原辰徳の元チームメイト・村中秀人はプリンスホテル入団で驚愕「ここはプロ野球の養成所か...」
消えた幻の強豪社会人チーム『プリンスホテル野球部物語』
証言者〜村中秀人(前編)
社会人野球で一時代を築いたプリンスホテルは、高校野球の名将も生んだ──。2023年で監督人生35年目の村中秀人は、東海大相模高を率いて春2回、現任の東海大甲府高では春2回、夏6回と甲子園に出場。1992年春に準優勝、2004年、12年夏にベスト4の実績を持つ。その原点が、第4代主将も務めたプリンス野球部にあったという村中に、入社の経緯から聞く。
東海大相模高、東海大で原辰徳(写真左)とチームメイトだった村中秀人氏
「大学4年の時ですね。ちょうど原辰徳が全日本に選ばれた時、プリンスホテルの中屋(恵久男)さんという方がショートをやっていまして。辰徳にいろんな話を聞いたんです」
左腕エースだった東海大相模高時代から、村中は同期の原辰徳(現・巨人監督)とチームメイト。辰徳の父・原貢が監督を務める同校で1974年夏、75年春・夏、76年夏と甲子園に出場。翌77年に原貢が東海大の監督に就任すると、村中は辰徳とともに進学。外野手として首都大学リーグで7回の優勝に貢献し、ベストナインを3回受賞してプロからも注目された逸材だった。
「ある球団がドラフト3位で指名すると聞いていたんですが、肩を壊してしまって......。原監督から『プロはちょっとあきらめて、ノンプロに行こう。たくさん来てるから、いろんなとこ行ってみろ』と言われて、本当にいろんな会社の方とお会いしました。どうしようかな......と思った矢先に、監督が突然『プリンスホテルに行こう』って」
一期生の石毛宏典(駒澤大/元西武ほか)、中尾孝義(専修大/元中日ほか)、堀場秀孝(慶應義塾大/元広島ほか)を筆頭に東京六大学、東都大学のスターばかりで圧倒的にレベルが高い。プリンスにそんなイメージを持っていた三期生の村中は「首都大学の選手が行っても潰されます。ほかのところに行きたいです」と監督に言ったが、「おまえだったら大丈夫!」のひと言。
「それで辰徳に『どう? プリンス』って聞いたら、『あそこは徹底的に野球のレベルが高いからさ、仕事よりも野球をしっかりやらないとすぐクビになっちゃうかもしれないよ。でも、野球やる環境は最高だと思うよ』って教えてくれました。それで一度、お会いしてみようかと思って、原監督と一緒に"赤プリ"まで行ったんです」
赤坂プリンスホテルの一室で監督の稲葉誠治、助監督の石山建一と面会。話を聞くだけのつもりが、本社から届いた書類一式に捺印を求められ、捺した瞬間に入社が決まっていた。創立以前からチームづくりに携わり、実質、指揮を執る石山からは、「レベルが高い選手が多いけれども、基本的には十分、個性を生かして伸ばしていくよ」と言われた。
「入った途端、個性どころじゃなかったです。全体練習はパッとアップをやって終わりで、自分の練習が終わったら帰っちゃう。たとえば、初代キャプテンの堀場さんも、バッティング練習やったら『はい、どうも、失礼しまーす』って挨拶して、ユニフォーム脱ぎ捨てて帰る。あの頃、練習着も全部クリーニングだったんですけど、『あれ? ノンプロってこんなもんかな』と思って」
選手のレベルの高さと充実の設備を見て、「やっぱり次元が違う......。ここはプロ野球の養成所か?」と感じた村中だったが、練習は東海大時代に比べてきつくなかった。それでも、前年の80年、創部2年目にして都市対抗に初出場したチームなのだ。入社1年目の新人なりに、これからやるべきことを考えた。
「辰徳が言っていたとおりだなって。ここでは自分でしっかり意識を持ってやらないと、選手としてはすぐ終わっちゃう。逆に、意識を持った選手は個人でガンガン練習できるから、そのぶん全体練習は緩いんだなと、僕なりに考え直しました。ただ、チームとしてどうなのかなと。たしかに個性を生かしていたとは思いますが、すごく我が強い人が多くて......」
【スター揃いのチームが都市対抗を逃す理由】ある日の練習中、先に外野ノックを終えた村中が、内野ノックを見ていた時。遊撃の中屋の動きがよく、もともとうまいと思っていたから、「中屋さん、ナイスプレー!」と声を張り上げた。すると「そんなこと言う必要ねえよ!」と返された。驚き怯んで謝ると、「そんなの当たり前なんだから」と言われてしまった。中屋は二代目の主将でもあり、何も言い返せなかった。
「スターが揃っているから、『オレが、オレが』というチームだったんですね。これでいいのかな......と思っていたら、都市対抗には出られなかった。それで石山さんが責任をとる形で辞められて、稲葉さんが指揮を執るようになりました。稲葉さんはどちらかというと温厚で、練習中もほとんど見ているだけ。そのなかでポイントをポン、ポンと言う方でしたね」
稲葉は現役時代、村中と同じ左投手。それもあって村中は、石山のみならず稲葉にもかわいがられた。1年目から外野を守った一方、左肩故障の完治を促したのが稲葉だった。完治して投手に再挑戦したが本来の球威はなく、打者一本で生きる道を選んだ。入社2年目の82年は試合に出る機会も増えたが、チームはまたも都市対抗出場を逃した。
原因のひとつは選手の流出である。プリンスは80年に都市対抗に初出場したとはいえ、オフに中心選手の石毛、中尾がプロ入り。81年のオフには投手の住友一哉(元近鉄ほか)、西山進(元西武)、外野手の金森栄治(元西武ほか)がプロ入りし、戦力ダウンが顕著だった。選手個人の力に頼り、まとまりに欠けるチームだけに影響は小さくなかった。
「81年、82年と都市対抗に出られなかった時は、予選が終わればホテルで社業です。ベッドメイキングから西武園のプールの監視員までやりましたよ。それと、ユニフォームと練習着のクリーニングは廃止になって、自分たちで洗濯しないといけなくなった。で、次の年、83年のキャンプからチームが変わり始めて。小山さんがコーチになって選手任せではなくなりました」
【プリンスホテル野球部を変えた男】一期生の小山正彦は立命館大出身の内野手。大学時代はレギュラーではなく、会社の将来を見据えて野球部の枠で入社させた幹部候補生だった。実際、1989年に退部後はホテルマンとなり、のちにプリンスホテルの社長(2018年〜23年6月)にまで上り詰めるのだが、野球部でも選手としては80年まで。81年からマネージャーとなり、83年からコーチに就任した。
「人間的に裏表がなく、いたって誠実な男」と石山が評する小山。選手として大成せずとも指導者の資質あり、と見ていたという。そもそも、いかにレベルの高いプリンス野球部といえども全員がプロに行けるわけがなく、プロを目指す選手だけではチームは成り立たない。そのなかでコーチの小山が選手を鼓舞し、叱咤することで過去にない厳しさが生まれたと村中は言う。
「一期生の時から、大学でもレベルの高い選手ばかり集めたわけです。監督やコーチが言わなくても選手自身でできている、できるんだろう、という考えを首脳陣の方は持っていたと思う。それがついに変わって、一期生だった小山さんがバンバン言うようになって、練習も厳しくなりました」
83年、プリンスは第一代表で都市対抗に出場。1回戦で日本生命に3対4と惜敗したが、マスコミの前評判は高く、優勝候補の一角に挙げられていた。村中自身は代打の一打席で出場も貴重な経験を積んだ。成長を遂げた翌84年にはレギュラーを獲り、1、2番で長打力を発揮。チームは春のスポニチ大会で初優勝を果たすと、2年連続、第一代表での都市対抗出場を決めた。再び優勝候補に挙げられ、当時の大会展望記事にはこう評されている。
<プリンスホテルは強力打線と多彩な投手力、さらにチームに粘りが出てきたのが強み。創部当時、石毛、中尾、堀場など東西大学の花形選手を集めたが、個人プレー、あきらめの早さなどでチームとしてまとまらなかった。しかし、6年目を迎え、(中略)チームワークもつき、たくましくなった> 『サンデー毎日 臨時増刊 第56回都市対抗野球号』より
(=敬称略)
後編につづく>>