2023年10月、泰緬鉄道が開通して80年を迎えました。現在のタイからミャンマーにかけ、旧日本軍が陸上補給路して敷設した路線です。多大な犠牲を払い開通した鉄道は今、両国で異なる顔を見せています。

多くの犠牲の上に開通

 映画『戦場にかける橋』の舞台となった泰緬鉄道。2023年10月25日、開通から80年の節目を迎えました。これは現在のタイにある、旧日本軍が敷設した鉄道です。
 
 泰緬鉄道の「泰」はタイ、「緬」は緬甸(めんでん=ビルマ、現ミャンマー)を指します。旧日本陸軍のビルマ攻略による陸上の物資補給路確立を主目的に、タイ国鉄南本線のノンプラドック分岐点からビルマのタンビュザヤ駅へ至る414.9kmが建設され、正式名称を「泰緬連接鉄道」といいました。


観光客が鉄橋脇で列車を避けるクワイ川鉄橋。1945年2月13日、連合軍の空爆によって中間地点のトラス橋が破壊された。日本の戦後賠償で2連の平行弦トラスを架橋(2023年2月、吉永陽一撮影)。

 線路は、タイとミャンマーを遮るテナセリム山地と、密林の続く険しい国境地帯を横断。密林を切り開き、山塊を切り崩し、約1年の突貫建設工事の末、1943(昭和18)年10月25日に開通しました。

 建設工事には旧日本陸軍鉄道隊だけでなく、連合軍将兵の欧米人捕虜、近隣諸国からの労務者、約16〜30万人近くが従事しました。大本営から厳命された工期に間に合わせるよう、人跡未踏といえる密林の劣悪な環境、例年より早く訪れた雨季、そしてコレラとマラリアの伝染病が蔓延する状況下で、工事は人海戦術で休みなく強行。約4万1000人(日本側資料、俘虜関係中央調査委員会)の死者を出したとされています。

 戦後、連合軍元捕虜から次々と建設工事の体験や日記が発表され、捕虜の視点で記された手記の多くには、旧日本軍による虐待や拷問、劣悪な環境と食事、伝染病の描写が綴られました。旧日本軍鉄道隊の手記は捕虜に関する記述だけでなく、建設の困難さや運転の労苦など、連合軍側とは異なった視点でも泰緬鉄道の姿を伝えています。

戦後、タイ側は「ナムトック支線」として再起

 泰緬鉄道は戦後、国境を境にしてミャンマー側の線路が遺棄されました。しかし、廃線跡はモン族やカレン族など少数民族支配地域ゆえに軍との武力衝突が絶えず、外国人の立ち入りが厳しいうえ、2021年にはクーデターによる弾圧で、ミャンマーへの不要不急の渡航中止が継続されています。

 一方のタイ側の約130kmは、軍用から沿線の生活と開拓の地域輸送へ、タイ国鉄南本線のナムトック支線として再出発しました。終点はナムトック駅となりましたが、サイヨークノイ滝付近まで線路は残され、その先は廃線です。2023年現在でも、バンコク・トンブリ〜ノンプラドック〜ナムトック間は3往復の普通列車が走っています。


慰霊碑の碑文。碑文は日本語のほか、英語、タイ語、中国語、マラヤ語、ベトナム語、タミル語で書かれ、建設に関わった民族の多さを物語る(2023年2月、吉永陽一撮影)。

 報道や捕虜の手記、映画によって泰緬鉄道を知った欧米人は「Death Railway=死の鉄道」と呼び、ナムトック線も「Death Railway」として、タイ政府が沿線の観光化を推進。欧米人をはじめ多くの観光客が訪れ、泰緬鉄道そのものがタイの有名観光地となっています。

 私(吉永陽一:写真作家)は祖父がインパール作戦とビルマ戦線の生還者であったため、幼少期から凄惨な戦場の話を聞いて育ちました。泰緬鉄道の存在にも興味を持ち、初訪問は2011(平成23)年。戦史取材というよりも、鉄道ファンの自分の目で、泰緬鉄道のいまの日常に触れて記録しようと何度か訪れ、最近では2023年2月にも訪れています。

泰緬鉄道、最近の様子は

 熱帯気候特有のうだるような暑さのなか、バンコク・トンブリ発ナムトック行きの客車列車には冷房もなく、窓を全開にして風で暑さをしのぎます。タイ国鉄は非電化であり、ディーゼル機関車の咆哮が全開の窓から聞こえます。線路はノンプラドック駅から南本線と離れ、終点のナムトックまで泰緬鉄道の路盤を走ります。

 乗客は「Death Railwayツアー」の欧米人観光客が目立ち、バックパックの個人旅行者、家族連れや恋人たち、タイ人女性と白人老男性のカップルなど、多種多様な顔ぶれで、いかにも観光列車の雰囲気です。

 以前訪問した際は、途中から遠足と思しきタイの学生の集団が乗車してきました。学生の1人に身振り手振りで尋ねると、終点のナムトック駅の先にサイヨークノイ滝があって、そこへ遠足するのだと。こうした学生の集団は何度か見かけ、ナムトック線が遠足や修学旅行のコースになっているようです。客車は上下左右によく揺れ、連結器が外れそうなほど。列車も30分遅れは当たり前で、2時間遅れすらありました。


Tham Krasae Bridge(タムカセ橋)駅で降りる観光客の集団。多いときには列車内のほとんどの人々が下車する(2013年2月、吉永陽一撮影)。

 今では路盤が強固となり、レールの太さも本線並み。列車も定時運行です。変わらないのは、線路端に碍子が並ぶ古い電信線があること。有人駅ではタブレット交換が実施され、日本では昔日の情景となった姿が現役です。

 カンチャナブリ駅の先で左へカーブし、全長305.55mのクワイ川鉄橋(旧名メクロン永久橋)を渡ります。ここが『戦場にかける橋』のモデルとなった観光客に大人気の場所。戦時中は下流側に木橋も建設され、橋梁が2本ありました。鉄橋内は歩けるため線路は観光客でごった返し、徐行運転の列車がすれすれを通ります。日本とは異なる鉄道光景です。

 クワイ川鉄橋の先は農村地帯がしばらく続き、クウェー川(ケオノイ川を改称)に突き出るあたりでチョンカイの切り通しを通過します。人海戦術で山塊を崩した難所のひとつで、5か月の突貫工事で切り通しにしました。

走ったのは日本のC56形蒸気機関車

 さらに50kmほど進んだルムサム駅の先には、アルヒル桟橋、あるいはタムクラセ桟橋と呼ばれる、断崖にへばりつく木橋の区間を列車が走ります。右手は迫る崖、左手はクウェー川が寄り添い、列車はミシミシと軋み音を立てながら最減速で進むのです。

 かつて、泰緬鉄道では日本から供出されたC56形蒸気機関車が使用されました。C56形もこの木橋を渡ったのですが、タンビュザヤまでの線路は木橋だらけ。路盤も悪いうえに雨季となれば泥濘化して、何両ものC56形が乗員もろとも川へ転覆落下したそうです。

 加えて制空権を確保した連合軍の空爆に晒され、線路が寸断される毎日でした。人海戦術の突貫工事で開通した線路は、必ずしも安定した陸上補給路ではなかったのです。なお、日本へ里帰りを果たした31号機が靖国神社の遊就館へ静態保存、44号機が大井川鐡道で動態保存されています。15号機と17号機はタイ国鉄で動態保存され、毎年12月のカンチャナブリ祭りの際は走行することがあります。


バンコク・トンブリ機関区で整備されているC56の動態保存機。タイ国鉄はC56を700番台と符号し、715号はC56 17号機となる。許可を得て撮影(2023年2月、吉永陽一撮影)。

 終点のナムトック駅付近は地元の利用者が多く、日常の足という一面が見えました。朝夕の通勤通学、日中の買い出しの光景があり、のどかなローカル支線といった趣です。これが歴史で知った泰緬鉄道の今なのかと、最初は戸惑うほど平和な日常がそこにありました。

 泰緬鉄道、そしてナムトック線は、建設の経緯と犠牲者のことを思うと我々日本人にはなかなか行きづらいかもしれませんが、バンコクから列車がありアクセスは良好です。開通から80年、タイには観光と日常の生活に包まれた、のんびりとした鉄道があります。