突如イップスを発症「藤浪の気持ちが分かる」 入らないストライク、止まらない罵倒
駒大進学も…田村勤氏が陥った変化球イップス「もうボロボロでした」
懺悔するしかなかった。元阪神、オリックス投手の田村勤氏は駒沢大では力を発揮できない日々が続いた。左の本格派投手として期待され、特待生で入学したが、試合でカーブがすっぽ抜けたのがきっかけで変化球を投げられなくなり、そこからドツボにはまった。「挫折、挫折、挫折でもうボロボロでした」。誘ってくれた駒大・太田誠監督にも申し訳ない気持ちでいっぱい。せめてもの償いのつもりでグラウンドの芝生整備をやったりもしたという。
静岡・島田高から駒沢大学に進学した田村氏は期待の星だった。「受験番号1番でセレクションみたいなのを受けましたからね。でも、そんな期待をすごく重荷に感じて……」と今でも苦しげに話す。「期待されて結果が出ないから、毎回毎回、負けた試合のあとのミーティングではもう餌食でした。『なんでカーブが投げられないんだ』とか『マウンドで闘う姿勢がない』とかもう全部ですわ。技術的な部分で不安になったら、余計その姿がマウンドで出ちゃうでしょ」。
始まりは1984年の大学1年の時だった。「試合でカーブがすっぽ抜けて、それからカーブを投げるのが怖くなったんです。高校の時は、カーブを普通に投げていたけど、そんなに確立していなかったんですよね。変化球を投げなくてもストレートだけでいけたんで。でも大学になったらそうはいかない。変化球を投げないと打たれるじゃないですか。で、カーブを投げたら、滑っちゃったというか……。高校の時にはそんなことなかったのに……」。
このつまずきが尾を引いた。「ストライクが入らなくなった時もあったし、イップス気味になった時もあった。カーブのサインが出ただけで、手に汗がバーッと出てきて、そしたら余計滑るじゃないですか。悪化もいいところですよ。(制球難に苦しむメッツの)藤浪(晋太郎投手)とかの気持ちがよくわかりますよ」。精神的にも苦しかったという。「駒沢のOBからも『お前はろくなもんじゃない』とか言われました。後に僕が阪神に入った時は逆にびっくりされましたけどね」。
当時のつらさはハンパではなかった。田村氏は今の時代ではあり得ない話も明かした。「駒沢の先輩が監督をやっている社会人チームと練習試合をやって、先発して初回ノックアウト。そしたらマウンドで土下座して相手チームに謝ってから降りてこいとか言われて『すみませんでしたぁ』って。その後もベンチで立たされて……。もう漫画みたいなことが僕の大学時代にはあったんですよ」。
償いの気持ちで続けた芝生整備「もうホント懺悔の日々でした」
田村氏が大学1年の駒大は、東都大学野球リーグ戦1部で秋優勝と明治神宮大会優勝を成し遂げた。大学2年時の1985年も秋季リーグ戦を制覇と、結果を出し続けた。期待度からは中心選手になってもおかしくなかった田村氏だったが、いずれも貢献できず。特待生だけに、太田監督に申し訳ない気持ちでいっぱいだったという。
「それで僕はせめてもの償いで、早朝6時くらいから、グラウンドに出て、芝生の整備をやるようになった。芝生が切れかけているところとかをスコップで掘ったりして、埋めていったりとか、そういう作業を続けました。太田監督の家からグラウンドが見えるんで、ちょっとでもカーテンを開けて見てくれないかなと思ったんです。僕は投げることはできないけど、これくらいはやりますってことでね。もうホント懺悔の日々でした」
太田監督はちゃんと見ていた。「ブルペンのところも芝生がなかったんで、移植したりした。後輩も連れて『今日もやるぞ』って言ってね。そしたら、その芝生の上でミーティングをやってくれるようになった。で、ある時、監督に言われたんですよ。『おう、よくやってくれているな』って。それからまたベンチに入れてもらえるようになったんです」。田村氏の大学リーグ戦初勝利はその後。「3年の秋だったと思う。まだ変化球イップスを克服したわけではなかったんですけどね……」。
精神的にも、肉体的にも追い込まれた大学時代は、いい思い出はほとんどないという。それでも野球を諦めることはなかった。挫折の連続でどれだけ打ちのめされても逃げ出さなかった。それどころか、その後、社会人野球に進み、プロ入りも果たした。「僕はいい指導者に恵まれたと思っています」。当時の厳しすぎる環境は、現代には全く通じないとはいえ、それを乗り越えたのは並大抵のことではない。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)