左利きの人々の中に、数多く存在する偉人を紹介します(写真:Dominique Charriau/Getty Images)

全体のおよそ5〜10%を占めるとされる左利きの人々の中には、画期的なアイデアや作品を生み出した才人、偉人が数多く存在する。IT、音楽、文学の世界から何人か紹介したい(本稿は、大路直哉著『左利きの言い分』を一部抜粋・編集したものです)。

ゲイツとダ・ヴィンチの「共通点」

ビル・ゲイツ──製品の多様性を見出す左利きのイノベーター

マイクロソフトの創業者であるビル・ゲイツは、1994年、彼と同様に左手で文字を書いていたレオナルド・ダ・ヴィンチの手稿を、驚くなかれ、なんと3080万ドル(当時の日本円で約30億円)で落札しました。投資目的ではなく、ダ・ヴィンチに強い敬愛の念を覚えていたからこその購入でしたが、右利きならばけっして感じることのない「第六感」がゲイツの心を支配したのかもしれません。

さらに「ペンベースのコンピューター」の開発にまつわる、左利きならではのエピソードもあります。いわゆるペンタブレットを開発した当初、左手でペンを操作するゲイツの筆づかいを認識できなかったというのです。その理由は、開発チームのメンバー全員が右利きだったため、左利きのペンづかいを考慮していなかったことにありました。

「Stay hungry. Stay foolish.(ハングリーであれ。愚か者であれ)」をはじめ数々の名言を残した、アップルコンピューター社の創設者スティーブ・ジョブズ周辺にも、利き手にまつわるコメントやエピソードが豊富にあります。たとえば雑誌取材のなか「ぼくの知る限りでは、優秀なコンピューター技術者はほとんどが左利きだね。不思議だと思わないか」と発言しています。

ちなみにジョブズは、自分自身は両手利きであると取材で答えていますが、アップルコンピューター社のパソコンは、早くからキーボードの左右どちら側にもマウスの装着口がついて、どちら側からも接続できるようになっていました。

当時の開発陣には左利きのスタッフが多く存在していたようですが、商品化する過程においてユニバーサルデザインを考慮するうえでも、左利きは不可欠な存在である証左といえるでしょう。

坂本龍一──左手が脇役であることに納得できなかった

世界的テクノポップバンド・YMOのメンバーであったことはもとより、バルセロナ五輪開会式で自ら作曲した「El Mar Mediterrani(地中海のテーマ)」を指揮し、高い芸術性と壮大なスケール感で会場を魅了した坂本龍一。2023年3月28日に71歳で逝去しましたが、『左うでの夢』というタイトルのソロアルバムを発表したこともある左利きでした。

生前は自身の左利きについて熱く語ることがままあった坂本。小学生の頃に出逢ったヨハン・セバスチャン・バッハの旋律が、のちの人格形成に大きな影響を与えたそうです。その旋律はほかの作曲家のものとは異なり、左手と右手を対等に用いるもので、「自由」と「反権威」への意識を覚醒させるものだったのです。

「音楽家坂本龍一さん、 未知の音探す苦しみの先(My Story)」と題された、2018年9月2日付け日本経済新聞の特集記事からコメントをひいてみます。

《主役は右手ばかり。左手はいつも脇役に追いやられていた。僕は左利きだから、これが納得できなかった。「差別じゃないか」とか言ってね。かなり生意気な子どもでした》

バッハの利き腕がどちらだったかは不明

バッハの楽曲は、複数の旋律を各々の独自性を保ちながら互いを調和させる対位法の集大成と評されます。坂本によれば、右手で奏でたメロディーが左手に移ったり形を変えて右手に戻る手法に対し、「バッハでは両方の手が同等に動き、旋律とハーモニーの境目もない。自由ってこういうことだ」(『朝日新聞』2023年4月23日)とのこと。

ちなみにヨハン・セバスチャン・バッハ自身の利き手は左右どちらであったか定かでないものの、次男のカール・フィリップ・エマヌエル・バッハは左利きであったと伝えられています。生前は父親よりも有名で、クラヴィーア(鍵盤楽器)演奏の巨匠として名を馳せており、当時の聴衆は左利きならではの音色と世界観を感じとっていたことでしょう。

夏目漱石──「坊っちゃん」は左利き

右脳型人間というレッテル貼りが先行し、文学的な素養とは縁遠いというイメージで捉えられがちな左利き。だからといって左利きは文才が欠如しているわけではありません。国の内外を問わず誰もが耳目に触れる文豪のなかに、左利きないしは左利きと目される人物は確かに存在するのです。

日本における左利きと目される文豪の1人目は夏目漱石。漱石が左利きである確証となる写真などの有無はさておき、愛媛県松山での教師生活をモチーフにした小説『坊っちゃん』の冒頭に注目してみます。

《親類のものから西洋製のナイフを貰って奇麗な刃を日に翳(かざ)して、友だちに見せていたら、一人が光る事は光るが切れそうもないといった。切れぬ事があるか、何でも切って見せると受け合った。そんなら君の指を切って見ろと注文したから、何だ指位この通りだと右の手の親指の甲をはすに切り込んだ。幸ナイフが小さいのと、親指の骨が堅かったので、今だに親指は手に付いている。しかし創痕は死ぬまで消えぬ》
(夏目漱石『坊っちゃん』1906〔明治39〕年より)

主人公のモデルは同僚の教師・弘中又一とする説があるものの、「右の手の親指の甲をはすに切り込んだ」という一文から、主人公は左手でナイフを持っていたことが窺い知れます。

はたして漱石の利き手は左右どちらだったのでしょうか。謎は深まるばかりですが、以前から日本における左利きの偉人として紹介される文豪であることは確かです。

正岡子規──学校に弁当を持っていかなくなった理由とは

明治を代表する2人目の左利き文学者は、漱石の親友であった正岡子規。俳句雑誌『ホトトギス』を創刊した同郷の友人・柳原極堂(やなぎはらきよくどう)が著(あらわ)した『友人子規』によれば、幼少期は左利きだったものの、箸や筆記具は右手で持つように矯正されたことが記されています。

柳原による子規の回顧録には「母方の祖父が左手で食事することを戒めただけでなく、学校では左手で弁当を食べると教師に注意されるため、ついには弁当を持っていかなくなってしまった」(現代語にして要約)と述べる箇所もあります。

「右手で食事ができるようになったのは後のこと」とは、子規の実母談。若き日に書き綴った『筆まかせ』に収録されている「右手左手」には、「右手でも左手でも同じようにうまく書ける」と自信を持って体験を語るだけでなく、喀血で右の肺を悪くしたため何事にも左手を使うことに苦労はなく、文字も左手で書いていると理由を言っている──そう柳原は子規の左利きを述懐していました。

ちなみに子規はさまざまな野球用語を翻訳したことでも知られますが、選手としてプレーするときは左投げであったと伝えられています。さらに子規は同い年の漱石と深い友情で結ばれていましたが、文才だけでなく、やはりお互い左利きであったことで共感しあっていたと推察したくもなります。

「左利きのため、無類の悪筆」

石原慎太郎──目をパチパチさせるチック症状の原因

そして左手で字を書く小説家といえば、政治家としても長らく東京都知事を務めた石原慎太郎です。彼の書字にまつわるエピソードも外せません。一橋大学に在学中、のちに芥川賞作品となる「太陽の季節」を文学界新人賞へ応募するにあたり「書くのはわずか2日ですんだ」ものの、「なにしろ左利きのための無類の悪筆なので、清書には三日かけて投函した」とは、本人の弁(『日本経済新聞』2022年2月2日夕刊)。

文壇では無類の悪筆で知られた石原ですが、生前、目をパチパチさせる独特なチック症状については、「学校の習字の授業で、左手で書いていると先生にムチでパーンと叩かれた」(『オール讀物』1988年12月号)ことが原因でした。


チックについてはその多くが成人するまでに消失したり改善するといわれていますが、石原のように成人してからも残る人もいれば、ストレスや環境の変化が原因で再発したり悪化することもあります。

そして脳科学的な関心事としては、晩年、脳梗塞により後遺症が残った際、利き手である左手が麻痺し、ひらがなを忘れて使えなくなったことです。障がいが残ったのは左手なので脳梗塞が発症したのは「右脳」ですが、注目すべきは失語症も併発したことです。

左利きについては言語を司る中枢が多くの人の場合「左脳」、人によっては「右脳」ないしは「左脳」と「右脳」の両方にまたがるケースがあります。石原においては「右脳」に言語を司る中枢が存在したことを示唆しています。

ここでは日本の小説家・俳人3人を紹介するにとどめますが、国外においても、ゲーテやハインリッヒ・ハイネ、クリスチャン・アンデルセン、ルイス・キャロル、そして哲学者ではありますがフリードリヒ・ニーチェなどが左利きであったと伝えられています。

(大路 直哉 : 「日本左利き協会」発起人)