巨大な駅ビルがそびえる小田急電鉄の相模大野駅。小田原線と江ノ島線は同駅で分岐する(記者撮影)

小田急電鉄の特急「ロマンスカー」は東京都心の巨大ターミナル新宿と、小田原・箱根、片瀬江ノ島方面を結んでいる。どちらも神奈川県を代表する山と海の観光地への玄関口の駅だ。その2方面への路線を分ける要衝、相模大野もまた巨大駅。相模原市南区に位置する。

「東京の町田」と隣同士

相模原市は人口約72万人。横浜市、川崎市に次いで神奈川県で3番目の人口を誇る。市制施行は1954年。2010年に政令指定都市となり緑区、中央区、南区の3区を擁する。面積は328平方kmと広く、神奈川県と間違えられやすいことで有名な東京都町田市のほか、八王子市、山梨県上野原市に隣接する。

相模大野駅もJR横浜線との乗換駅である町田と隣同士。横浜線には市役所最寄りの相模原駅(中央区)、JR相模線と京王電鉄相模原線が乗り入れ通勤通学客でにぎわう橋本駅(緑区)がある。レジャー利用の多いJR中央線の相模湖駅(緑区)も同じ相模原市内で、鉄道駅の顔ぶれはバラエティに富んでいる。

小田急線はその市域の東端あたりを「人」の字のように通る。人の字で言えば1画目、メインとなる小田原線は1927年4月に開通した新宿駅―小田原駅間82.5kmの路線。特急ロマンスカーは小田原から先、箱根登山鉄道線に乗り入れて箱根湯本を終着駅とする。一方、江ノ島線は相模大野から南下し、藤沢を経て片瀬江ノ島へ至る27.4kmの路線。小田原線の2年後、1929年に開業した。が、当時は分岐点には信号所があるのみで駅はなかった。

1980年刊行の『小田急五十年史』は、1889年の大野村発足当時について「村名すらなく単に相模野とのみ記されていた江戸時代と大差ない姿が、そのころまで続いたのである。大野の村名はもちろん相模野にちなんだもの」と解説する。町田や八王子がまだ神奈川県に属していたころの話だ。

その後、陸軍の施設が移転してきて軍都として変貌を遂げることになる。相模大野駅は1938年4月1日、「通信学校駅」の名称で開業。1941年1月1日に現在の駅名となった。五十年史によると「防諜上の理由による」。小田原方へ2つ隣の「士官学校前駅」は「相武台前駅」と改称した。同年、大野村は合併によって相模原町となった。

小田急社内では「大野」と呼ぶことが多い。ホームは2面4線で、南側の1・2番線が下りの小田原・片瀬江ノ島方面、北側の3・4番線が上りの新宿・千代田線方面。その間に上下の通過線がある。かつて新宿―相模大野間では江ノ島線の電車を連結して走らせる運用などがあり、同駅で頻繁に分割・併合の作業をしていた。いまでは土休日に30000形「EXE」「EXEα」、60000形「MSE」を使用する一部のロマンスカーでこの伝統の作業を見ることができる。

巨大な駅ビル、その裏側は?

ホームの階上に広大なコンコースと、中央、東口の2つの改札口がある。1996年に開業した駅ビルは、レストランやファッション・雑貨などの専門店で構成する商業施設「相模大野ステーションスクエア」。南北自由通路を挟んで、東側のA館と西側のB館に分かれる。中央改札口はA館の3階部分に位置する。B館の上層階には「小田急ホテルセンチュリー相模大野」が入っている。

相模大野管区長兼相模大野駅長の辻周児さんは「通勤客に加えて、小田原線と江ノ島線と乗り換える学生の姿が目立つ」と駅の特徴を話す。そのうえで「江ノ島線を抱えていて運転の要、間違いなく心臓部。新宿には35分、片瀬江ノ島にも35分、箱根へは約1時間。どこにでも簡単に行ける」と地の利を挙げる。


相模大野管区長を兼ねる辻周児相模大野駅長(左)と藤田修一副駅長(記者撮影)

東口は地味な印象だが、この改札を出て左の通路を進むと北出口。北里大学相模原キャンパスへのバス乗り場がある。右は南出口で、どちらも外に出るまで屋根と壁に囲われた長い通路。雨の日も濡れずに出口まで移動できるようになっている。相模大野管区の藤田修一副駅長は「階段の下までが構内なので終電の後、巡回に行くのが大変」と話す。

一方、巨大な駅ビルの“裏側”には駅事務室のほか、食堂兼休憩所、更衣室、寝室、浴室といった外からはうかがい知ることができないスペースが広がっている。駅員は同じ管内の東林間、小田急相模原で勤務する人数を合わせて約70人。基本的に24時間勤務で9時半に出勤、翌日の9時半に交代するため、バックヤードに生活ができる機能が備わっている。

さらに信号所がある。信号扱者(あつかいしゃ)の経験が長かった藤田副駅長は「相模大野の信号所は運転の要で一番難しい。遅延を発生させてしまうと全線に遅れが波及してしまう一方、ここで収束させることもできる非常に重要な場所」と説明する。


相模大野駅の信号所。車庫線もあり配線が複雑だ(記者撮影)

まさに小田急線の要衝といえる相模大野駅の周辺にはさまざまな鉄道の重要施設が集中している。小田原方に隣接する大野総合車両所は、全般検査や重要部検査といった電車を分解した大がかりなメンテナンスを手がける。経堂と相武台にあった工場を統合する形で1962年に開設した。運輸司令所や電気司令所も大野にある。

海老名に負けていられない?

また、喜多見、大野、海老名、足柄の4カ所ある乗務員区所のうち、大野電車区・大野車掌区にそれぞれ約130人の運転士・車掌らが所属している。電車区の梅津満区長、車掌区の猿田高士区長は「大野は総合車両所がある関係で、ほかの区に比べると突発的な試運転を担当することが多い」と口をそろえる。

猿田区長はJR線で運んできた新造車両の「甲種輸送」の誘導にもよく携わった。JRの連絡線がある新松田から相模大野まで機関車が牽引、工場へは方向を変えて押して入れる。「作業しやすい場所にぴったり付けるために運転士と呼吸を合わせ、10cm、20cm動かすのがけっこう大変だった」と振り返る。


大野電車区の梅津満区長(左)と大野車掌区の猿田高士区長(記者撮影)

梅津区長は「大野を人間の臓器に例えるなら肝臓かなと思う。いちばん大きくて働き者。少々のダメージにへこたれない強い再生機能がある」と話す。そのうえで「正直、最近は(本社機能が一部移転した)海老名に押されているなと感じるところがあるが、要である大野エリアを盛り上げていきたい」と意気込む。管区長は心臓、電車区長は肝臓と、例え方はそれぞれだが、小田急のキモであることは間違いなさそうだ。

大野電車区・車掌区にも乗務員のための食堂や寝室、浴室などが備わっている。その建物は相模大野駅から南西へ一直線に延びる小田原線と、カーブを描きながら高架で越えて駅に入線してくる江ノ島線の上り線に挟まれた敷地にある。


小田原線を高架で越える江ノ島線の上り電車(記者撮影)

小田急OBの生方良雄氏は著書のなかで「1929年当時、小田原線、江ノ島線ともそれぞれ片道40〜60分時隔運転であったにかかわらず、小田原線と江ノ島線とを立体交差としたことは過剰投資といわれたが、戦後、どれだけ役にたったか計り知れない」(『小田急今昔物語』)とたびたび指摘している。

電車のビュースポットもある

江ノ島線の上り電車が駅に到着するときには踏切が鳴って電車の接近を知らせている。が、その踏切はフェンスに遮られた鉄道敷地内にあって関係者以外が渡ることはない。付近は小田原線・江ノ島線双方の電車が見られる格好のビュースポットのため親子連れが目立つ。地下通路を通って電車区・車掌区と行き来する乗務員の姿も子どもたちには憧れの対象かもしれない。


相模大野駅の小田原方はトレインビュースポットとなっている(記者撮影)


乗務員が作成したロマンスカーの「通過時刻表」(記者撮影)

フェンスには大野の乗務員が作成したロマンスカーの「通過時刻表」が取り付けられていて、相模大野に停車しないロマンスカーの時刻までも知ることができる。春のダイヤ改正時に一度取り外されたが、利用客から駅に要望があって復活させたという。さらに「ホテルセンチュリー相模大野には小田原線と江ノ島線、車庫を出入りする電車が眺められる客室がある」(辻管区長)。小田急線の要衝、相模大野駅は、未来の小田急のファンとユーザーの育成にも一役買っている。


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(橋村 季真 : 東洋経済 記者)