「年収103万円の壁」は“誤解だらけ”…実は「130万円の壁」のほうが重要? 壁“引き上げ”の「知られざる問題点」【弁護士解説】
10月に行われた衆議院議員選挙の結果を受け、政党間の政策協議をめぐって「扶養」の範囲内でパート・アルバイトで働く人々の所得税に関する、いわゆる「年収103万円の壁」の金額の「引き上げ」が話題になっている。
実は「年収の壁」は「103万円の壁」の他にも複数あり、それぞれの中身や互いの関係が必ずしも十分に理解されているとはいえない。それらはどのようなしくみなのか。また、どんな「問題」があるのか。労働問題・税法に詳しい荒川香遥(あらかわ こうよう)弁護士(弁護士法人ダーウィン法律事務所代表)に聞いた。
「年収の壁」は、所得税や社会保険料の計算において、年収がその額を超えると優遇措置が受けられなくなる現象をいう。
では、いま話題になっている所得税の「年収103万円の壁」はどのようなものか。
荒川弁護士: 「103万円という金額は、雇用されて労働者として働き、給与を受け取っている人であれば、誰しも無条件で非課税になるラインです。
所得税の計算上、すべての人が年48万円の『基礎控除』があります。これに加え、雇用されて給与を受け取る人は年55万円の『給与所得控除』を受けられます。これらの合計が103万円なのです。
加えて、年収103万円を超えると、扶養者が『配偶者控除』または『扶養控除』を受けられなくなります。年収が103万円を超えないように『働き控え』が行われる理由は、単に本人が課税されるだけでなく、それに加え扶養者が『控除』を受けられなくなって損をするからです。
配偶者の場合はこの後に述べるように緩和措置がありますが、学生のアルバイトにとっては大きな『壁』になりえます」
パート主婦等は「103万円の壁」を気にしなくてもいい同じパート・アルバイトでも、学生と、扶養されている主婦(以下、主夫も含む)とでは事情が異なる。後者の場合、所得税との関連で気にすべきは、むしろ「150万円の壁」と「210万6000円の壁」だという。
荒川弁護士: 「年収103万円を超えても『配偶者特別控除』という制度があります。これは、扶養者が最大38万円の控除を受けられるというものです。
専業主婦を扶養する人が年38万円の『配偶者控除』を受けられることとの『バランス』をとるために設けられた制度です(【図表1】参照)。
まず、年収150万円までは、扶養者の年収が900万円以下ならば38万円満額の控除を受けられます。これを『150万円の壁』といいます。
次に、被扶養者が年収150万円を超えたら、段階的に控除額が引き下げられていき、年収210万6000円になると控除額がゼロになります」
主婦の場合は、所得税の「103万円の壁」を超えてもこれらの緩和措置が段階的に適用されるので、さほど気にしなくてもよいということになる。
「年収の壁」は所得税だけでなく、社会保険料(健康保険・厚生年金保険)にもある。「130万円の壁」(人によっては「106万円の壁」)である。
荒川弁護士: 「年収130万円を超えると、社会保険の『扶養』を外れ、自分自身が社会保険に加入する義務を負います。これが『130万円の壁』です。
ただし、従業員50人超の事業所で働く人は『壁』が低くなることがあります。年収106万円(厳密には賃金月額8万8000円)を超えるなどの条件をみたすと、社会保険への加入義務を負うことになるのです。これが『106万円の壁』です。
『130万円の壁』『106万円の壁』については、所得税の『配偶者特別控除』のような激変緩和の制度がなく、壁を超えるといきなり満額の社会保険料の負担が発生します。
したがって、パート・アルバイトで働く主婦で『働き控え』を考える場合、最も気にすべきは『130万円の壁』か『106万円の壁』だということになります」
社会保険料の「壁」に対する“政府の緩和策”ただし、人手不足が深刻化する中、政府は社会保険料に関する「130万円の壁」「106万円の壁」について、2023年10月から「 年収の壁・支援強化パッケージ 」と呼ばれる緩和策を実施している。その結果、過度に「働き控え」をする必要はなくなっているという。
荒川弁護士: 「まず『130万円の壁』については、繁忙期等のため労働時間が長くなって一時的に収入が上がり、結果として年収130万円を上回ったとしても、事業主による証明があれば扶養にとどまることができます。
次に、『106万円の壁』については、事業主が、労働者の年収が106万円を越えた場合に、その人の手取りの額を減らさないために『昇給』『社会保険料の肩代わり』などをすれば、その事業者に対し労働者1人あたり最大50万円の『助成金』を支給するものです。
その結果、社会保険料の『年収の壁』については、過度に気にしなくてもいい状態になっているといえます」
「物価上昇」「最低賃金引上げ」に対応できていない「年収の壁」はなぜ問題視されているのか。「壁」の存在は、所得獲得に向けられた活動を抑制する面があり、国の視点からみると、税収や社会保障の財源の減少につながる。
では、一般国民の視点からはどうか。荒川弁護士は、主に以下の3点が指摘されるという。
①物価上昇・最低賃金の引上げに対応できていない
②女性の社会進出を妨げている
③老後のための資産形成に支障をきたす可能性がある
まず「①物価上昇・最低賃金の引上げに対応できていない」について。
荒川弁護士: 「『年収の壁』はいずれも、定められた時から金額が変わっていません。しかし、物価は上昇してきており、最低賃金も引き上げられています。
最低賃金の全国加重平均額は2005年時点で『時給668円』でしたが、2024年10月には『1055円』と、1.5倍超にもなっています(【図表2】参照)。
もし『働き控え』をするなら、単純計算で労働時間を20年前と比べて3分の2未満に減らさなければなりません。『家計の足し』にするにしても、厳しくなっています」
ごく最近になって設けられた「106万円の壁」を除くと、「年収の壁」が設定された当時とは、年収も賃金相場も大きく異なる。金額の正当性・合理性が揺らいでいるといわざるを得ない。
「女性の社会進出」「老後のための資産形成」の支障にも?次に、「②女性の社会進出を妨げている」という指摘も根強いという。
荒川弁護士: 「『働き控え』をすると、先述した物価上昇・賃金上昇の問題と相まって、仕事で活躍できる機会が減ります。
『スキルの向上』につながらず、家計を助ける効果も限定的になってしまいます。
また、『壁』はもともと、昔の『夫は仕事、妻は家庭』という価値観を前提としていることは否定できません。故・安倍晋三元首相も、2014年3月に開かれた『 第1回経済財政諮問会議・産業競争力会議合同会議 』で、税制・社会保険制度における『年収の壁』などの問題が『女性の就労拡大を抑制する効果をもたらしている』と明確に指摘しています」
さらに「③老後のための資産形成に支障をきたす可能性がある」という点も看過できない。
荒川弁護士: 「数年前に話題になった『老後資金2000万円問題』などに代表されるように、『年金不安』『老後資金準備』の問題が大きな関心事となっています。
高齢化が進んで老後が長くなっている反面、円安が進み、日本の経済的地位も低下しているといわれます。老後のためのお金がいくらあればいい、ということが予測できなくなってきています。
そんななか、『年収の壁』があるからといって労働時間を抑えていたら、老後資金の準備に支障をきたす可能性があると指摘されています」
「壁の引上げ」で拡大する「不公平」の問題物価上昇が続くなか、『壁』を気にしていては家計が厳しくなる。昨今話題になっている「壁の引上げ」は、この状況に対応して目先の「手取りを増やす」ための政策と位置付けられるだろう。
しかし、荒川弁護士は「ことはそう単純ではない」と指摘する。
荒川弁護士: 「昔から、『壁』の制度自体が不公平だという議論が根強くあります。優遇措置にはある程度の『不公平』は織り込み済みです。しかし、もしも『壁』を引き上げれば、その不公平の問題が拡大することになります。
どういうことかというと、扶養者の収入が大きくて生活に余裕がある人は、『壁』の内側で働いて優遇を受けられます。
これに対し、生活に余裕がなく『壁』を大きく越えて働かなければならない人や、『夫婦共働き』の人もいます。
それらの人が優遇を受けられないという『不公平』は、『壁』の引き上げにより拡大することになります」
物価上昇、働き方やライフスタイルの変化、格差拡大など、世の中が大きく移り変わってきているなかで、「年収の壁」の存在意義も当初とは大きく変動していることは明らかだろう。現に、社会保険料の「130万円の壁」「106万円の壁」は、労働市場の人手不足や社会保障制度の財源確保の要請から大きく修正を余儀なくされている。
他方で、所得税の「103万円の壁」などについてはどうすべきなのか。現在は主に「壁の金額の引き上げ」がクローズアップされているが、それが本当に社会全体の利益、国民の幸福につながるのか。国会・政府は「壁」のそもそもの存在意義、「壁」にまつわるさまざまな問題点を考慮に入れ、「目先の利益」にとらわれることなく、慎重に政策を組み立てる必要があるだろう。