その昔、今や伝説のテレビ番組となった「三菱ダイヤモンドサッカー」を毎週夢中になって見ていた頃には、アーセナルやインテル、或いはバイエルン・ミュンヘンといった世界的な強豪クラブで日本人選手が活躍する時代が来ることなど想像すら出来ませんでした。思えば40年以上も前のことになるわけですが、当時15,6歳の少年であった私にとって、美しい緑の芝生に華やかな色のユニフォームに身を包んだ選手達が満員の観客の前で躍動する当時のイングランド1部リーグやブンデスリーガは、全く違う次元の御伽の国の出来事のように映ったものです。

「三菱ダイヤモンドサッカー」開始直後は、BBCのフットボール中継を(何と前半、後半を2週間掛けて放映!)そのまま流していたのですが、当時全盛を誇っていたダービー・カウンティやリヴァプール、そしてトットナム、マンチェスター・ユナイテッドといったクラブは、身近であったJSL(日本リーグ)のヤンマー(セレッソ大阪の前身)や日立(柏レイソルの前身)、或いは三菱重工(浦和レッズの前身)や古河電工(JEF千葉の前身)と比べると、遥か雲の上の存在でした。

イングランド・リーグの後には、1970年のW 杯メキシコ大会がオンエアされ、その後に放映されたシリーズが、ブンデスリーガであったように記憶しています。当時はボルシア・メンヘングラッドバッハが強く、王者のバイエルン・ミュンヘンや1FCケルン等としのぎを削る時代でしたが、ベッケンバウアー、ゲルト・ミュラー、ブライトナー、ヘーネス、シュバルツェンベック、マイヤー等のバイエルン勢が西ドイツ代表(当時)の6割前後を占めていたことを見ても分かるように、また其の頃にバイエルンがチャンピオンズカップ(チャンピオンズリーグの前身)3連覇を果たしたことを見ても分かるように、バイエルン・ミュンヘンは特別な存在でした。そしてそれは今日に至るまで変わりません。そう、ドイツに於いてバイエルン・ミュンヘンはリーガ創設以来、タイトル数、代表への選手供給数等に於いて常に他を圧倒する特別なクラブであり続けているのです。世界のフットボール史上に於いても、レアル・マドリードやマンチェスター・ユナイテッド等と並んで世界の歴代ベスト5に入る傑出したクラブであることは間違いありません。

そんなクラブに今季、日本の若武者が入団致しました。言うまでもなくガンバ大阪育ちの宇佐美貴史選手でありますが、前述のように昔からフットボールを見続けているオジサンにとっては、日本人選手にバイエルンのようなクラブからオッファーが届くこと自体が夢のような出来事であります。確かに奥寺康彦氏という偉大な先人が同じドイツで歴史を開き、中田英寿氏が本場カルチョの国でユベントスやACミランを相手にゴールを叩き込んでくれましたが、彼らが所属したクラブは格で言うとバイエルン・ミュンヘンには遠く及びません。バイエルンのようなクラブがオッファーを出し、獲得に乗り出すということは大変に名誉なことなのです。


そして、そんな宇佐美選手が先日行われたドイツ杯2回戦で、途中出場ながら遂にゴールを決め、勝利に貢献したわけですが、この得点は非常に大きな価値があったと感じた次第です。何故ならば、この試合が自らのミスで相手にゴールを献上してしまったリーガ第2節のヴォルフスブルグ戦以来約2か月半ぶりに出場機会を得た場であり、見事に雪辱を果たすことが出来たからです。ヴォルフスブルグ戦では、彼の安易なプレーからボールを掻っ攫われ、そのミスから一気に失点に結びついてしまったことが響いて、途中出場であるにもかかわらず交代させられてしまうという屈辱を味わいました。この試合で宇佐美選手は軽率で軟弱なプレーをドイツ人が最も嫌うことを肌で感じたと思いますが、あのような失態を犯すと、ドイツ人サポーターは「肉を食え、肉を!」と言って罵倒するのだそうです。足先が器用でパスセンスはあっても、力強さ、堅実さが身に付かないと所詮半人前というのがドイツフットボールの根底に流れる精神であり、エジル選手やポドルスキー選手もそんな文化、土壌の中で自らを奮い立たせながら大選手への階段を駆け上がって行きました。Jリーグやアジアの舞台では通用したボールコントロールも、本場では時として通じず、それが致命的なミスに繋がる危険性をはらんでいることを宇佐美選手は身を持って学んでいるのです。