赤田裕之さん(29歳・仮名)は奨学金650万円を借りて国立大学に進学した男性。生来の心配性な性格により、大学時代から節約やバイトに勤しんできたといいます(写真:EKAKI/PIXTA)

これまでの奨学金に関する報道は、極端に悲劇的な事例が取り上げられがちだった。

たしかに返済を苦にして破産に至る人もいるが、お金という意味で言えば、「授業料の値上がり」「親側におしよせる、可処分所得の減少」「上がらない給料」など、ほかにもさまざまな要素が絡まっており、制度の是非を単体で論ずるのはなかなか難しい。また、「借りない」ことがつねに最適解とは言えず、奨学金によって人生を好転させた人も少なからず存在している。

そこで、本連載では「奨学金を借りたことで、価値観や生き方に起きた変化」という観点で、幅広い当事者に取材。さまざまなライフストーリーを通じ、高校生たちが今後の人生の参考にできるような、リアルな事例を積み重ねていく。

「幼い頃に両親は離婚しています。しかし、父からの養育費は払われなかったので、母子家庭の僕たちきょうだい3人は、到底裕福とはいえない生活を送っていました。だから、奨学金は母からの勧めで借りました」

母の年収を鮮明に覚えている

今回話を聞いたのは、北海道出身の赤田裕之さん(29歳・仮名)。現在、東北の病院でX線撮影やMRI検査を行う診療放射線技師として働いている。

「両親は僕が幼い頃に離婚しており、母は僕たちきょうだいを連れて農業をやっている祖父母の家に引っ越したため、『食うものに困る』なんてことはありませんでした。だからといって、ぜいたくできるような環境でもない。母は接客業や清掃などで生計を立てていましたが、ある手続きで母の年収を見たとき、200万円だったのを鮮明に覚えています」

とくに生活が制限されたり、クラブ活動ができなかったということはない。しかしながら、中学生のときから、どことなく「うちはほかの家とは違う」と感じるようになった赤田さん。そんな環境から抜け出したいと思ったのか、子どものときから勉強はできたため、高校は市内にある公立の進学校を選んだ。

「歴史が古く、OBがたくさんいる学校のため、高校独自の給付奨学金をもらうことができました。これは生活の足しにするというよりも、通っている間の学費をすべて賄うことのできるほどの額です。通学には1時間半かかりましたが、それでも地元の高校とは偏差値も大きく違ったため、周りからも『進学校に通えばチャンスがあるよ』と言われていました」

給付型奨学金を寄付している、OBたちの思いは進学率の向上だろう。当然ながら、赤田さんも大学に進学しないという選択肢は考えていなかった。

「母子家庭で実家にお金がないとはいえ、子どもの頃から『絶対に大学には行くんだ』という気持ちは持っていましたからね。それに家族や地元には高卒の人が多かったので、周囲も反対することなく『いい大学に入れよ』と応援してくれていたんです」

第二種奨学金の返済額を見て愕然とした

そんな赤田さんには6歳上と3歳上の兄が2人いる。母親が祖父母の家に引っ越してから、相次いで祖父母が亡くなり、母親のもとに遺産が入ってきたことで、兄2人はそのお金を使って専門学校に通うことができた。

ただ、それから数年が経過し、赤田さんが大学進学を希望していた頃には、遺産はほとんど残っていなかったという。

「もう、家族に大学の費用は出してもらえないだろうなとは悟っていました。そこで、母に言われるまま、何もわからずに第二種奨学金(有利子)を毎月満額の12万円借りることにしました。高校生ながら、『4年間借り続けた場合、返済額は最大820万円になる』という数字を見て愕然としました」

一応補足しておくと、もし毎月12万円奨学金を借りるとして、単純計算で貸与額は「12万円(毎月借りる額)✕12カ月(1年間)✕4年(在籍年数)=576万円」である。が、JASSOから送られてくる資料には、上限の金利である3.0%で計算した金額が『最大の返済額』として記載される。本連載に登場してくれる人によく見られる勘違いだが、この出来事は良くも悪くも、高校生だった赤田さんが自身の人生を真面目に考えるきっかけになったようだ。

他方で母子家庭であれば、第一種奨学金(無利子)の申請も通りそうなものだが、これは進学校に通っていたことが仇となった。

「高校在学中に第一種奨学金の予約をするのですが、『評定平均3.5以上』という規定に届かなくて……。というのも、進学校でみんな賢いから、勉強に追いつくのが精一杯だったんです。だから、第一種奨学金は応募することができませんでした」

すべてが希望どおりとはいかなかったが、なんとかお金の工面はできた赤田さんは、一浪の末に近隣県の国立大学に合格。私立大学は選択肢に入っていなかった。

ところで、浪人時代の予備校などの資金はどこから出てきたのか? 赤田さんの通っていた進学校には、付属の予備校のような制度があったため、そこに年間60万円で通うことができたという。地方の公立進学校ならではの話だ。

大学進学後も奨学金制度について調べ直す

こうして、国立大学の医療系の学部に進学した赤田さん。親元を離れ、家賃2万7000円のアパートでひとり暮らしを始め、将来は診療放射線技師になることを目標に掲げた。

「診療放射線技師の資格は3年間のカリキュラムなので、短期大学でも取れます。ただ、4年制の大学であれば、講義が詰め込みにならないため、精神的にも時間的にも余裕ができると思ったんです。学費は年間56万円なので、4年間でだいたい224万円。それに、入学金30万円と教材費が毎年10万円程度かかりました」

家賃、学費、生活費……。当然、それらはすべて奨学金で賄う必要がある。実家からの仕送りは望めない。

「医療系の学部なので、卒業後に指定の病院に就職すれば、奨学金が免除される制度もありますが、高校のときはそのような制度を当時は知りませんでした。また、調べていたとしても、行きたい病院に限って、そのような免除制度を設けていなかったり、人気の病院は枠の取り合いになっている状況でした。それでも、なにか応募できる制度はないか探しながら、大学に母子家庭であることを申請したところ、1年目の学費が全額免除になりました」

さらに、赤田さんは書類を読み返したり、インターネットで奨学金制度について調べ直す。その結果、『820万円』はあくまでも計算上の最大額で、金利の水準が大きく変わらなければ、実際はもっと少なく済むことがわかった。

また、第二種奨学金の貸与額を減らすかわりに、利子のかからない第一種奨学金を借りることになった。高校生時代の「予約採用」と違い、大学入学後の「在学採用」は大学の成績が判断材料となるが、ここではクリアできていたのだ。

「大学入学後に友人から『今なら借りられるのでは?』とアドバイスをもらったんです。そこで、申請したところ、今度は無事に通りました。そのため、3年生になってからは、第二種奨学金を毎月12万円から8万円に減額して、代わりに利子のかからない第一種奨学金を毎月5万円借りるようになりました」

奨学金の連載を1年以上続けている筆者からしても、かなり現実的かつ堅実な姿勢に思えるが、それでも、赤田さんの将来への不安は募るばかりだった。

「一度『820万円』という額を突きつけられたせいで、少しでも負担を減らしたいと思うようになり、2年生以降はアルバイトに明け暮れました。もう『借りているお金は余らせないといけない!』という気持ちで生活していましたね。飲食店、コールセンター、派遣のトリプルワークで、週末はフルタイム、平日も深夜まで働いて、8万〜10万円。長期休みには23万円も稼いでいました」

補足しておくと、赤田さんは部活にも所属し、大学生らしい楽しみも少しはあったようだ。だが、どれだけバイトしても「将来、返せないのではないか?」という不安が勝り、時には「心配性なので怯えて眠ることもできず、『大学になんて行くんじゃなかった……』と考えたこともありました」とのこと。いろんな人物が登場する本連載だが、赤田さんはなかなか心配性な部類かもしれない。

結局、4年の学生生活で、貸与総額は約650万円となった。

「毎年100万円は返済する」というルールで生活

その後、赤田さんは4年生の冬に国立病院の内定を獲得し、国家試験にも無事合格。晴れて診療放射線技師の資格を習得した赤田さんは、地元・北海道の病院で働くつもりだったが、配属先は大学のある近隣県の病院だった。

希望していた病院ではなかったことは受け入れられたが、それにしたって給料が低すぎた。

「診療放射線技師の給料は、大卒の公務員と同じ額なので少ないんですね……。それに医療従事者は夜勤の『当直』に入るまでは、手取りが20万円を超えることはありません。2年目以降は、給料が増えるのですが、その代わりに今度は住民税など徴収される税金も増えます」

そんな中でも、社会人になって半年後には奨学金の返済が始まる。ここまで薄給だと満額借りていた第二種奨学金の返済に首が回らなくなりそうだが、それでも大学時代にアルバイトで働き詰めていた赤田さんには余裕があった。

「就職した時点で、奨学金の残りとバイト代を合わせた貯金が150万円あったので、毎月2万8000円の奨学金の返済はなんとかなりました。それに加えて早期での完済を目指してボーナスが入るたびに、毎年繰り上げ返済していました」

4年間で650万円借りたと聞くと「借りすぎではないか?」と思う人もいるかもしれないが、堅実な赤田さんは150万円を残して新社会人になり、給料が低いうちはこのお金を奨学金の返済に充てていた。狙っての戦略ではなく、赤田さんが心配性だったゆえだったわけだが、なにが怪我の功名になるかは予想できないものだ。

その後も節約を心がけ、欲しい物を買わずに「毎年100万円は返済する」というルールを自分に課していた赤田さん。その甲斐あって、社会人7年目の29歳の時点で650万円の奨学金はすべて返済することができた。

「払い終えたときは開放感でいっぱいでしたね。『やっと、自分の人生がスタートするんだ』という気持ちになりました。これからは習い事や自分のやりたいことにお金を使っていきたいと思います。早速、ずっと欲しかった食洗機を購入しました」

持ち前の堅実さと努力で、20代のうちに奨学金を全額返済することができた赤田さん。肩の荷が下りてからは、別の病院への転職も果たした。

というのも、返済している間はあまりにもストイックな生活を送りすぎて、何事も行動に移すことができなかったという。

「ずっと節約を心がけていました。ひとり暮らしですが、外食はせずに毎日自炊。職場にもお弁当を持参し、お酒も付き合い以外では極力飲まないようにしていました。趣味もとくにないので、年に1回の旅行以外はほとんどお金を使うことはありませんでした」

自分に厳しくストイックな生活を送り、貯金をしていた赤田さん。だからといって、友達付き合いをやめることはなく、結婚式に呼ばれたら必ず出席していた。

「地元の友達は結婚が早かったので、すでにもう30万円近くはご祝儀で消えています(笑)。確かに痛い出費ではありますが、これを断っていたら友達がいなくなっちゃいますよ」

奨学金の存在がネックになっていたことは確か

そんな、赤田さんに結婚の予定はまだない。ただ、そこにも奨学金の返済が関係しているのかもしれない。

「彼女との結婚を意識していたときは、やっぱり奨学金の存在が『足かせ』とまではいいませんが、ネックになっていたことは確かです。自分の抱えた負債が子どもにも影響するかもしれないと思うと、安易に結婚することもできません。だからこそ、普通の生活を送るためにも『早く返さなくては』という気持ちになりました」

かつて、夜勤に入らないと手取りで20万円にも満たなかった赤田さんの給料だが、今は転職したことで年収も500万円に増えた。

学生時代から社会人になった今に至るまで、奨学金の返済という重圧が強迫観念のように彼を苦しめていたことは一目瞭然だ。その一方で、今の自分があるのは奨学金の存在のおかげでもあることを、彼は重々理解している。とはいえ、追い詰められるほど、借りるべきではなかったと振り返る。

「子どもの頃に自分の置かれた環境に腐らず、ちゃんと勉強して大学に入ったことで、大人になった今、稼げる職業に就けたのはよかったですね。でも、奨学金を借りる際に、わけもわからずに満額12万円を借りたことは悪手だったかもしれません。

今、振り返っても、もっと自分でも調べて、計画的に少なめな金額を借りるべきだったと思います。高校生のときにもらっていたような給付型奨学金も、大学にもきっと利用できるものはあったはずなので、もっと奨学金制度について調べておくべきでした」

20代のうちに650万円も完済し、安定した職業と低くない年収を手にしたことを考えると、赤田さんはいささか「自分に厳しすぎ」と思わなくもないが、お金はそれだけ「タラレバ」が生まれやすい話題なのだろう。返済から解放された赤田さんの今後を応援しつつ、自身の将来を不安視する、心配性な高校生や大学生に、彼のリアルな体験談が届くことを願いたい。

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(千駄木 雄大 : 編集者/ライター)