親は悩む…子どもに「不審者の危険性」に伝える前に、見落としてしまいがちな「もっとも大切なこと」

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シングルファーザーとしてふたりの娘を育てる作家の仙田学さん。娘が小さいうちは小さな命を守ることに必死だった暮らしも、いまでは少しだけ手を放し成長を見守っていられるほどに、娘たちが大きくたくましくなっていく。

そんな娘が、巣から落ちてしまったツバメが死んでしまったと話し始めた。聞けば、ツバメを見守るために集まった子どもたちの前に現れた不審者が「おい、笑えるな」と言いながら、轢き殺したのだという。

あまりの出来事に娘から「パパならどうする?」と尋ねられた仙田さん。その考え抜いたこたえを<「ツバメ、死んじゃったって」私の子どもが遭遇した、不審者による「生き物轢き殺し」の無残…その時親として考えたこと>に引き続きお伝えする。

説明しても晴れない娘の表情

わたしはといえば、数日のあいだ気にかけていた子ツバメが無惨に轢き殺されたことに、なんともいえない寂しさと悲しさと、怒りを覚えていた。でも、その感情をそのまま子どもたちに伝えるわけにはいかない。

まず、長女が聞いてきた理由を考えた。

大切にしたい存在を知らない大人に壊されたことに動揺してしまい、その感情の揺れを鎮めたいから? あまりにも理解を超える出来事だったので、なんとかして理解したかったから?

その次にわたしが考えたのは、長女の気持ちに寄り添いつつも、親として子どもを守らなければならないということ。今後また同じようなことがあったときには、同じ質問をしなくてすむような言葉を与えたいということ。

そんなことを考えながら、「パパならどうする?」という長女の問いに、わたしは答えた。

「悔しいけど、どうにもでけへんな。そういうことって、ほとんどないけど、これからももしかしたらあるかもしれん。

それから男の人には腹立つけど、もしかしたらなんか事情があるんかもしれん。病気の人って可能性もある。病気の人が、わけもわからんとやったんかも。それか、本当に悪い人が、悪いことをしてるってわかっててやったか。

どっちにしても、近づいたら今度は君らを攻撃してくるかもしれんから、すぐに逃げるのがいちばんいい。もしまた同じようなことがあったら、すぐ逃げや」

長女は頷いた。

伝えるべきことは伝えきったと思ったが、長女の表情は晴れていない。「今回のこと、どう思った?」と聞いてみた。

「悲しい」

長女は答えた。

「……悲しいな。すごく悲しいな」

わたしも、心からそう思った。何を言おうと、この気持ちを共有して、長女の思いに寄り添うことしかできないな、とも。

ただ、自分のせいだとは思ってほしくなかった。目の前で起こった悲しいこと、胸がざわざわするようなことは、君のせいではないんだ、と伝えたかった。

覚えていてほしいけど、自分とは切り離していてほしかった。でも、それらをどう伝えればいいのかわからなかった。

親になって子どもと向きあうということ

数日後に、わたしは勤務先の芸術大学でゼミの授業をしていた。

大学では小説家として、小説の創作の授業をおもに担当している。ゼミではその一環としてグループディスカッションを取り入れている。

4、5人ずつのグループに分かれて、ひとつのテーマを巡って話しあう、グループディスカッションの目的は、まずコミュニケーション能力を高めること。それから、自分とは違う、ときにはかけ離れた状況にある人について想像すること。想像力をたくさん働かせることは、創作にも活きてくるから。

そのためテーマには、「夫婦別姓」「共同親権」など、学生たちにはまだ縁遠く思えるかもしれないが、いずれは当事者として考える機会がくる可能性のあるものを選んでいる。

その回のテーマに、わたしは子ツバメ問題を選ぶことにした。上述の顛末を学生たちに話してから、「お兄ちゃんお姉ちゃんならどうする?」と、きょうだいなり、親戚の子どもなりに聞かれたらどう答える? ということをテーマにした。

3つのグループに分かれた学生たちは、戸惑ったような顔をしてディスカッションをはじめた。15分ほど経ってから、それぞれのグループでどんな話をしたのか発表してもらった。さまざまな意見がでて、わたしが子どもに話さなかったこともたくさんあり、とても興味深かった。

たとえば、道端で死んでいる動物は触ってはいけないと伝える、という意見。たしかに、感染症に罹る危険性を考えると、とても大事なことだ。また、埋葬方法として役所に連絡するなど、実際的な手続きについてのものもあった。どちらも、わが子を目の前にしているときの、わたしの頭には浮かばなかった考えだ。

衝撃のあまりに混乱してしまった様子で、「パパならどうする?」とまっすぐな目をこちらに向けてくる、長女の気持ちを鎮めるために、親としてかけられる言葉はたったひとつしかない気がした。

取り替えのきかない、他の状況では使えない、ことによると倫理的にも論理的にも間違っているかもしれない言葉。それを探してわたしはもがいていた。わたしと子どもたちのあいだにあたる年齢の、20歳前後の学生たちに問いを投げかけたのはそのためだった。

親になって子どもと向きあうってことは、ときにはこんなにも答えのでない問題について考え続けることでもあるよ、と伝えたかった。

その結果でてきた意見を聞きながら、いま小学生の子どもたちも、あと10年も経てばこんなに冷静にあの出来事を捉えられるようになるのかな、と思うと安心できるような気もした。

いずれにしても、「不審者」とはなんなのか、なぜ大人から注意喚起されるのか、どんな危険性があるのか、遭遇してしまったらどう対処すればいいのか、などを、実感とともに理解できるよう子どもに伝えるのは難しい。

いちど、ちょうどいいくらいの危ない目に遭えば、身をもって危険性を認識できるのだろうか。でももちろん、いちどでもそんな目には遭ってほしくない。

安全であることを前提として、子どもにヒヤッとするような体験をさせる、「不審者代行業者」みたいな会社はないだろうか。あったら依頼したい。

とはいえ、大人でも不審者に遭遇したときに、咄嗟にうまく対処できるとは限らない。思えばわたしにもそんなことがあった。

人気のいない夜の京都の町で

20代後半の頃のこと、わたしは東京に住んでいて、なんの用事かは忘れたが京都の実家に帰っていた。これまたなぜだったかは思いだせないが、スーツ姿で京都市内を急いで歩いていた。

近道をしようと京都御所のなかを横切っていると、ランニング姿の男性から声をかけられた。同じくらいか、少し歳上に見えるその男性は、「トレーニングを手伝っていただけませんか?」という。

急いではいたが断るのも悪い気がして、「ちょっとだけなら」とわたしは応じた。

導かれるままに、近くにあった茂みの裏に連れていかれた。かなり奥のほうまで入ったところで、男性は地面に仰向けに横たわった。まわりにはひと気がない。

「お腹に乗ってもらえませんか」

と男性は言う。腹筋のトレーニングかな? と思ったわたしは、靴を脱いでランニングシャツの腹の部分に足を乗せようとした。

「靴のままでお願いします」

と手で制されて、わたしは革靴のまま男性の腹を踏み、上に乗った。

男性は目をつぶって、ふぅー、と息をもらしてから、「足踏みをしてください」と言う。仕方なく足踏みをしはじめると「ハァ……ハァ……」と男性は顔を赤くしてあえぎはじめたかと思うと、わたしの足首をがっと掴んだ。

「ヘンタイや!!」

やっと気がついたわたしは、声をあげながら腹から飛び降りて、茂みからでると御所のなかを駆け抜けた。

人がたくさんいるところに戻ってからも、後をつけられていないかと何度も振り返った。恐怖の体験だった。

こうして思い返してみると、最初に声をかけられたとき、ひと気のないところへ連れていかれたとき、腹に乗ってほしいと頼まれたときなど、おかしいと気づけるタイミングはいくらでもあった。でも気づけなかった。

実際にその場にいると、相手のペースに飲まれて、おかしいと思える余裕がなくなってしまうのだ。よく考えてみると、「不審者」の危険性を知らなければならないのは、子どもたちよりまずわたしなのかもしれない。

…つづく仙田さんの連載<シングルファザーが離婚して12年後に知った、別れた妻が「自殺」という言葉に泣いた理由>はこちらからどうぞ。

「ツバメ、死んじゃったって」私の子どもが遭遇した、不審者による「生き物轢き殺し」の無残…その時親として考えたこと