「死の通り」と呼ばれたブチャのヤブロンスカ通りは舗装され、住宅は建て替えられていた(筆者撮影)

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2023年5月12〜17日、ウクライナ・キーウで取材した。ロシア軍によるミサイル、ドローン攻撃が続き、市内にある「ジョージア軍団」のキャンプでは、戦場から戻ってきた多くの義勇兵たちが英気を養う姿があった。ウクライナ軍の本格的な反転攻勢直前で、緊張感が漂うものの、近隣の町であるブチャでは復興が本格化しており、戦後をにらんだ動きも始まっていた。

住宅地に義勇兵「ジョージア軍団」のキャンプ

ジョージア軍団のキャンプは、キーウ中心部から車で20分ほど。アパートが並び街路樹の新緑がまぶしい郊外の一角にあった。門を警備している兵士はいたが、助手を務めてくれたオレクシ・オトゥキダッチ氏(25歳)がロシア語で用件を伝えると、すんなり鉄門を開けた。

軍のキャンプなのだから、もっと人里離れた場所で厳重な警備が敷かれているかと想像していたので拍子抜けした。もともとは、グラウンドや体育館を備えたスポーツクラブの施設だった。


ジョージア軍団のキャンプとなったキーウ郊外のスポーツクラブ(筆者撮影)

ジョージア軍団とは、ロシアによるクリミア併合を受けて2014年、ジョージアの退役軍人のマムカ・マムラシュビリ氏が設立したジョージア義勇兵の組織だ。2022年2月24日のウクライナ侵略開始を受けて諸外国の義勇兵からなる「外国人軍団」が組織されるまでは、ジョージア軍団がもっぱら外国人義勇兵を受け入れていた。

キャンプの中庭では、迷彩服を着た義勇兵たち数十人がいて、三々五々集まって談笑したり、屋外のテーブルで食事を取ったりしている。

屋外の写真撮影は断られたが、建物内の寝室などは撮影することができた。ジョージアの国旗が掲げられ、寝袋などが雑然と散らばっていた。


キャンプ内の寝室。ジョージア国旗が掲げられ、寝袋が散らばっていた(筆者撮影)

敷地内に本格的な訓練施設は見当たらず、このキャンプは前線から休暇で帰ってくる兵士たちの休息の場のようだった。全体の7〜8割の兵士が前線で活動し、残りがキャンプにいるという。

中庭の東屋で、軍団の1つの部隊を率いているという、顎ひげを蓄えたワノ軍曹(39歳)にインタビューした。

ワノ氏はジョージア軍の兵士として、2008年のジョージア紛争(南オセチア紛争)に従軍した。2010年に退役し、ウクライナに来て商売をしていた。ウクライナ戦争が始まったので、再び銃を取ることにした。

ワノ氏と助手のオトゥキダッチ氏との会話は、皮肉なことにロシア語だった。旧ソ連圏の共通語としてのロシア語の役割はまだ残っている。

「ウクライナはジョージア紛争で助けてくれたから」

ワノ氏にまず軍団の規模について聞くと、「ロシア軍と戦うのに十分な兵力」と笑ってはぐらかされたが、ウクライナ軍の指揮下でウクライナ軍特殊部隊と連携し、前線で小さいグループに分かれ、主に破壊活動、諜報活動に従事している、という。

これまで、侵略当初にキーウ北西ホストメリにあるアントノフ国際空港をめぐる防衛戦に加わったほか、ハルキウ、ザポリジア、ヘルソンなど多くの戦闘に参加してきた。取材後に開始された反転攻勢でも、今までの活動を継続するという。

ワノ氏は、「ロシアはジョージア、ウクライナ共通の敵。ここで戦うことはジョージアを守ること。ウクライナはジョージア紛争でジョージアを助けてくれたから、今回ウクライナを助けることは義務と考えている。これはグローバル戦争だ。ロシアは自由を選んだ近隣諸国を破壊しようとしている。奴隷として生きるよりも、生命を犠牲にしてでも自由のもとに生きたほうがよい」と淡々と話した。

筆者は2015年6月、今の前線に近い東部ドネツク州クラマトルスクにあったウクライナ義勇軍のキャンプを取材したことがある。この義勇軍はウクライナ民族主義団体が母体で、キャンプにはそうした団体の旗も掲げられていた。

今回のウクライナ戦争で、南部マリウポリのアゾフスタリ製鉄所で抗戦を続け、国際的に知られるようになった「アゾフ連隊」も、こうした義勇軍の一つだ。アゾフ連隊にも多くの外国人義勇兵が参加したと見られている。

義勇軍は士気も高く、ウクライナ政府は正規軍の指揮系統に取り込むなど戦力化を進めてきた。今回のロシアの侵略に際しても、ウクライナ政府は公式に義勇軍への参加を世界に呼び掛け、外国人軍団には諸外国から数万人が応募したという。

義勇軍に対しては、極右イデオロギーを持っており、捕虜の虐待など戦争犯罪を行っているとの批判がある。また、最近のロシアの民間軍事会社「ワグネル」の反乱に見られるように、非正規軍が政府や正規軍の指揮におとなしく従っているとは限らない。戦況が一段落すれば、ウクライナでも民族主義的な義勇軍をどう管理するかが問われるだろう。

ジョージア軍団のキャンプ敷地内にある芝生のグラウンドでは、大学生が軍人から基本的な軍事教練を受けていた。女子学生20人に比べ男子学生4人と少ないが、男女比率は学科によって違う。大学生であれば原則的に徴兵されないから、男子が少ないのは徴兵のためではない。


ジョージア軍団のキャンプ敷地内で軍事訓練を受ける大学生たち(筆者撮影)

この訓練はジョージア軍団とは関係がなく、定期的に行っているとのことだったが、ロシアの侵略に直面するウクライナにとって、国土防衛こそが最優先の現実であることを痛感する。こうした中、義勇軍の負の側面を指摘することは事実上、当面不可能だろう。

ブチャで生き延びた女性が語る占領体験

ブチャは首都キーウの北西、車で40分ほどの住宅地だ。2022年3月初めから4月初めまで、約1カ月続いたロシア軍の占領下で、民間人多数が殺害されたことが明らかになり、世界に衝撃を与えた。ブチャ市全体では、明らかに処刑された人も含め637人が殺害されたとみられており、今回の侵略の非人道性を物語る象徴的な場所となっている。

街の中心部にある瀟洒なレストランで、地元で声楽を教えているアンゲリーナ・バルトシュさん(31歳)にロシア占領下での体験を聞いた。


ブチャ占領下の体験を語るアンゲリーナ・バルトシュさん(筆者撮影)

ロシア軍は侵略開始の直後、キーウ北西2キロほどのホストメリの空港を占領し、そこを拠点に南進しキーウ攻略を目指した。ブチャでは2月27日、5時間にわたる戦闘が起き、バルトシュさんは夫、娘らとともに自宅の地下室に避難した。

特に激しい戦闘があったのは、街をほぼ南北に貫くヴォクザルナ通りで、自宅はこの通りから2軒奥に入った場所にある。近所の家はほとんどが被害を受けたが、奇跡的に自宅は破壊を免れた。

3月3日から占領が始まった。3月5日夕、ロシア兵が家にやってきて、「どこへも行くな。静かにしていろ」と言って、スマートフォン、充電器を奪った。父のスマホにヴォクザルナ通りの破壊されたロシア軍の車両が写っていた。ウクライナ軍に協力したと疑ったロシア兵は、父と夫を連行した。

最初は庭で、次に装甲車に連れて行って、尋問が行われた。頭に袋をかぶせ、「なぜこの写真を撮った」などと責めた。父をひざまずかせ、頭にピストルを突き付け、「2分間たっても本当のことを言わないと殺すぞ」と脅かした。午後7時ごろようやく、父と夫は解放された。

ロシア兵たちはその後も時々自宅に来て、車の工具、カミソリなど必要なものは何でも持って行ったが、尋問はこの時だけだった。ロシア兵は、「ゼレンスキーは国を見捨てた。キーウはすぐに陥落する」と言い回り、住民を懐柔しようとしていた。

民間人をキーウに避難させるための「人道回廊」が設置されると知り、バルトシュさんは3月10日午前9時、荷物をまとめ、夫、娘、夫の両親の5人で脱出を試みた。

ブチャとキーウの間にある町イルピンに向かう橋は至るところ破壊され、兵士の遺体も放置されていた。ロシア兵に銃を向けられたままで、背中から撃たれるのを恐れながら橋を渡った。

イルピンでは零下10度の寒さの中、午前5時まで民家の地下室で過ごした。イルピンはロシア軍の砲撃に晒されており、非常に危険だった。ロシア兵が来て、男は外に出るように言われ、しばらくして銃声が聞こえたので、皆悲鳴を上げた。しかし、兵士はスマホを地面に並べそれを撃ったのだった。「もし撮影すればお前たちを撃つ」という意味だった。

ウクライナ非常事態庁のバスに乗ることができ、数時間バスで進むと兵士が乗り込んできて、「ウクライナに栄光を」と叫んだ。ようやくウクライナ軍の支配地に来たことがわかり、バスの中は歓喜に包まれた。

ロシア兵がブチャで民間人を殺害した理由

なぜロシア兵が残虐だったのか、という質問に対するバルトシュさんの回答は、実際にロシア兵に接触した人の証言として説得力があった。

第1に、ロシア兵は自分たちを解放者と思い、ウクライナ人に歓迎されると思っていた。しかし、ウクライナ人は手持ちの銃や火炎瓶を使い激しく抵抗した。住民の多くが抵抗者と見なされた。

第2は恐怖で、ロシア軍司令官は父に、夜間に14人の兵士が用を足しに行ったが、2、3人しか帰ってこないことがあったと語っていた。ロシア兵はしばしば恐怖にかられ、住民を殺した。

第3はキーウを占領できなかったことだ。ブチャとイルピン境界の橋を攻略できず、そこから先に進軍できなかった。そのいらだちの矛先が住民に向かった。

ブチャで非人道性の象徴となったのが、市南部をほぼ東西に走るヤブロンスカ通りだ。ロシア軍の撤退直後にウクライナ軍当局が撮影した映像には、通行中に射殺され、道端に放置された多くの民間人の遺体が写っていた。ヤブロンスカ通りはイルピンへ向かう道で、多くの住民が脱出を疑われ射殺されたと見られる。

「死の通り」とも呼ばれるようになったヤブロンスカ通りだが、私が取材した5月15日、きれいに舗装され、多くの沿道の住宅が完全に建て替えられていた。時速80キロ以上は出ていると思われる猛スピードの車がひっきりなしに通り過ぎた。


「死の通り」と呼ばれたブチャのヤブロンスカ通りは舗装され、住宅は建て替えられていた(筆者撮影)

ブチャ市内を回ると、砲弾の跡が残っているビルも目にしたが、激しい戦闘があったヴォクザルナ通りも整備され、真新しい家屋も目に付いた。


ブチャ市内には砲弾の跡が残るビルもあった(筆者撮影)

バルトシュさんはブチャの現状について、「復興はとても早く進んでいる。通りがこんなにきれいになったのは初めて」と話した。

「虐殺の町」から「復興の象徴」へ

ブチャはロシア軍の占領下に入ったため、兵士の蛮行に晒されたが、戦闘による破壊はイルピンに比べて少なかったことも幸いしている。イルピンでは70%の家屋が破壊されたのに対し、ブチャは23%に止まった。

キーウの外交筋によると、すでに復興の機運は高まっており、第2次世界大戦以来最大の復興ブームが来るとの期待が高い。

6月21、22日にロンドンで開かれたウクライナ復興会議で、計600億ユーロ(約9兆4000億円)の支援が各国から表明された。世界銀行の試算では復興費用は総額で4110億ドル(約59兆円)と巨額である。

キーウ近郊でも、ブチャ以上に破壊されたが、復興に手がついていない町もある。ブチャの急テンポの復興は、虐殺の町という負のイメージを払拭するとともに、国際社会にアピールするモデルケースにして、復興資金を呼び込む意図も込められている。

(三好 範英 : ジャーナリスト)