アメリカで正式承認されたエーザイの認知症薬「レカネマブ」(右)。エーザイは、2030年に売上高1兆円を超える大黒柱となると期待を寄せる(左写真:今井康一撮影、右画像:エーザイ)

「万感、胸に迫るものがある」

エーザイのアルツハイマー病治療薬「レカネマブ」が7月7日、アメリカで正式承認された。同日都内で開かれた会見で内藤晴夫CEO(最高経営責任者)は、しみじみと感想を口にした。承認の連絡を受けてから、約7時間後のことだ。

レカネマブ(アメリカでの製品名はレケンビ)は2023年1月に、アメリカで迅速承認を受けている。ただ、これはいわば「仮免許」で、保険が適用される患者はかなり限られていた。レカネマブは1人当たり年間2万6500ドル(約370万円)かかる高額な薬のため、保険で幅広くカバーされることが、使用者拡大のカギだった。

とくにアメリカで高齢者が加入する公的医療保険(メディケア)は迅速承認の後、レカネマブの保険適用を臨床試験に参加した患者に限定していた。今回の正式承認を受け、メディケアはそうした制限なく、広く保険の適用対象とした。これにより、薬にアクセスできる患者数が大幅に増えることになる。

1兆円を超える「大黒柱」へ成長を期待

エーザイは、世界初の認知症薬「アリセプト」を1997年に発売したパイオニアで、長年がんと認知症(神経領域)の2分野に集中して研究開発を行ってきた。しかし、認知症薬の開発は会社のもくろみ通りには進まなかった。

2021年にアメリカで迅速承認された「アデュヘルム」は、エーザイにとってアリセプト以来の認知症薬だったが、臨床試験で明確な効果を示せずメディケアが使用を制限。価格も2万8200ドルと高額だったことからほとんど普及していない。

内藤CEOは7月7日の会見で「アリセプトの研究開始から約40年を経て、ついにアルツハイマーの原因に関わる治療薬を開発」できたと話した。レカネマブの正式承認を受けたことでようやく、アリセプトに続く認知症薬開発という「悲願」達成となったわけだ。

アメリカでの承認が製薬企業にもたらす影響は大きい。日本の約3倍の人口を抱えるうえ、薬の価格が高くつきやすい。エーザイはレカネマブの全世界での売り上げについて、2030年時点で1兆円を超え、全社売上高の約7割を占める大黒柱になるとみている。その多くをアメリカが占める想定だ。

今のエーザイの柱は、抗がん薬「レンビマ」だ。今回の承認は、会社の収益構造をも一変させる歴史的な転換点となる可能性を秘める。

エーザイによれば、アメリカでレカネマブを必要とする患者の診断から投与、その後のモニタリングまで行える準備が整った神経科医は現時点で約1200人。2023年度のアメリカでの使用者は約1万人と見込む。この中には、低所得者層への無償提供も含まれる。


正式承認の連絡を受けた内藤晴夫CEOは「胸に迫るものがある」と語った。写真は2021年のインタビュー時(撮影:今井康一)

ただし、レカネマブの本格的な普及には多くのハードルが立ちはだかる。

1つ目は、アルツハイマー病の「早期」段階の患者を対象としている点だ。早期段階では多くの場合、本人が病気の事実を認めたがらなかったり、家族など周囲の人も、アルツハイマー病と気づけなかったりする。また、医師の診断も簡単ではない。

早期段階でアルツハイマー病と診断できたとしても、次は脳内にたんぱく質「アミロイドβ(Aβ)」が蓄積されているかどうか、確かめなければならない。Aβは認知症の原因とされ、レカネマブはこのAβを脳内から除去することで症状の進行を遅らせる薬だからだ。

Aβの蓄積を調べる「PET検査」は価格が高く、手軽に受けられるものではない。目下、血液バイオマーカーで判定できる仕組みが開発されているが、普及には時間がかかりそうだ。

【2023年7月14日10時02分追記】PET検査に関する表記を一部、上記の通り修正いたしました。

投与前に「遺伝子検査」も推奨

さらにFDA(アメリカ食品医薬品局)は今回の承認に際して、レカネマブ投与前に遺伝子検査を受けることを推奨した。

脳からAβを取り除く作用に関連して、脳の膨張や出血といった副作用リスクがあり、とくに特定の遺伝子(APOEホモ接合体)を持つ患者でそのリスクが高いためだ。エーザイによれば、その特定の遺伝子を持つ患者はアルツハイマー病患者全体の15%だという。

レカネマブの添付文書にはほかにも、投与期間中に数回、MRIで脳内を確認すること、抗凝固剤を服用する患者でも副作用に注意が必要といった点が記載された。薬は2週間に一度、点滴によって投与されるため、その間の介護者の負担も考慮しなければならない。

エーザイは目下、日本やヨーロッパで承認申請しており、日本では9月までに結果が出る予定だ。仮に日本で承認された場合には、これらのハードルに加えて、別の課題ものしかかる。

PET検査はアメリカでは近く保険適用となる見込みなのに対し、日本では保険適用外だ。30万〜80万円ほどとされる検査費用は、自己負担となる可能性がある。APOEホモ接合体について調べる遺伝子検査も、アメリカでは保険適用されているが、日本においては今のところ対象外だ。

さらにエーザイにとって悩ましいのが、薬の価格の問題だ。

日本では薬の価格が国によって定められるが、アメリカで先に承認された場合、アメリカでの価格の2分の1から3分の1程度になることが多い。これを踏まえると、日本でのレカネマブの価格は100万〜200万円程度に設定される可能性がある。

国民皆保険制度の下では、保険診療の対象となる薬の価格が高ければ、財政圧迫要因となる。そのため国は投与対象者の多い薬については、できるだけ安価に設定したい意向がある。国内の認知症患者は2025年で700万人を超えるとも言われ、アルツハイマー病はその約6〜7割を占める。これまで高い価格がついた薬は販売数の増加に伴い、値下げされた例もある。

エーザイとしては、長い年月と多大な費用を認知症薬の研究開発に投じてきただけに、低い価格づけや値下げはできるだけ避けたいところだ。そのため同社はレカネマブが介護費用の削減につながるという試算を発表するなど、国に対し慎重な価格設定を訴えている。

認知症部門の責任者が7月末で突如退任

レカネマブの普及へ、むしろこれからが正念場となるエーザイ。ただ足元では、その指揮を執る体制に気になる動きも起きている。

正式承認からわずか4日後の7月11日、エーザイはアルツハイマー病のグローバルオフィサーであるアイヴァン・チャン氏が7月31日付で退職すると発表した。

米国部門の最高経営責任者も兼任していたチャン氏は内藤CEOの娘婿で、業界では次期社長候補と見る向きもあった。今回のレカネマブの承認に向けて先頭で対応に当たり、これまでの会見でも、アメリカでのレカネマブについての質問は主にチャン氏が回答していた。

このタイミングでの退職について、エーザイは「本人のキャリアの意向」としているが、エーザイ関係者からは「知らなかった。不思議な人事だ」と驚きの声も上がる。

チャン氏の退任を受け、米国部門の最高経営責任者は安野達之CFOが就任し、アルツハイマー病のグローバルオフィサーは内藤景介チーフストラテジー&プランニングオフィサーが兼任するという。内藤景介氏は内藤CEOの息子で、まだ30代半ばという若さだ。

キーマンなき後、会社をレカネマブによって成長していく姿へと導けるか。今回の正式承認が、エーザイにとって大きな節目となることは間違いない。

(兵頭 輝夏 : 東洋経済 記者)