推しの魅力を言語化することが、自分自身にとっても有意義な理由とは?(写真:cba/PIXTA)

「推しの魅力を語りたい。誰かに伝えたい……」

オタク活動をしていると、一度は抱くこの感情。しかし、尊さのあまり、「やばい」しか言えなくなる人も少なくないのではないでしょうか。

”推し語りのプロ”を自認する書評家・三宅香帆さんは「推しを語るためには、語彙力や文章力が必要だと思われがちですが、それは間違いです。必要なのは、自分の感想を言葉にする『ちょっとしたコツ』。そのコツさえ知れば、あなただけの言葉で推しの素晴らしさを語れるようになります」と語ります。

本稿では三宅さんの書籍『推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない―自分の言葉でつくるオタク文章術』より、一部抜粋してお届けします。

推しに手紙を書きたい!

気合を入れて、ファンレターを書くための便箋を買ってみたり、SNSアカウントを増やしてみたり、ブログを開設してみたりしたはいいけれど。そのあと、あなたはなにをしますか?

「よし、最近めちゃくちゃよかったライブの感想を書くぞ」と思ったとします。

なにから書こうか? うっ、書くことが思いつかない。「よかった」しか言葉がでてこない。じゃあ、セットリストの素晴らしさを書く? すごく聴きたかった曲が聴けたことについて? あ、それともMCのよさ? 推しの衣装について? ああ、なにから書こう。というか、あのライブの一番よかったところってどこなんだろう?

先述したように、たまに「推しの素晴らしさを言語化しようとしても、語彙力がなくて、いい言葉が思い浮かびません」と相談されます。

じつは私も同じです。自分が「推しの素晴らしさを伝える文章」を書きたいと思うとき、大抵まずは頭の中がわーっと騒がしくなっています。

推しの魅力とか、簡単に言葉にできない。「最高だった」「やばかった」「すごかった」しか浮かばない。「推しを見て感動した」、その先が言語化できない。

でも、私はその状態が悪いことだとはまったく思いません。なぜなら、感動が脳内ですぐに言語に変換されないのは当たり前のことなんですよ。

だって、感動とは言葉にならない感情のことを指すから。

昔の人も「やばい!」を使っていた!

古語に「あはれなり」という言葉があります。これって「なんか胸がじーんとする」「グッとくる」「うわあって言いたくなる」といった感覚をひと言でまとめた語彙なんですよね。

胸になにかがグッと飛び込んでくる。そして、感情がぶわっとあふれる。あふれた感情はプラスの場合(=いいものだと思う)もマイナスの場合(=悲しいものだと思う)もどちらもある。

良くも悪くも、感情が振り切れる体験――それが古語の「あはれなり」です。昔の人はよくこんな便利な言葉をつくったものですよね。

しかし、現代語には「あはれなり」に代わる語彙がない。

感動したとか、感激したとか、そういった言葉が一番近いですが、「あはれなり」が指す感情すべてを包括する語彙はありません。だから私たちは、「あはれなり」の現代語バージョンとして、「やばい」という言葉をいつのまにか発明したのでしょう。「やばい」って、それがプラスの感情だろうとマイナスの感情だろうと、どちらかに指標が振り切れているといった意味ですよね。いいときもよくないときも、なにか自分の感情が大きく動くような事態に対して、私たちは「やばい」を使う。あれは古語の「あはれなり」とまったく同じ意味なんです。

これは余談ですが、そう考えている私は「『やばい』を使う最近の若者は語彙力がない!」って批判する気持ちがわからないんですよね。だって「やばい」って、要は「あはれなり」と同じ使い方をするんだから。平安時代はオッケーで現代ではダメなんて、意味がわからない!

そんなわけで、日本には昔から「感情が大きく動くこと」をひと言「あはれなり」でまとめてしまう文化があるわけです。そして、なぜ「あはれなり」でまとめられるかというと、もう、そう表現するしかないからです。

感情がぶわっと動く。なんだかすごいものを見た――なんだこれ。

目の前で起こったことに対する自分の感情を言語化できないほどに、未知の事態である。そういう状況をもって、私たちは本当の意味で感動する。

だとすれば、自分の感情をすぐさま言語化できないことを恥ずかしく思う必要はないんですよ。むしろ、言語化できないほど感情を動かされるものに出会えたことを嬉しく思いましょう。そんな出会い、人生でなかなかあるものじゃない。

感情を大きく動かしてくれるって、それがたとえマイナスでもプラスでも、人生におけるすごく素敵なギフトです。

なんのために感動を言語化するの?

しかし「じゃあ感動を呼びさましてくれた推しに感謝! 感動は感動のままに、言語化せずに終わりましょう!」だと……SNSにもブログにもファンレターにもなにも書けずに終わってしまいます。それは困りますよね。

いや、もちろん本当に感動した経験って、自分のなかに留めておいてもいいんですよ。なにも無理に他人へ伝えなくても、自分の記憶として脳内に置いておくのも一手です。

しかし私は、「たとえ自分しか見ない日記やメモのなかだったとしても、自分の言葉で感動を言語化して、書き記しておくのはいいことなんじゃないか」派です。

なぜなら、自分の言葉で、自分の好きなものを語る――それによって、自分が自分に対して信頼できる「好き」をつくることができるから。

自分の好きなものや人を語ることは、結果的に自分を語ることでもあります。そもそも、好きなものや素敵だなと思った人って、すごく大きな影響を自分に与えてくれますよね。もちろん嫌な経験や辛い出来事も自分を形づくるものではありますが、やっぱり好きなことの影響は大きい。

だとすると、自分を構成するうえで大きなパーセンテージを占める好きなものについて言語化することは、自分を言語化することでもあります。

そして、なにかを好きでいる限り、その「好き」が揺らぐ日はぜったいにくる。私はそう思っているのです。

なにが起きても絶対に変わらず好き、なんてほとんどあり得ません。

たとえば、あるアイドルがすごく好きでも、そのアイドルが自分の想像とはまったく違う行為をしていた。すると自分の「好き」がよくわからなくなってしまう、なんて体験もよく聞く話です。

「好き」は、簡単に揺らぐもの

スキャンダルはわかりやすい例ですが、人によっては髪型やメイクを変えるイメチェンや、あるいは意外な趣味を持っていたことすら、「好き」が揺らぐきっかけになり得るかもしれません。

または、すごく好きな映画があったけれど、他人が「駄作じゃん」って言ったのを聞いた途端、急に好きかどうかわからなくなってしまった。これ、映画に限らず本でも漫画でもアニメでも音楽でも、よくあることです。他人がNGをだしているのを見て、急に「好き」が色褪せた経験、あなたにも一度はあるんじゃないでしょうか。

大人になって「好き」が冷めてしまうこともありますよね。昔すごく好きだったキャラクターなのに、大人になるとその魅力がわからなくなる。思春期にハマっていたミュージシャンの歌詞が、社会人になってなんとなくピンとこなくなる。これもよくある現象です。

そう、「好き」って、揺らぐものなんです。揺らがない「好き」なんてない。

自分も生きて変化していくのだから、好みも変わっていくのは当たり前です。もしくは、好きな相手が生身の人間だとしたら、相手だって変わっていきます。自分の思う通りに存在するわけがない。

だから、絶対的な「好き」なんてほぼあり得ないもの。そして「好き」が揺らいだとしても、それを嘆く必要はまったくありません。だって当たり前だから。むしろ揺らがない「好き」なんて、盲目的な執着であって、本当の意味で「好き」なわけじゃないのかもしれません。

「好き」は、一時的な儚い感情である。そんな前提を内包しているんですね。それは悲しいことでもなんでもなくて、そういうものなんです。

でも、たとえ「好き」が揺らいで消失したとしても、一度「好き」を言葉にして残しておけば、その感情は自分のなかに残り続けます。

たとえば、推しがアイドルの場合。ライブや新曲を追いかけて、楽しい日々を送っていた。でも、スキャンダルが発覚し、たくさんの人からそのアイドルが非難されて、自分もまたショックを受けた。そうするうちに、そのアイドルを好きではなくなってしまった。こんな悲しい出来事があったとしましょう。

あなたは、そのアイドルを好きだったときに「好き」を言語化して、自分のスマホのメモ帳に残しておいた。スキャンダルから少し経って落ち着いて、そのメモを見返してみる。すると、もう存在しなくなった自分だけの「好き」が、そこに保存されているんです。

「好き」を言葉で保存する

別に、それを読み返せばもう一度好きになることができる! と言いたいわけではありません。

ただ、そこに「好き」があったことを思い出せる。今はもう好きじゃなくても、いつのまにか自分の一部になっていた「好き」の感情が保存されている。これって意外と大切なことじゃないでしょうか。

もちろん、写真を残したり、グッズを置いておいたりすることも「好き」を保存するいい方法でしょう。

でも、一番鮮明に残る「好き」は言葉です。

「好き」は儚いからこそ、鮮度の高いうちに言葉で保存しておいたほうがいいんです。そして、言葉という真空パックに閉じ込めておく。

いつかやってくる「好き」じゃなくなる瞬間を見据えて、自分の「好き」を言葉で保存しておく。すると、「好き」の言語化が溜まってゆく。それは気づけば、丸ごと自分の価値観や人生になっているはずです。

誰かにけなされても、自分が変わっても、推しが変わってしまっても。自分の「好き」についての揺るぎない言語化があれば、自分の「好き」を信頼できるはずです。

自分の「好き」を信頼できることは、自分の価値観を信頼することにつながります。だって、好きなもので自分はできあがっているのだから。

自分の「好き」を言語化していけばいくほど、自分についての解像度も上がる。だからこそ、自分の「好き」の鮮度が高いうちに言語化して保存したほうがいい――そう私は考えています。

そういえば、昔読んだ本のなかで、小説家の村上春樹さんがこんなことを言っていました。

走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるからだ。僕らにできるのは、そのほんの少しの理由をひとつひとつ大事に磨き続けることだけだ。暇をみつけては、せっせとくまなく磨き続けること。

(村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』文春文庫版より引用)

これって「好き」についても同じことが言えると思うんです。

もちろん好きなものや人との蜜月の間は、好きでい続ける理由がたくさんある。好きな理由で自分のなかが満たされる。

「好き」を言葉にしておくということ

一方で、蜜月の期間が終わって、好きなものや人についていろんなものが見えてくると、好きでい続ける理由がよくわからなくなる。そんな時期が、いつかはやってくるのです。


そういうときって、好きであることをやめるための理由は、どこにでも――それこそ大型トラックいっぱいぶん――落ちているものです。

だからこそ、数少ない好きな理由を言語化して、保存することに意味があるんです。好きという感情の輪郭を、自分でなぞって確認しておく。いつか好きじゃなくなっても「ああ、たしかにこの時期、私はこういうものが好きだったな」と思い出せるようにしておく。これって割と楽しいことだと思いませんか?

ほかにも、推しへの感動を言語化した文章をブログやSNSで発信したら、不特定多数の誰かに伝えることができる、という利点もありますよね。

自分の推しの魅力を発信することによって、それを見た誰かが自分と同じ推しを好きになってくれるかもしれない。推しを他人に好きになってもらうため、推しの仲間を増やすために「好き」を言語化してみる。

自分のためにも相手のためにも、「好き」を言葉にしておくことって、すごく意味のあることなんです。

(三宅 香帆 : 文筆家)