「こんなことが起きていいんだ…?」と語る大和田美帆さん。コロナ禍で母・岡江久美子さんを亡くして4年半。いまだに複雑な感情を抱えたまま、今に至ると明かします。(全5回中の3回)

【写真】岡江さんの生前、娘と親子3世代で旅行に行った際の大和田美帆さん など(全14枚)

最後に母の声を聞いたのは電話だった


── 2020年4月23日にお母さまの岡江久美子さんが亡くなって約4年半。最後に声を聞いたのが電話だったそうですね。

大和田さん:3月末、母の熱が出始めたころですね。私は普段から感染を気にしていたんですけど、母は「大丈夫よ」なんて言っていて温度感の違いで少しけんかになってしまって。私も母もまさかコロナに感染するなんて思っていなかったのですが、それが最後の会話になってしまいました。

── 改めて当時の状況についてお聞かせください。まず、2019年12月末に乳がんの手術をされていたそうですね。

大和田さん:母は、私と父にも乳がんのことを内緒にしていて、手術する2、3日前に初めて母から病気について聞かされたんです。もう、びっくりして泣きましたよ。手術もつき添わなくてもいいと言われましたが、無理やりつき添いました。その後、年が明けて2020年1月から放射線治療を始めて、3月末あたりまで続いたのかな。母は乳がんを世間に公表するつもりはなかったようですが、母が亡くなったときに、今までの流れを説明しないといけないと思って、母の意に反してしまったかもしれませんが、一緒にお伝えしました。

── 3月末ころから咳が出始めたそうですが、乳がん手術後、1月から3月の間はどのように過ごされていましたか?

大和田さん:放射線治療をしながら仕事もしていましたね。2月くらいに船のニュース…、ダイヤモンド・プリンセス号のニュースを見て「怖いねぇ」と一緒に話していたし、3月には志村けんさんがお亡くなりになって、母と「けんさん、亡くなっちゃったね…」といった会話もしていたんです。母の熱がで始めたのが、志村さんが亡くなって数日後。しばらく自宅で様子を見ていましたが、ご飯が徐々に食べられなくなって、倦怠感も出てきたようで。

4月6日、なかなか体調がよくならないので、父と一緒に病院に行くことに。ただ、母もまさか自分が入院するなんて思ってもいなかったからいつものバックだけ持って歩いて行ったんです。父の話だと、医者に「10のうちどれくらいつらいですか?」「6です」と答えたそうですが、酸素濃度は80前半だったようで。母が息苦しさとか自覚症状があったのかどうかわかりませんが、その場でコロナと診断がついて即入院。すぐに人工呼吸器もした方がいいと言われました。

── 予期しなかった展開ですね。

大和田さん:父が急いで入院グッズを取りに帰ってる間にも状況が変わって、ICU(集中治療室)で気管挿管(口腔から管を挿入すること)をした方がいいと。一度挿管すると10日間は眠ったままになると聞いて、母は、「不安だけど10日後にはよくなってるといいな」って言っていたそうです。私には「美帆には大丈夫って伝えておいて」って父から伝言されたのが最後。ほんと、あれよ、あれよという間に信じられないっていう言葉がいちばん合うんですけど、数日前まで母とメールしていたのに、こんなことが起きていいんだ?って思うのがやっとでした。

「こんな弱ってる僕にそんなこと言わないでくれ」

左から母・岡江久美子さん、真ん中・大和田さん、右・娘さん

── 当時は緊急事態宣言も出ていて、家族ですら面会もできない時期だったとか。

大和田さん:4月6日から亡くなった23日まで、この時期がいちばん地獄でした。私と父は離れて暮らしていたので、1日1回先生から父の携帯に母の症状を伝える電話が掛かってきて、父から私にも内容を伝えてもらっていたんです。

私は娘とふたりで暮らしていましたが、病院の近くに住んでいても中に入れない。父だって愛する妻がこの中にいるってわかっているのに入れない。コロナ禍初期で、より緊張感があった時期かもしれませんが、何かせずにはいられなくて、防護服を着て母のところに行きたいって言ったけどダメ。母の携帯が近くにあるだろうから、母に音楽を流させてくれないか。または、孫の声が好きだから孫の声を聞かせてあげられないか。あと、はしご車を借りて外から母を見たいとか、いろいろ提案したんですけど、すべて父が却下。父は病院から毎日電話をもらっていたので、電話の後ろから医療従事者たちが逼迫しているのがわかると言うんです。父はとても真面目なんですけど、母の入院中に何度かけんかしました。父に「こんなに弱ってる僕にそんなこと言わないでくれ…!」って言われてから私も何も言わなくなりましたが、病院から掛かってくる電話をただただ待つしかできないのは、私も父も本当につらかったです。

── 病院からの電話ではどんなお話をされたのでしょうか?

大和田さん:「あんまりよくなってないですね」から始まって「もっと悪くなった」後半は「厳しいです。延命しますか?亡くなったらひとりしか会えないです」「危篤です」って、すべてトントントンって話が進み、こんな大事な話も電話で聞かなきゃいけないんだって悲しかったです。日本でもコロナに対して今以上に知識や情報がない時期だったし、父もわかりましたっていうしかないですよね。

── お亡くなりになったときは、病院から連絡が来たのでしょうか。

大和田さん:「亡くなりました」「わかりました」と言って父がひとりで病院に行きましたが、そのまま荼毘に付したので、母は家に戻って来なかったんです。都内でも受け入れるところがなかったようで、千葉の方まで行ったようですが詳しいことはわからないまま、遺骨になって帰ってきたのがあの映像ですね。自宅の前で葬儀会社の人なのかな。お骨を直接渡せないからと家の前に置いて、後から父が受け取って。私もテレビで観て言葉を失いました。

何から感染するかわからないからと、母のバッグも燃やされちゃったし。火葬場にも行っちゃいけないと言われましたが、仕方がなかったと頭でわかっていても、どうしてなのか当時からわからないまま今に至ります。 いまだにこんなことが起きるんだなといった感情を抱えながら、今できることを自分なりにやっているところです。

PROFILE 大和田美帆さん

おおわだ・みほ。1983年生まれ。東京都出身。2003年、舞台『PURE LOVE』でデビュー。ミュージカル『阿国』、音楽劇『ガラスの仮面』、『アマデウス』、『ハリーポッターと呪いの子』など多くの舞台で活躍。「チョイス@病気になった時」にMCとして出演中。1児の母。

取材・文/松永怜 写真提供/大和田美帆