な印象を残していったように――。(近藤正高)