/東北に「同情」する以前に、我々はもともとみな同一。だれもがいつ災害にあっても不思議ではない。なのに、またぞろ、金だ、不動産だ、マンガだ、アニメだ、セレブだ、オサレだ、と、この必至の現実から目を背けている場合か?/

 東北の話で盛り上がっているところで悪いが、1995年の阪神淡路大震災は忘れたのか? 1989年から六年間にも渡る雲仙普賢岳噴火との苦闘はどうした? 直近の被災地への「同情」にかまけて、これから我々自身に襲いかかる恐ろしい災害から目を背け、遠ざけ、忘れたのでは、本末転倒。同情もなにも、支援されるべき被災地の「彼ら」と、それを支援する「安全圏」の我々が、別々にいるわけではない。我々はみな同一。だれもがともに災害と隣り合わせ。生きとし生けるすべての人は、いつ災害で死んでも不思議ではない。

 今あるものは次の瞬間にもあることを保証されていない。今夜、眠り、明朝、目覚める根拠などない。今日、確かなものこそ、明日、崩れ去る。実際、95年の1月16日の晩、もう明日は来ない、などと覚悟して床に就いた者がいただろうか。11年の3月11日の朝、通勤通学に出るとき、夕べには帰るべき家も家族も跡形無くなるなどと思った者がいただろうか。そして、それが今日のあなたではないなどと、なぜあなたは思えるのか。

 あの涙の止まらぬ災害のさなかに、天罰だ、などと言い切ったバカがいたが、それこそ天罰が下る。17世紀の哲学者デカルトは、すべての瞬間に神の再創造の恩寵が働いていると考えた。今日があり、明日があることへの神仏への感謝無しに、人の命は無い。いや、いかに神仏に感謝を捧げたところで、神仏の思慮は人智には計り知れず、すべての災害は、ダモクレスの剣のごとく、つねにすべての人々の頭上にある。どんなに高い塔を建てようと、天空をしのぐことはかなわず、地上の災害を免れることはできない。

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