女性の描き方が魅力的な獅子文六。今回は彼の作品に迫ってみたい(写真:CORA/PIXTA)

学校の授業では教えてもらえない名著の面白さに迫る連載『明日の仕事に役立つ 教養としての「名著」』(毎週配信)の第38回は、7月1日が誕生日の小説家・獅子文六の魅力について解説します。

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7月1日に生まれた作家、獅子文六の名前をご存じだろうか。

戦前〜戦後に活躍した人気作家である。慶応義塾の幼稚舎からそのまま慶応義塾大学に進学したが、中退。しかしその後、大正時代にフランスに留学し、フランス人の女性と結婚し、帰国。日本で子供も産まれ、演劇や小説執筆の活動に専念していく。……と、本当にびっくりするほど戦前の「文化系インテリ」を地でいくような存在だったのである。

当時の日本で、フランス現代演劇を学ぶことができる人なんて、なかなかいなかっただろう。というか、今ですらかなり珍しい作家だ。だとすれば、獅子文六が戦前戦後の日本に持ち込んだフランスの香りとは――どのようなものだったのだろうか?

今回は彼の作品に迫ってみたい。

女性の描き方が魅力的な、獅子文六の作品

獅子文六といえば、演劇や随筆も有名なのだが、なにより小説家として名を馳せた人物だ。新聞連載『悦ちゃん』が大ヒット。この『悦ちゃん』は、2017年にNHKで放送されたドラマ『土曜時代ドラマ 悦ちゃん 昭和駄目パパ恋物語』の原作にもなっている。ユースケ・サンタマリア演じる父親の再婚のために、10歳の娘・悦ちゃんが奔走する物語である。

しかし彼の作品の魅力は、単に昭和の流行を捉えたホームドラマにのみあるわけではない。実は獅子文六は、女性の描き方が、かなり魅力的なのである。

たとえば長編小説『コーヒーと恋愛』は、こんな描写から始まる。1960年代、まだまだテレビが目新しいものだった時代。主人公は人気女優である坂井モエ子。しかしモエ子はその親しみやすい風貌から、サラリーマンの奥さんや薬屋のおかみさんなどの「オバサン」役を当てられることが多いのだった。

もっとも、当人のモエ子が、毒にも薬もならぬオバサン役に、飽きてることは、事実である。

「あたし、一度でいいから、思いっきり、悪女の役を、やってみたい……」

と、よく公言するのであるが、どのプロデューサーも、対手にしてくれない。(獅子文六『コーヒーと恋愛』ちくま文庫、筑摩書房)

そんなモエ子は、コーヒーを入れるのがとても上手だった。コーヒーもまた、テレビと同様、当時はハイカラな存在。しかしこの「コーヒー」が、モエ子の恋愛を左右していくのである。

そう、『コーヒーと恋愛』は、「オバサン」女優であるモエ子の、都会的でおしゃれな恋愛模様を描いた物語なのだ。

とびきり美人というわけでもないが、愛嬌があってコーヒーを淹れるのがうまく、年下の演劇作家と同棲している40代のモエ子。――なんだかその設定だけで、「え、意外と当時の日本の価値観、進んでるな」と感じないだろうか?

私は『コーヒーと恋愛』をはじめて読んだとき、昭和にもこんな進んだ恋愛観を描ける作家がいたのか! とかなり驚いた。モエ子は決して、肩肘張っているキャリアウーマンというわけではない。しかし年齢を重ねつつも、恋愛と仕事を(紆余曲折しつつ)楽しんでいる。

獅子文六の「フランス」で得たエッセンスとは、もしかすると、男女の対等な恋愛模様だったのかもしれない、とすら感じるのだ。

働く女性も頻繁に登場する

獅子文六の描いた小説のなかには、働く女性も頻繁に登場する。

たとえば小説『七時間半』。東海道線特急列車を舞台に据えた長編小説だ。そのタイトルの意味は、1950年代、東京から大阪に行くまで七時間半かかっていたから。本作は、東京・大阪間を行く特急「ちどり」の、乗客と従業員たちの人生をそれぞれ描いた群像劇となっているのだ。

下に引用するのは、『七時間半』に登場する藤倉サヨ子の物語。彼女は列車の食堂に勤める女性。実は同じく食堂に勤めている喜一に告白したところなのだが、その裏には彼女のある野望があった。

彼女は、父親の志を継ぎたいのである。戦時中に、父親が死亡して、あの商売をやめてしまったが、どうかして、自分の手で、もう一度開店して、曾て母親がそうしたように、自分がレジスターの前に坐って、店のサイハイを振ってみたいのである。東京の娘には、こういう執念はないかも知れないが、商人の都に生まれたおかげで、一見、温和そうな彼女の胸の底に、消しがたい火が燃えているのである。(獅子文六『七時間半』ちくま文庫、筑摩書房)

サヨ子の家は昔、大阪で食堂をひらいていた。しかし今は列車のウエイトレスとして働くサヨ子には、普通の縁談が降ってきている。自分の人生は、そんな普通の結婚生活では嫌だ。料理人として筋の良い男と結婚して、食堂をもう一度開店させたい。

そんな野望に燃えるサヨ子は、同僚の喜一に告白する。――が、喜一は喜一で、「まずは急行食堂のチーフ・コックになりたい」「大阪の小さいレストランの主人ではおさまれない」と感じてしまっている。さあ、二人の恋は、どうなる!?

女性自身にかなり意志があることが多い

……といった人生の交錯が、さまざまな形で描かれているのが『七時間半』なのである。いやはや、面白い。面白いし、女性自身にかなり意志があることが多い。サヨ子も喜一をただ好きなだけではなく、自分の将来設計ありきで好きになっているところが面白い。

女性の描き方。それは、獅子文六という作家が、現代においても尚読まれる理由のひとつではないだろうか。

実は獅子文六――彼は最近まで「忘れられた作家」であった。昭和の流行作家であったにもかかわらず、作品は軒並み絶版。しかし2013年、ちくま文庫から『コーヒーと恋愛』が復刊した。『コーヒーと恋愛』から、ふたたび獅子文六という作家の名が世に出るようになったのだ。そして『コーヒーと恋愛』という都会的でポップな物語は、意外に多くの人に読まれ、ほかの作品も復刊するようになったのである。

逆に今だからこそ、獅子文六の描く女性観の良さが、たくさんの人に届くのかもしれない。モエ子の恋愛模様も、サヨ子の野望も、今の女性にこそきっと響く。年齢を重ねてからの恋愛や、キャリアと結婚のバランスなんて、いかにも現代的なテーマではないか。

欧米のエッセンスを昭和の日本に持ち込み、都会的な香りで人気作家になった獅子文六。しかしむしろ今読むと、その女性の描き方や、男女の感覚は、「早すぎた」と言えるのかもしれない。今こそ読みたい獅子文六。ぜひ彼の作品に、触れてみてほしい。

(三宅 香帆 : 文筆家)