世界的なヒットとなったインド映画『RRR』。2023年7月28日から日本語吹替版の全国ロードショーが始まる(写真・2021 DVV ENTERTAINMENTS LLP.ALL RIGHTS RESERVED.)

インド映画『RRR』の大ヒットが続いている。55億ルピー(約95億円)というインド映画史上最高額の制作費をかけたこの作品は、2022年3月に本国で封切りが始まり、アメリカをはじめ各国でも上映され、好評を博している。劇中歌「ナートゥナートゥ」は、2023年1月にゴールデングローブ賞、3月にはアカデミー賞の歌曲賞を受賞した。

日本でも2022年11月公開直後から大きな話題を集めた。興行収入は2023年5月中旬で20億円を突破したという。東京では、『RRR』の世界にひたれるというコラボカフェまで登場した。

筆者も5月末に訪れてみたが、店内には作中にも出ていたインドの旗(後述)が何枚も掲げられ、壁のディスプレイにはハイライトがエンドレスで流れる中、登場人物やストーリーに着想を得た料理やドリンクが提供されていた。

勢いは止まらず、7月28日からは日本語吹替版の上映が始まるという。これまでも日本でインド映画が話題になることはあった。1998年に公開されて奇抜なダンスとストーリーが注目された『ムトゥ 踊るマハラジャ』、2013年公開でインド理系名門大学を舞台とした青春群像劇『きっと、うまくいく』はその代表例と言える。

その次に熱狂的に支持されたのが、『RRR』と同じS・ S・ラージャマウリ監督による『バーフバリ 伝説誕生』と『バーフバリ 王の凱旋』だ(いずれも2017年公開)。

インド映画の知名度を高めた『RRR』

しかし『RRR』への反応は、過去のインド映画と比べて桁違いに大きい。以前はどちらかと言うと限られた層が見ていたインド映画が、一気に大衆化した感があるのだ。筆者も、初対面の人に自分がインドについて研究していることを話すと、相手から「『RRR』見ましたよ」と言われて会話が盛り上がったことが何度かある。

この『RRR』、ド派手なアクションや主人公2人の友情、「ナートゥナートゥ」の歌とダンスと、予備知識なしでも3時間の上映時間があっという間に感じられる作品だ。ただ、『バーフバリ』シリーズが架空の古代インド王国が舞台だったのに対し、『RRR』はイギリスによる植民地統治下という、現代に近い時代設定になっている。

古代インドの二大叙事詩『ラーマーヤナ』と『マハーバーラタ』がストーリーの中で重要な意味を持っていることはよく取り上げられるが、反英植民地闘争の歴史が随所に織り込まれている作品でもあるのだ。

そこで、本稿では『RRR』で描かれる時代背景や登場人物、象徴的アイテムについて、インド独立闘争史の観点から解説していくことにする。なお、本稿は作品終盤の内容にも触れるなどから「ネタバレ」を含んでいるため、まだ見ていない読者は十分ご注意いただきたい。

映画の冒頭、デリー郊外にある警察の施設にインドの民衆が大挙して押しかけるシーンがある。これをインド人警官のラーマが1人で撃退するという超人的な活躍を見せ、観客は一気に作品の世界に引き込まれる。

このとき民衆が要求していたのが、「ラーラー・ラージパト・ラーイの釈放」だった。ラーイはインド解放闘争を主導していた「インド国民会議派」のメンバーで、1919年に滞在先のアメリカから帰国し、1920年に議長に選出された大物指導者のひとりである。

字幕ではこれが「1920年」のことと示されているが、この時期も重要だ(実際にはラーイが投獄されていたのは1921〜1923年)。イギリスは17世紀に東インド会社をインドに進出させて支配を強めていき、1857年に「インド大反乱」が起きると、翌58年には直接統治に切り替え「イギリス領インド帝国」(形式上はイギリス国王がインド皇帝を兼務)を成立させた。

これに対し1885年にインド国民会議派が発足し、当初は穏健な勢力としてインド人の政府への参加や権利獲得を求めていた。

1914年に第1次世界大戦が勃発すると、イギリスは戦後の自治と引き換えに戦争への協力をインド人に求めた。ところが戦争が終結するとその約束は十分に果たされず、国民会議派をはじめ解放運動側は不満を募らせていく。なお、南アフリカで活動していたマハートマ・ガンディーが帰国するのは1915年のことだ。

イギリスによる弾圧が激しかった時代

映画ではスコット・バクストンという総督とキャサリン夫人が「超悪役」として登場するが、いずれも架空の人物である。当時インド総督を務めていたのはチェルムスフォード卿。融和的な姿勢だったイギリス本国のインド担当大臣とは対照的に、強硬姿勢で臨んだことで知られている。

彼の総督在任中の1919年には、「アムリトサル虐殺事件」が起きた。この年、疑わしき者に対する予防的拘束や裁判によらない投獄を可能にする「ローラット法」がインド政庁(植民地政府)によって制定された。

これに対し、同年4月13日に抗議集会がパンジャーブ地方アムリトサルのジャリヤンワーラー・バーグという公園で開かれた。参加者は丸腰だったが植民地軍が無差別に銃撃を加え、多数の死傷者が出る事態となった(死者の数は諸説あり、数百人から1000人以上とするものもある)。事件を受けて、反英感情が急速に高まっていたのである。

こうした時代背景のもとで、物語ではラーマとビームがイギリスによる過酷な植民地支配に「力」で抗っていく様が描かれている。この2人の若者は、それぞれアッルーリ・シータラーマ・ラージュとコマラム・ビームという実在の人物だ。

いずれも今日のアーンドラ・プラデーシュ州とテランガナ州というインド南部の出身で、両州で話されるテルグ語映画ならではのチョイスと言えるだろう。

2人に共通しているのは、「アーディヴァーシー(Adivasi)」と呼ばれる部族民のリーダーだった点だ(「部族(tribe)」という用語を差別的とする見方もあるが、インドでは今日でも「指定部族(Scheduled Tribe)」という分類があるなど、エスニックグループを指す言葉として用いられているので、本稿でもこれに倣うことにする)。ただラーマ自身は部族民ではなく、ヒンドゥー教のクシャトリヤ(武人)階級に属する家の出身だった。

ラーマは山地に住む部族民のリーダーとして台頭した。1882年に植民地当局が制定した「マドラス森林法」によって伝統的な農法である焼畑農業が禁止されたことで、部族民の生活は大きな打撃を受けた。

こうした不満を背景に、ラーマは1922年から「ランパ蜂起」と呼ばれる武装抵抗活動を主導し、治安当局に攻撃を加えた。ゲリラ戦術を駆使して神出鬼没の戦いを繰り広げ当局を苦しめたが、1924年に戦闘で死亡した。

なお、作中では植民地警察の武器を獲得するべく警察官として活躍する姿が描かれているが、実際のラーマは警察を含む植民地政府で仕事をしたことはない。

ビームのほうはどうだろうか。彼はゴンド族という部族のリーダーで、1928年に蜂起を開始した。ただ、反乱の対象は現地を支配していたニザーム藩王国で、イギリス植民地政府ではなかった点に留意する必要がある。闘争は10年以上にわたって展開されたが、最後は藩王国の警察当局に発見され、1940年に殺害された。

「ナートゥナートゥ」が歌われた会場

ラーマもビームもインド全体で見ると知名度は高くなかったが、地元では部族民のために身をなげうって戦った英雄なのである。なお、史実ではラーマとビームが実際に重なり合うことはなかった。作品では、この2人がもし出会っていたら……というフィクションにもとづいて物語が展開していく。

「ナートゥナートゥ」は、『RRR』を象徴する劇中歌だ。インド音楽のリズムとキレッキレのダンスは、一度見たら忘れられないインパクトがある。ユーチューブの公式チャンネルでは、動画の再生回数が1.5億回とすさまじい数に上っている。

このシーンは、イギリス側主催のダンスパーティという「完全アウェー」の場に、ビームがラーマに同行してもらって参加するところから始まる。ビームは一目惚れしたイギリス人女性ジェニーに気に入られ、パーティに招待を受けるのだが、会場が「ジムカーナー・クラブ」となっていた。「ジム(gym)」は文字通り運動をするジム、「カーナー(khana)」は食事という意味で、植民地時代の社交クラブのような場所だ。

このジムカーナ・クラブは現存しており、筆者はデリーで仕事をしていた2009年、パーティに呼ばれて行ったことがある。映画のような巨大な建物ではなく平屋建てだったが、白を基調としたコロニアル建築からは、外とは違う別世界のような雰囲気だったのをいまでも覚えている。

ラーマは自分たちを侮辱するイギリス人ジェイクに対し、「サルサでもない、フラメンコでもない、“ナートゥ”をご存じか?」と言い放つのだが、ここは日本語字幕のインパクトもあって、とくに印象的だ。そして西洋のリズムとは違う圧巻のダンスで周囲を圧倒し、最初は冷ややかな視線を送っていた白人を巻き込んでいく。

筆者はこのシーンを、貧困や停滞といったキーワードで語られがちだったインドがいまや世界第5位の経済大国に躍り出て、大きな注目を集めている今日の姿に重ね合わせていた。さらに言えば、作品終盤でラーマが遂げる「変身」も、闘いを挑むに当たり、西洋のスタイルではなくインド自身の伝統への回帰を象徴しているように感じられた。

作品前半のハイライトのひとつに、川の上で火に囲まれた少年をラーマとビームが橋を降りて救出するシーンがある。このときビームは緑・黄・赤の三色旗を手にしているのだが、あれはいったい何の旗だろうと思った観客も多いのではないか。

現在のインドの国旗はサフラン(オレンジ)・白・緑の三色旗で、中央にチャクラと呼ばれる法輪が描かれたデザインだ。この国旗は独立直前の1947年7月に採用されたもので、それまでの植民地時代にはさまざまな旗が存在した。なかでも1906年、最初に考案されたナショナル・フラッグ(当時は独立していなかったので、「国旗」というより「民族旗」と呼ぶべきか)が、ビームが持っていた旗なのだ。

緑の上段には白いハスの花が8つ並んでいるが、これは当時のインドの8州を表している。黄色の中断には、デーヴァナーガリー文字で「ヴァンデー・マータラム」と記されている。「母なるインドに栄光あれ」という意味で、解放運動の中で歌われるようになった歌のタイトルだ(さらに詳しい背景があるが、ここでは割愛する)。

この歌は、現在でも「ジャナ・ガナ・マナ」に次いで第2国歌と位置づけられている。この旗は「ヴァンデー・マータラム・フラッグ」と呼ばれるのはこうした背景がある。赤の下段の左にあるのは三日月、右にあるのは太陽だ。こうした背景を持つ旗を象徴的に用いることで、民族運動を称えるメッセージを伝えようとしたのではないか、と感じた。

独立の父・ガンディーはなぜ出ていない?

大活劇の後にはエンドロールが流れるが、これがまた非常に興味深い。エンディング曲「エッタラ・ジェンダ」が流れ、ラーマやビーム、シータらが踊る背景に、8人の英雄の肖像画が次々と登場するのである。

最初に出てきた人物を見て、「やはりそうきたか」と筆者は思った。軍帽を被り、丸眼鏡をかけたインド人男性--スバース・チャンドラ・ボースだ。インド国民会議派の有力リーダーで、武力闘争によるインド解放を訴えていた。

結局ガンディーと袂を分かち、国外に脱出。日本と協力し、「自由インド仮政府」を樹立した。最高司令官を務めた「インド国民軍」は、1944年に日本軍によるインド侵攻作戦「インパール作戦」に参加したことでも知られている。近年のナショナリズムの高まりを受けて、インド国内ではボースを再評価する動きが盛んだ。

2番目には、白髪の老人が現れる。これはヴァラッバーイー・パテール。インド国民会議派の有力指導者のひとりで、1947年のインド独立後には初代内相兼副首相を務めた人物である。「インドの鉄の男」の異名をとり、独立達成後、各地の藩王国のインド編入に大きな役割を担った「豪腕政治家」だ。他にも、勇敢な行動で知られる指導者がスクリーンに続々と現れて、筆者は文字通り息をのんだ。

その一方で、別の意味で「やはりそうか」という思いもあった。それはマハートマ・ガンディーの不在だ。インド独立運動を象徴する存在の彼がなぜ取り上げられないのか。実はこのエンドロールだけでなく、作中全体でもガンディーについての言及はいっさいない。

作中ではビームが一瞬、非暴力に目覚めるのではというシーンがあったが、結局彼はそちらのほうには向かわなかった。この点についてラージャマウリ監督はアメリカ誌『ニューヨーカー』のインタビューで、「ガンディージーの肖像を入れなかったからといって彼を軽視しているわけではない。ガンディージーには絶大な敬意を抱いている」と語っている(「ジー」は「〜さん」を意味する敬称)。

確かにガンディーが出ていないことより、これまであまり知られてこなかった、各地方の指導者に光が当てられている点のほうが重要と言えるかもしれない。主人公のラーマとビームは、まさにそれを象徴する存在なのだ。

いかがだっただろうか。本稿を通じて、まだ見ていない読者にはぜひ劇場に足を運んでもらいたいし、すでに見た読者にも「もう一度」見て細部に至るまで楽しんでもらいたいと思っている。筆者もこれまで2回見たが、近いうちに3回目に行こうと思っている。

(笠井 亮平 : 岐阜女子大学南アジア研究センター特別客員准教授)