信長に見張りを命じられた五徳(久保史緒里)はどのような心情だったのでしょうか(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

NHK大河ドラマ『どうする家康』第23回「瀬名、覚醒」では、久保史緒里さん演じる五徳の密告を受けた信長から、徳川家への警告として寺島進さん演じる水野信元が誅殺されました。そして瀬名(築山殿)は、ある想いを胸に武田との接触を再開します。第24回「築山へ集え!」では瀬名の野望が明らかになりますが、これに対し信康の妻であり信長の娘でもある五徳は、どう動いたのでしょうか。『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』の著者、眞邊明人氏が解説します。

織田・徳川のあまりにも幼いふたりの政略結婚

織田信長の長女として生を受けた五徳姫は、徳川家康の長男・信康に8歳で嫁ぐことになります。信康とは同い年で、これはいわゆる政略結婚です。

桶狭間の戦いで劇的な勝利を納めた信長と、今川からの独立を果たし三河の制圧を目指す家康は、ともに東西の敵を防ぐ戦略的価値が高い存在だったため、この同盟はお互いにとって重大なものでした。当時の戦国大名は同盟にあたり婚姻関係を結ぶことが常だったため、五徳姫と信康の婚姻は当然の流れと言えるでしょう。

問題は、このふたりがまだ8歳という年齢だったことです。

政略結婚は多くの場合、いわゆる婚約という形でふたりが結婚適齢期に近づくまで待つのですが、信長は、まだ8歳の五徳姫を岡崎に送りました。たしかに五徳姫が嫡男を授かれば、織田の血をひく男子が徳川家を継ぐことになります。その意味は大きいのですが、ふたりはまだ8歳。すぐに子ができるわけではありません。それまでは人質に近い意味合いの婚姻ということになります。

つまり信長は、娘を人質に出してまで家康との同盟を重視していたということです。

ちなみに、この五徳姫の母親ははっきりしていません。信長の正室は斎藤道三の娘である濃姫ですが、ふたりのあいだに子はありませんでした。

嫡男の信忠は、信長がもっとも愛した生駒吉乃とのあいだに生まれており、五徳姫もこの吉乃が生母とされています。しかし妹のはずの五徳姫が、織田家の資料では姉とされており、判然としない部分があるのも事実です。

後年、彼女をサポートしたのが、信長の次男で腹違いの信雄であり、彼女の生母については不明な点が多いと言えます。ただ、8歳の少女が父母と離れて見知らぬ土地で過ごすというのは、なかなかにつらいことだったでしょう。

もっとも信長と家康の関係は良好で、ある程度の往来はあったのかもしれません。

五徳と信康、築山殿の関係

五徳が嫁いでから9年後、初めての子・登久姫を授かります。翌年には次女・熊姫をもうけました。ここで男子が生まれていれば、のちの展開も変わっていたでしょう。

ふたりとも女子で跡継ぎではなかったあたりから、五徳の立場は微妙になってきました。姑である築山殿が、跡継ぎが産まれぬことを心配して信康に側室をもつことを勧めます。

当時、五徳は18歳。まだ若く健康な彼女としては、この築山殿の判断は受け入れにくかったでしょう。しかも築山殿は、その側室に徳川と対立を深めていた武田家の元家臣の娘を推すのです。すでに徳川家の家臣になっているとはいえ、武田家と敵対している徳川家の嫡男の側室としては問題のある選択です。

これは、すでに家康とは没交渉だったと思われる築山殿のあてつけのようにも思われる動きでした。問題は、この母の選択を信康が受け入れたことにあります。築山殿による夫婦間への介入もありますが、なにより肝心の信康と五徳のあいだに深刻な不和が生じていました。

五徳の侍女を、信康が五徳の目の前で手討ちにしたという逸話も残っています。

徳川家を揺るがす大問題に発展

五徳と信康の不和は、父・信長にも届いていたようで、心配した信長が岡崎に訪ねてきたという記録も残っています。残念ながら、信長の訪問もふたりのあいだを修復するまでには至らなかったようです。

一方の家康のほうが武田対策に追われており、どれほど息子夫婦の問題を深刻に受け止めていたかはわかりません。家康は妻・築山殿にも無関心で彼女を傷つけるような接し方をしていたので(築山殿の侍女に子を産ませるなど)案外、大したことはないと思っていたのかもしれません。しかし結果的には、五徳と信康の不和は徳川家を揺るがす大問題に発展します。

信康との深刻な亀裂を修復できないまま、思いあぐねた五徳は父・信長に書状を送りました。この書状は十二箇条からなる信康、および築山殿に対する讒言です。

一・築山殿が自分と信康のあいだを割こうとしている
一・娘ばかりを産むと言い、武田勝頼の家臣の娘を側室に迎えた
一・築山殿は武田と通じる医師を通じて勝頼と内通している
一・信康は乱暴者にて、領民を殺し、僧を殺したりしている

などなど、信康と築山殿の悪事を信長に告げたとされます。

特に武田との内通のくだりは単なる夫婦喧嘩の域を超えており、事態を重く見た信長は、家康の重臣である酒井忠次を呼び出し、ことの真偽を問いただします。このとき忠次は、信長の詰問に明確な否定をしませんでした。


瀬名(築山殿)の動きを把握した信長は、家康に何を命じたのでしょうか(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

信康と築山殿の誅殺は信長の命ではなかった?

忠次の態度を見た信長は、五徳の訴えを正当のものと捉え、家康に信康及び築山殿の誅殺を命じます。このころ家康と信長のパワーバランスは、以前の対等なものではなくなっていました。武田家を長篠の戦いで破り、頑強に抵抗を続けていた石山本願寺との実質的な勝利ともいえる和睦を達成した信長は、実質的な天下人です。『どうする家康』でも描かれていた通り、家康は同盟者から従属的な立場に変わりつつありました。信長からの要求に抗しきれなくなった家康は、ついに築山殿を家臣に命じて殺害させ信康には切腹を命じることに……というのが従来の定説ですが、最近はこの説に異論も出ています。

そもそも事の発端となった五徳の十二箇条の讒言が本当に存在したかは怪しいようです。この讒言状は江戸期に入ってからのもので、当時の書面には存在が記されていません。たしかに家康は従属的な立場に変化しつつあったとはいえ、世継ぎを殺せという命令を簡単に信長が出すとは思いにくい。どちらかというと、家康主導の判断を信長が認めたというのが実情に合っているような気がします。

この信康・築山殿誅殺の件は改めて記しますが、家康と信康、浜松と岡崎の対立が原因であるという説が支持を集めつつあることも付け加えておきましょう。ただ私は五徳が信長になんらかの訴えを行ったのは事実であり、それが信長の判断に影響を及ぼしたことは間違いないと考えています。

信康死後は織田家に戻されるも再婚せず

信康の切腹後、五徳は織田家に返されることになります。

ふたりの娘は徳川家に残し、身一つで織田家に戻りました。

このとき彼女は20代前半で十分再婚できる年齢でしたが、彼女は生涯再婚することはありませんでした。信長が本能寺の変で倒れ、兄・信忠も死んで天下が豊臣秀吉に移ると、五徳は秀吉の庇護下に置かれます。


秀吉は彼女を丁重に扱ったようでした。そして徳川の天下になると、尾張・清洲城主となった家康の4男である松平忠吉から1761石の所領をもらい、五徳本人は京に移り住みます。徳川家としても彼女を粗略には扱いませんでしたが、家康が彼女に声をかけることはなかったようです。

五徳のふたりの娘は、小笠原秀政、本多忠政の妻となっていました。

五徳が生涯、再婚しなかったこと、家康が五徳と接触しなかったこと、これはどちらにとっても信康のことが痛恨の極みだったのでしょう。もし五徳と信康のあいだに男子が生まれていたら、信康との仲がこじれなかったら、そんな想いが五徳を苦しめたのかもしれません。

そう思うと、8歳で親元を離れ、愛した夫を殺すきっかけをつくり、娘たちとも離れて暮らさねばならなくなった五徳の一生は、悲しみと別れの連続だったのかもしれません。

五徳は78歳で静かにこの世を去ります。

時代は3代将軍・徳川家光に移っていました。

(眞邊 明人 : 脚本家、演出家)