かわいい赤ちゃんにはやたらと口づけがしたくなる。

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コネタにも度々登場させておりますが、筆者には生後6ヶ月になる長男がいます。離乳食も始まり、ハイハイもし始め、表情も豊かになって、どんどんかわいくなる赤ちゃん長男。親バカといわれてしまいそうですが、心から愛してやまない存在であります。

それは筆者に限らず、わが妻にもいえること。とにかくヒマさえあれば赤ちゃん長男をつかまえ、ハグし、チュッチュ、チュッチュと口づけをしている。チュッチュ、チュッチュ。チュッチュ、チュッチュ……。って、待てよ! やりすぎだろう、口づけ。

いや、しかし。気付けば筆者も、事あるごとに赤ちゃん長男に口づけをしまくっている。頭にチュッ。オデコにチュッ。ホッペにチュッ。手とか足とかおなかにもチュッ。冷静に自分を見つめると「キス魔!?」とちょっぴり恥ずかしくもなるのだが。

しかしコレ、赤ちゃん長男に口づけをしてしまうのは、ほとんど無意識の行動といえる。誰に頼まれたわけでもないし、誰かのマネをしているのでもない。ただただ赤ちゃん長男のかわいさのあまり、自然と出てしまう愛情表現なのだ。

振り返ると、上の子が赤ちゃんのときにも筆者は口づけをしまくりだった。他人の赤ちゃんに対してはさすがに自制するが、兄弟や友人など近しい間柄の赤ちゃんにも、ついつい口づけをしてしまう。もっというと、ペットのイヌやネコやハムスターにもチューをしたくなる。いやいや、それ以前に愛する妻にだって、ひと昔前までは一日一回くらい口づけをしたものだ。いや、ひと昔前の話ですけど……。

人はなぜ、愛情表現に口づけを用いるのだろうか? まず、口づけの歴史から見ていこう。口づけ=キスには、和モノというよりは洋モノの雰囲気が漂う。おそらく、原点は外国にあるのではないか。と思い調べてみると、「新約聖書」には、イエスにユダがキスをする記述があるという。「新約聖書」が書かれたのは紀元前1世紀〜2世紀頃といわれているので、少なくとも2000年以上前から、西洋には口づけの文化があったと考えられる。

では、日本における口づけの歴史はどうか。平安時代、紀貫之(きのつらゆき)という歌人がいた。貫之は935年頃、土佐国から京へ戻るまでの出来事を綴った日記文学「土佐日記」を記したが、その中には「口吸」という表現が出てくる。内容としては、「京へ戻らなくてはならないので恋人に会えず寂しさ募り、代わりに押し鮎にチューをした」といったもののようだが、これを見るにつけ、わが国にも1000年以上前には口づけがあったと想定されよう。

ただ、貫之の記した「口吸」は、性的な意味合いのものである。ところが、欧米では挨拶代わりとしても口づけが交わされる。ロシアやフィンランドの一部では、親愛の情を示すべく、男性同士でも唇を重ねて口づけをする習慣があるらしい。挨拶なのだから、当然、身構えることなく自然と、無意識に欧米人は口づけをしているのだろう。

挨拶としての口づけは、日本では定着しているとは言いがたい。初対面はもちろんのこと、たとえば顔見知りの女友達や、友人の彼女、奥さんなどに、挨拶だからといって口づけをしようとすれば、間違いなく拒否される。場合によっては、通報されてしまうだろう。強制わいせつ罪でお縄とか、イヤだ。

しかしながら、欧米の影響もあるのだろう、恋愛関係や夫婦関係、親子関係などの間柄では、愛情表現のひとつとして、性的というよりは挨拶に近い意味合いとして、日本人も自然と口づけを用いる場合が増えているのではないだろうか。

ちなみに、チンパンジーなど動物の中にも、口づけを交わす種類がいるという。とすれば、人間が行う愛情表現としての口づけも、誰かが考えて始めた行為というより、本能的なものといえるのかもしれない。

ところで、かの太閤・豊臣秀吉は、まだ幼い息子・秀頼に、こんな手紙を送っている。「やがて参りくちをすひ可申候」。現代語に訳すと、「近いうち、そっちに行ったら、口を吸うぜ」となるらしい。つまり、「パパがチューしちゃうからね」というわけである。昔も今も、わが子かわいさに口づけを用いるのは、変わらないのである。
(木村吉貴)