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 プロ野球の新人選手選択会議(ドラフト会議)は24日、午後4時50分から都内のホテルで開かれる。広島が1位指名を公表した明大の宗山塁内野手(21)は「20年に1人の遊撃手」とも称され、ソフトバンク、日本ハム、オリックス、楽天と今秋最大5球団の1位指名が予想される。広島県三次市三良坂町にある実家で、プロ野球選手になる夢を二人三脚で追った父・伸吉さん(49)が息子への思いをつづった。(取材・構成 柳内 遼平)

 塁へ。いよいよ運命の日が来たの。地元の三良坂の人からは「もうプロ野球に指名されたんじゃろ」とか「頼むけえカープに来てください」と言われるんよ。商店街にはドラフトのパブリックビューイングのチラシが至る所に貼ってある。時代劇の“お尋ね者”みたいで恥ずかしいような、誇らしいような…

 塁が初めてボールを投げたのは4歳。そのセンスに「うまいかもしれん」とハッとした。保育園年長の時には紙で作った巨人の帽子とユニホームを着て発表会で「プロ野球選手になります!」。夢へのスタート地点を懐かしく思う。

 広陵野球部出身のワシは道具を使ってプレーする野球の難しさが身に染みた。塁には将来があると思った。野球をやると決めた時のテーマは「お箸を操るようにバットを操ろう」。ワシがファンだった原辰徳さんの言葉。お箸のように毎日使わないとバットとグラブに神経は伝わらない。だから雨が降ろうと、雪が積もろうと毎日家で練習することが大切。ただ容赦してくれんかったのは塁の方。打撃も壁当ても止めなかったらいつまでも続ける生粋の野球小僧じゃけん。でもワシも楽しいばっかり。同僚から言われたことがある。「宗山さんは趣味ないの?」って。趣味は塁。スラムダンクの安西先生と一緒。成長が見て取れることがこの上ない楽しみであり道楽。小1から塁が広陵に行く中学卒業まで3000日以上。付き合うことがしんどいとかなく、ただ楽しかった。

 小6でカープジュニア、広陵では甲子園、明大ではリーグ優勝…そして今日はドラフト。子との日々は一瞬としみじみ思う。10・24は思い入れの強い一日になるじゃろうけどプロでは1円も稼いでいない。やっとスタートラインじゃけえのう。球団、ファンに「塁を獲って良かった」と思ってもらえる選手になってほしい。

 最後に1つだけ。野球を始める時に塁は「毎日練習するー!」って約束した。それで「じゃあワシも一番好きなことをやめる」と誓った。それ以来、ゴルフは一切やっていない。クラブは倉庫でサビとる。覚えとらんと思うけど「塁がプロ野球選手になって優勝旅行でハワイに連れていってもらい、そこでゴルフをまた始める」とも言った。南国の青空の下、塁とドライバーをかっ飛ばす日を楽しみにしている。父より。

 ≪「親孝行はここから」≫宗山は大学球界屈指のアベレージヒッターでありながら、遊撃守備も一級品だ。広島・苑田聡彦スカウト顧問は「プロ野球含めて日本で一番うまいショート」と語った。明大では2年春に打率.429で首位打者。2、3年時に大学代表で、今年3月には欧州代表との強化試合で侍ジャパントップチームにも選出された。宗山は「お父さんとの練習は本当に僕の原点。教えを守ってきたからこそ評価してもらえた」と回想する。1位競合指名が濃厚で、同一チーム最長記録更新中の明大からは15年連続での指名となる。「親孝行はここから達成していきたい」と新たな船出を迎える。

 ◇宗山 塁(むねやま・るい)2003年(平15)2月27日生まれ、広島県三次市出身の21歳。三良坂小1年で野球を始め、三良坂中では軟式の高陽スカイバンズでプレー。広陵(広島)では1年夏、2年春に甲子園出場。明大では1年春からリーグ戦に出場し、通算86試合で打率.342、10本塁打、59打点。116安打はリーグ歴代8位タイ。1メートル75、78キロ。右投げ 左打ち。

 ≪「右打ちに戻しんさい」記者に熱血指導≫【編集後記】三良坂は自然豊かな山間部にあり、宗山の実家の前には川が流れる。庭の手作り打撃ケージは何度もネットを補修した跡が。宗山が少年時代に使っていたというバットを見つけ、伸吉さんに「トスを投げてもらえませんか」と頼んだ。

 宗山は名門・広陵出身で、記者は福岡の無名公立校・光陵野球部出身。久々にバットを振ると、少年野球チームの監督を務める伸吉さんの目つきが変わった。「左手が強すぎてスイングが波打ちよる!」。足を生かすため高校で左打ちに変えたと言い訳すると「右打ちに戻しんさい」とバッサリ。熱血指導を後日、宗山に明かすと「僕も右に戻した方がいいと思う。つくった左打ちはよくない」と苦い顔。笑顔がステキなこの親子、野球になると顔つきが変わる。(アマチュア野球担当・柳内 遼平)