坂本龍馬の師である勝海舟の英語学習法とは/出所:『吾輩は英語がペラペラである』

新渡戸稲造、夏目漱石、野口英世……彼らに共通する点がわかりますか。それは、成人する前に海外への留学を経験することなく、日本にいながらにして、ネイティブ顔負けの英語力を身につけたことです。

現代よりも英語学習法が確立されていない時期に、偉人たちはどのようにして英語をマスターしたのでしょうか? そして、現代の私たちが彼らの「英語学習法」から学べることとは?

『吾輩は英語がペラペラである ニッポンの偉人に学ぶ英語学習法』より抜粋、再構成してお届けします。

オランダ語を学び西洋に負けない国をめざした武士

勝海舟(1823〜1899年)
幕末の武士・政治家。咸臨丸の艦長として渡米。帰国後は坂本龍馬らを門下生に迎え、神戸海軍操練所の建設を進めた。戊辰戦争では薩摩藩との厳しい交渉を切り抜け、江戸城の無血開城を実現した。

現代の日本では生まれや職業が異なる者同士でも問題なく意思疎通ができますが、明治時代に標準語政策が敷かれるまではそれがままならない状態であったことをご存じでしょうか。

身分制度の影響で職業による言語差があったほか、藩ごとに使われる言語が異なっており、藩同士のやりとりには通訳を必要とするほどだったのです。武士のあいだでは共通語として武家言葉も使われていましたが、東国の武士と西国の武士の会話が成り立たず、謡曲を使って会話をするケースも見られたのだとか。

海舟の父親は江戸の下町の旗本でしたが、役職を持っていなかったため、海舟一家は庶民に近い生活を送っていたといいます。そんな海舟が話していた言葉とは「べらんめえ調」のこてこての江戸語だったそうです。

海舟が生きた時代には、江戸語がかなり浸透していました。しかし、それでも医者や学者などの職業を持つ人たちは言葉づかいに保守的であり、京都や大坂で使われる上方語風の言葉を話し、また遊廓へ行けば遊女たちは「ありんす調」の独自の言葉を話したといわれています。現代の日本とは異なり、日本全国に共通する言語というものが、江戸時代には存在しなかったのです。

東京大学が2021年3月に発表した研究によると、3言語以上の習得経験を持つ多言語話者のほうが、2言語話者よりも新たな言語を習得するときの脳の活動が活発になることがわかっています。統一された言語がなく、多様な言語が使われていた当時の日本は、外国語習得には比較的有利な環境だったのかもしれません。

海舟も、江戸語や上方語に触れる中で培った語学の素養を、オランダ語学習において発揮しました。元々は剣術に励んでいた海舟ですが、永井青崖に師事して西洋の兵術を学ぶ中で、オランダの大砲に興味を持ったことをきっかけに、本格的にオランダ語を勉強するようになります。

日本にいながらにして海舟が実践した驚きの学習法が、全部で58巻もあった蘭日辞書『ヅーフ・ハルマ』をひたすら書き写すことでした。 当時、外国語の辞書は大変高価な貴重品で、貧しかった海舟は辞書を購入することはできませんでした。そこで、知り合いから辞書を借り受け、1年がかりで2部書写。1部を売って借り賃を返し、もう1部を手元に残したといいます。

こうしてオランダ語を習得した海舟は、オランダの海軍提督キンスべルゲンが書いた『舶中備要』を原書で読みました。ペリーが来航する半年も前にこれを読み終えた海舟は、本に書かれていた「世界の中のオランダ」という視点を「世界の中の日本」に置き換え、国防について考えを巡らせていたそうです。

海軍伝習所では脱落者が続出

海舟は27歳で東京・赤坂に氷解塾と呼ばれる蘭学塾を開き、オランダ語を教えるようになります。ちょうどそのころ、ペリー来航を目の当たりにした海舟は、国防強化を提案する意見書を幕府に提出。これが幕府の目に留まり、長崎の海軍伝習所で生徒監(生徒代表)として学ぶチャンスを与えられました。海軍士官養成のため設立された伝習所には、海舟のほかにも、幕臣や諸藩の藩士から選抜された生徒が集まっていました。

伝習所の講義は大変厳しいものでした。オランダ人の教官が黒板に書いた言葉をひたすら暗唱することが求められたのです。講義中は板書をノートに書くことは許されませんでした。

というのも、実際に国防の最前線では、船上でオランダ人と会話をすることが求められます。オランダ人が発した言葉を、揺れ動く船の上で書き取ることは不可能ですし、そもそも、難なく会話をこなせるレベルでなければ実務に携われません。板書を暗唱した翌日は、板書なしでの講義が行われたのだそうです。これに耐えきれず、脱落していく生徒も多かったのだとか。

一方、独学で『ヅーフ・ハルマ』を筆写し、蘭学塾で教えていた海舟には、十分なオランダ語のスキルが備わっていました。 伝習所での講義の合間にはオランダ人の教官との雑談を楽しんでおり、「聞く」能力が鍛えられていたので、講義も余裕だったようです。

海舟は長崎の海軍伝習所で約4年間、研鑽を積んだと伝えられています。生徒代表を務めていた海舟は、オランダ語がペラペラであり、航海の経験も豊富であったことから、生徒たちから慕われていました。

それに対し、2代目所長に就任した木村喜毅は、オランダ語もしゃべれなければ、航海経験も乏しい指導者でした。裕福な旗本の家に生まれ、若くして要職を歴任する喜毅、かたや極貧生活から努力で這い上がってきた海舟。伝習所の生徒たちが遊廓に行くことを取り締まる喜毅と、そんな細かいことは気にするなという海舟。水と油のような2人のあいだには軋轢があったといわれています。

2人の対立を物語る、こんなエピソードも。喜毅がオランダ人と話す際に、海舟はその通訳に喜毅の悪口を言ったのだとか。なかなかオランダ語に訳そうとしない通訳に、海舟は「訳さなければ、己が片言で言うてしまうぞ」と脅す始末。その通訳は海舟を恐れ、それ以来海舟の前に姿を現さなくなったそうです。

海舟は、伝習所の教師団の指導者であるカッテンディーケとは、良好な関係を築いていたといいます。カッテンディーケも権威主義的な喜毅を好んでいなかったようですが、オランダ語がわかり、責任感が強く、明朗な海舟には信頼を寄せていました。海舟はカッテンディーケと触れ合う中で、キリスト教に対して寛容な気持ちを示し、開国への意向を固めていきました。

ジョブズと同じ!勝海舟も散歩が習慣だった

散歩をすると、よいアイデアがひらめき、仕事や勉強が一気に捗ることがあります。iPhoneの生みの親であるスティーブ・ジョブズも、散歩を習慣的に行い、脳を活性化させていたそうです。

海舟もまた、散歩を習慣としていた一人でした。 伝習所時代に教官から「時間があるときには散歩をするのがよい」と教わった海舟は、長崎から江戸に戻ったあともこれを実行しました。日常的に散歩をしていたからこそ、脳が活性化され、語学や新たな知識の習得につながったのは間違いないでしょう。

また、西郷隆盛率いる軍が江戸に攻め入り、江戸の町を焼き払おうとしたとき、茶屋の女将から情報を収集するなどして、不穏な動向にいち早く気づくことができたのも、日ごろの街歩きの経験があったからだともいいます。

散歩に限らず、海舟は周囲の助言を聞いてすぐ実行に移す人物でした。例えば、将軍・徳川家茂の海路での上洛にあたり、責任者を任せられた海舟は、不眠不休で指揮をとり続け、将軍一行を大坂まで無事に送り届けるという任務を全うしましたが、そのときの対応も長崎で見聞きした話をもとにしたものでした。海舟は師に恵まれただけではなく、熱心に助言を聞いて行動したからこそ、数々の成果を残すことができたのです。

英語学習も同様です。いくらすばらしい教師のもとで英語を学んだとしても、学びっぱなしではいけません。海舟のように、学んだことを実行に移して初めて英語力が向上するのです。

讃美歌の替え歌、勝海舟がはじめました

卒業式の合唱曲や閉店時のBGMとして知られる『蛍の光』。元々は讃美歌であることはご存じでしょうか。そのほかにも、童謡『むすんでひらいて』やヨドバシカメラのCMソングなど、今や讃美歌をモチーフに作られた歌は日本中に溢れています。

そんな日本における讃美歌の替え歌ブームの火付け役となったのが、海舟でした。海舟は、当時流布していたオランダ語の讃美歌『ローフ・デン・ヘール』から、以下の『なにすとて、やつれし君ぞ』の詩を生み出したと伝わっています。以下はいくつかの詩篇の要約ないし翻案ですので、讃美歌のどの部分に対応しているかは不明とされています。

なにすとて やつれし君ぞ
哀れその、思ひたはみて、
いたづらに、我が世を経めや、

引用:手代木俊一『日本における讃美歌』日本キリスト教団出版局 2021

現代語訳:なぜ(神よ)あなたは痩せ衰えてしまったのか。
ああ私はどうして、心くじけて、
無為に、日々を過ごしてしまったのだろうか、

三男・梶梅太郎の妻、クララ・ホイットニーの日記によると、海舟は自分の屋敷に教会を持っており、いずれクリスチャンになるだろうという噂が流れていたそうです。キリスト教が禁教とされる当時の日本において、海舟は翻案にして原詩を特定しづらくしながらも、『なにすとて、やつれし君ぞ』の詩を通じて密かに信仰を告白していたのかもしれません。


(大澤 法子 : ライター・翻訳者)