初登板で被弾→降板命令も異例の拒否 覚悟した2軍降格も…運命変えた“二つ返事”
田村勤氏は1年目のキャンプで故障も…2軍1登板を経て1軍昇格
いきなり投手コーチに反抗した。田村勤氏は1990年ドラフト会議で阪神から4位指名され、本田技研からプロ入りを果たした。だが、1年目の高知・安芸キャンプでは、右足を故障して離脱する試練のスタート。復帰後、2軍戦で1試合に投げただけで1軍昇格し、1991年4月16日の広島戦(広島)でデビューとなったが、そこでもプロの洗礼を浴びた。さらにはその場で降板拒否の大胆行動を起こしてしまった……。
25歳で飛び込んだプロ野球の世界。田村氏は「入った時に寮まで取材に来られたり、プロってすごいなぁって思いましたよ」と“第一印象”を明かした。「名前を知っている選手ばかりだし、皆さん、体付きもがっちりしていますし……」とも話したが、臆することはなかったという。「金子(誠一外野手)さんは本田技研の先輩だったし、(ドラフト2位で)同期入団の関川(浩一捕手)は僕が駒大の時の部屋子。この2人がいたのは大きかったですね」。
プロの練習にも戸惑うことはなかったそうだ。「だって、社会人や大学の方がよっぽどしんどかったですからね。大学は駒沢ですよ。社会人でもずっと走っていたんですから」。ところが、安芸キャンプでは1軍でスタートしながら第1クール中にリタイアしてしまった。「練習でタイムを計ったり、競争したりで、僕も張り切って、負けじとやったら、走っている途中で、何かかつてないような筋肉が引きちぎられる痛みがあって……」。
右足の肉離れだった。「走る量に関して問題なかったんですが、競争ってそんなにしたことがなかった。たぶん、グッと負荷がかかったんだと思います。それからは競争とかしなくなりました。怖くてタイムを切る練習とかはやりませんでしたよ」。無念の別メニュー調整となった。「安芸のプレハブ小屋で腹背筋をやったりとか……。キャンプはまともにできなかったし、オープン戦も投げられなかった」。まさかの出遅れ。試合登板は4月の2軍開幕までずれ込んだ。
「その時もまだ完全には治ってなかったけど、投げれるだろうなんて言われて、ファームの開幕の頃のダイエー戦に投げました。結果はよくなかったですよ。デッドボールもあったし、ボークもあった。なのに、その1試合だけで1軍に上げるって言われたんですよ。“えっ”てなるじゃないですか。でも首脳陣からしたら『とにかく、投げてみないとわからんやろ』って。まずファームでボークをしたから、その練習を(合宿所)虎風荘の屋上でやれって大石清投手コーチに言われました」。
田村氏は指示通り、屋上でボークの原因を考えながら練習した。「そしたら、後で大石さんから電話がかかってきたんですよ。『お前、今日は早く終わっていたな』とかね。大石さんのマンションの部屋から虎風荘の屋上が見えたんですよ」。以来、大石コーチの“視線”を感じながら、気を抜くことなく、屋上で練習したそうだ。そして1軍デビューの日がやってきた。1991年4月16日、敵地・広島市民球場での広島戦だった。
初登板で一発&安打…交代指令拒否で呼び出し「野球人生終わったな」
同点の7回1死三塁でマウンドに上がり、広島の左打者・小早川毅彦内野手にプロの洗礼の一発を浴びた。プロ初登板で最初の打者にホームラン。「1球目ボールで2球目のカーブを打たれた。金子さんがライトですわ。あとで『おい、田村、あの高さだったらな。俺がどれだけジャンプしても捕れなかったわ』って言われましたよ」。続く山崎隆造外野手にも安打を許したところで、大石投手コーチがマウンドに来た。ピッチャー交代だ。
ここで田村氏は抵抗した。「大石さんにボールを渡さなかったんです。『代わるぞ』と言われても知らんぷり。野手もざわついていました。“こいつは”みたいな感じで。そりゃあ、そうですよね。ルーキーで、初登板で、ホームランも打たれながらですから。最後は大石さんが『いいから、ボールをよこせ、こら』って。それで渡したんですけどね」。いくら悔しい結果だったとはいえ、いきなりそんな行動をとる新人は珍しいが、これには「伏線があったんです」という。
「たまたま、その前日にマイク(仲田幸司投手)が僕の部屋に『おい、田村、よろしくな』って来てくれたんですよ。そこで『しかしなぁ、交代される時ってむっちゃ腹立つよなぁ』って言ったんです。マイクにはフォアボールで乱調になって代えられているイメージがあったんで、やっぱりプロってすごいなぁ、普通なら穴があったら入りたいくらいなのに、並の心臓じゃないなって思った。で、次の日に打たれた時、代えられたくないって気持ちが僕にも芽生えたんですよ」。
とっさに考えた。「ここで代えられたらもう2度と1軍に上がってこれないんじゃないかってね」。でも、大石コーチに「いいからボールをよこせ!」と言われて我に返った。「やっべーと思いました。ボールを渡して知らん顔してマウンドを降りていきましたけど“コーチに逆らって余計まずいパターン。代えられたくないどころか2軍に落とされるな”ってね。で、その日、ホテルに戻ったら大石さんに『田村、あとで部屋に来い』と言われたんです」。
覚悟した。「“あーあ、終わったな。一発で俺の野球人生は終わったな”って思いました。もうその時はファームからまた這い上がるイメージよりも“ああ終わったな”、しかなかったですね」と田村氏は言う。「それで大石さんの部屋に行きました。コンコン“失礼します”ってね。そしたらね、大石さんが笑っているんですよ。『お前、あの状況でまだ投げたかったのか』って。僕はもう『はい』というしかありませんでしたけどね」。
次回登板を確約したコーチ「ウッソーって思った」
田村氏はその時の大石コーチの顔が忘れられない。「大石さんは『おう、わかった。次も投げさせてやるわ』って。僕はえっ、ウッソー、ラッキーって思いながら『ありがとうございます』と言って、急いで部屋から出ましたよ」。2度目の登板は4月18日の広島戦(広島)。0-4の2回途中に2番手でマウンドに上がった。そして初登板時と同じく先発投手が残した走者が三塁にいる場面で、一死から再び打者・小早川を迎えた。
「もうドキドキでした。今度やったら、それこそ終わりやろうなって思っていましたからね。で、これが最後かもしれん、前回はカーブを打たれたからストレートでいったれって投げたらカーンって、ライトへ犠牲フライですよ」。続く山崎を打ち取ってチェンジにしたが「あああ、また点を取られた、やっちゃったって思いながら、マウンドを降りたら、大石さんが『ナイスピッチング』って言うんですよ。えっ、1点取られているのにって思いましたけどね」。
犠飛は許したものの、前回登板でやられた小早川、山崎の2人に安打を許さず、きっちりお返ししたことが評価された。1年目の田村氏はそこから軌道に乗った。4月20日の中日戦(甲子園)では、2番手で3回を1安打無失点、4月21日の中日戦は1/3を1三振の無失点、4月23日の広島戦(甲子園)では3-2の9回表に登板して1回無失点で記念すべきプロ初セーブもマークした。「自信がなかったヤツに自信をつけさせた時、もう大丈夫って思ってしまうんですよね」。
振り返れば、初登板での降板拒否騒動がプラスになったという。「あれで大石さんが僕を気に入ってくれて、ずっと使ってくれたと思いますしね。小早川さんにもその後、ほとんど打たれていないんじゃないですかね」。その上で田村氏は仲田投手に感謝する。「(初登板の)前日にマイクが部屋に来て、話してくれたことがいい流れになったんですよ。あれがなかったら、交代の時、さっとボールを大石さんに渡してマウンドを降りたでしょうからね」。
スンナリ降板していたら、どうなっていたかは、わからない。実力を考えれば結果は同じだったかもしれない。でも、どこでどう流れが変わるかもまたわからないのが野球人生でもある。プロ初登板でKOされながらの大胆行動。田村氏は、それがあったからこそ、虎のストッパーにもなったその後があったと考えているわけだ。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)