F1日本グランプリを語ろう(3)
高木虎之介インタビュー

 これまで秋に開催されてきたF1日本グランプリが、2024年から初めて春に行なわれるスケジュールとなった。今年は4月5日〜7日に鈴鹿サーキットで開催される。

 これまで数多くのドラマが生まれ、日本のみならず世界中から注目を集める鈴鹿でのF1日本グランプリ。その歴史のなかには、数々の日本人F1ドライバーの活躍もあった。

「F1日本グランプリを語ろう」第3回は、1998年と1999年にフル参戦を果たした高木虎之介氏に話を聞いた。

 国内トップフォーミュラに参戦していた頃から光る速さを見せ、将来のF1ドライバー候補と有望視されていた。F1は2シーズンのみの参戦だったが、その後にアメリカのCARTシリーズに挑戦したほか、国内のスーパーGTでは2005年にチャンピオンを獲得。現在はスーパーGT(GT500クラス)のTGR TEAM ENEOS ROOKIEの監督を務めている。

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現在とF1ドライバー時代の高木虎之介氏 photo by Yoshida Shigenobu, AFLO

── 今年は初めて、鈴鹿サーキットでのF1日本グランプリが春開催になります。

「僕が走っていた頃のF1日本グランプリは10月末くらいの開催だったから、いつも寒かったなという印象です。春開催なので、季節的にはちょうどいいんじゃないのかな。

 F1日本グランプリは雨が絡んだりすることも多かった。だけど、春になると気温も違うので、雰囲気も変わるでしょうね。お客さんにとって、暖かい時期にやってくれるのはいいのかなと思います」

── 高木虎之介さんは、F1日本グランプリを2回(1998年、1999年)経験されています。思い出に残っている場面などはありますか?

「やっぱり、初めて走った時(1998年)ですね。金曜日の最初のフリー走行で(母国凱旋レースだから)チームのみんなが『虎之介を一番にコースに出そう!』という雰囲気になってくれたんですよ。

 そして最初にコースに出ていったら、滅多に聞こえないような歓声やエアホーンの音が、エンジンがかかっているF1のコクピット内にいても聞こえてきたんです」

── F1のエンジン音はかなり大きいのに、それでも歓声が聞こえてくるってすごいですね。

「もちろん、ふだんのレースでは(周囲の歓声は)聞こえないんです。だけど、いつもの10倍以上の歓声が上がったので、しっかりと聞こえてきましたね。

今でも、その1998年の最初の1周は覚えています。ピットアウトして1コーナー、2コーナーのスタンドの声援はすごかったし、グランドスタンドもお客さんでいっぱいだった」

── それはいい思い出ですね。

「でも、鈴鹿に行くと、なぜかあまり速くなかったんですよね(苦笑)。僕自身、鈴鹿は得意で走り慣れているコースだったから好きなんですけど、ティレルの時(1998年)もアロウズの時(1999年)もクルマが全然ダメで......。当時の状況がどれだけ大変だったか、今でも体で覚えています」

── そんなに大変だったのですか?

「1999年の時は、最終コーナーで毎回、クラッシュしそうになりながら走っていました。ものすごくクルマがピーキーで、シケインの立ち上がりからアクセルを全開にできなかったです。新品タイヤで(グリップして)やっといけたというくらい。中古タイヤになると全然踏めなかった。トップから1周4秒くらい遅かったような気がします。

 あの頃はクルマの(性能)差が激しかったですからね。距離が短いコースなら2〜3秒くらいで収まっていましたけど、スパ・フランコルシャン(ベルギーGP)とか鈴鹿に行ったら4秒くらいは差がついていました」

── 今のF1とは少し違うところですね。

「僕が乗ったティレルとアロウズにはパワステがついていなかったですから。ほかのチームはパワステもそうだし、いろいろなものが充実していて......それを考えると僕が乗っていたチームはひどかったですね(苦笑)。

 ティレルの時はエンジンブローが何度かあったし、アロウズの時は......当時16戦あったうちの10戦でエンジンブローしていました(笑)。だから完走率は悪かったです。

 アロウズで鈴鹿を戦った1999年の時も、たしかミッションだったかのトラブルが出て......。せっかくの日本グランプリなのに、調子が悪かったことだけは覚えています。

 でも、ティレルの時を振り返ると、シーズンの前半戦は速かったんですよ。『Xウイング(※)』が許されていた頃は、すごく調子がよかったんです」

※Xウイング=1998年にティレルが導入した画期的なデザイン。前年から大幅に車両規定が変わったとして、各チームは少しでも性能を維持するために対策案を模索。そこで登場したのがXウイング。コクピットの両サイドに追加ウイングを装着するもので、ティレルを皮切りに数チームが導入し始めるも、安全上の理由により、シーズン途中で装着禁止となった。

── たしかに当時、Xウイングは話題になりました。効果はかなりあったのですね?

「やっぱり、あのウイングありきでクルマもデザインして、空力バランスとかも開発をしていたから、初めての予選(オーストラリアGP=13番手)でもすごくよかったです。あれが禁止されてなくなってから、マシンは全然ダメになっちゃって......。

 もし当時、鈴鹿が今年のように春に開催されて、Xウイングが禁止になっていないタイミングだったら、成績はすごくよかったかもしれません(笑)。あと、当時のティレルがシーズン開幕前にB・A・Rに買い取られてしまったことで、そこから開発も一気に進まなくなりましたね」

── 虎之介さんがF1に参戦していた頃、チームメイトやライバルとの思い出などはありますか?

「2年目のアロウズの時は、ペドロ・デ・ラ・ロサがチームメイトでした。彼とは昔からライバルで一緒に走っていたから、常にタイムを競いながら、データを見ながら戦っていましたね」

── 今、F1では角田裕毅選手ががんばっています。彼の活躍ぶりはいかがですか?

「角田がカートをやっていた小学生の頃から知っているので、(カートで)チャンピオンを獲って次のステップに上がっていくところも見てきました。彼のお父さんとも(角田がカートをやっている頃から)仲がよかったです。

 だから、今の活躍については、『(F1に)やっぱり来たな』という感じですね。こうして長く(2021年〜)F1に乗れているので、表彰台には乗ってほしいですね」

── 虎之介さんは宮田莉朋選手のカート時代にも携わっていると思います。

「そうですね。彼がフォーミュラのカテゴリーに上がるところまで関わっていました。そのためにずっと練習して、トヨタの育成枠に入って、ここ(FIA F2参戦)までこられたからね。ぜひF1に行ってほしいですね」

── 今でも宮田選手とは連絡を取り合っていますか?

「もちろん会った時は話をしますけど、どちらかというと彼のお父さんからいろいろと情報を教えてもらっています。それこそ、F2参戦が決まりそうな時も細かく教えてくれましたよ。発表される前から知っていました。

 今年海外に行けたのも、スーパーフォーミュラとスーパーGTでダブルチャンピオンを獲ったからこそ。なので、しっかりと結果を残してほしいし、F2でも勝ってほしいですね」

<了>


【profile】
高木虎之介(たかぎ・とらのすけ)
1974年2月12日生まれ、静岡県静岡市出身。中学時代からカートに乗り、その後フォーミュラマシンに転身。F3やF3000で結果を残し、1998年にティレルのシートを獲得してF1デビューを果たす。1999年はアロウズに移籍するも結果を残せず、翌年はフォーミュラ・ニッポンに参戦して年間王者となる。2001年〜2004年はアメリカに渡ってCARTとIRLで活躍。現在はスーパーGT(GT500クラス)のTGR TEAM ENEOS ROOKIEの監督を務めている。