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2014年ソチ、2018年平昌で五輪2連覇を達成し、2022年北京五輪では「4回転アクセル」に挑んだ羽生結弦さん。2022年7月にプロ転向を表明し競技を離れて以降、活動の幅はさらに広がり、その新たな挑戦はフィギュアスケートの常識を変革し続けている。「スターズ・オン・アイス ジャパンツアー2023」ではすべての公演で大トリを務めた。2023年4月6日 横浜公演初日(撮影:梅谷秀司)

五輪や世界選手権などのメダリスト、フィギュアスケート界のスターたちが日本に集う「スターズ・オン・アイス ジャパンツアー」。この世界最高峰のアイスショーの裏側で、開催地となった地方や支援する企業がどのような努力を行ってきたかを探るシリーズ。4月6日の横浜公演初日の様子もフォトギャラリー(計150点)形式で紹介する。


「お待たせいたしました」。会場内に響くアナウンスに、一際大きな拍手が起こった。「つねに想像を遥かに凌駕するリビングレジェンド、その挑戦に果てはありません」。まだ暗いスケートリンクへ入ってきた端正なシルエットに、その日いちばんの歓声が広がる。

世界選手権を2連覇した宇野昌磨さんに坂本花織さん、日本のペアとして初めて世界選手権で優勝した三浦璃来さん・木原龍一さんの「りくりゅう」ペアなど、世界的な実績を持つフィギュアスケーターが多く出演した「スターズ・オン・アイス ジャパンツアー2023」。ジャパンツアーは2005年から開催されており、今年は3月30日〜4月9日までの11日間で10公演が行われた。

その全公演で大トリを務めたのが、プロスケーターに昨年転向した羽生結弦さん(28)だ。筆者が足を運んだ横浜公演でも、質の高い演技で観客の期待に応えた。演目は「オペラ座の怪人」。羽生さんはこの曲を2014-15年シーズンに競技で使用したが、時を経て技術や表現力に磨きがかかった。

高難度ジャンプを含む競技さながらの演技構成は、客席にも手に汗握る、よい緊張感をもたらす。「4回転トウループ+2回転トウループ」や「3回転アクセル+3回転トウループ」などのジャンプを華麗に着氷しつつ、怪人・ファントムの懊悩や愛、心の機微を伝えた。

演技を終えた羽生さんへの拍手と歓声は会場の空気を揺らした。多くの観客がスタンディングオベーションで彼を讃えた。

岩手県奥州市での公演が異例の盛り上がり

今年のスターズ・オン・アイスは、大阪、横浜と並び岩手県奥州市が開催地となった。会場は「奥州市総合体育館 Zアリーナ」だ。

数千人の観客が集まる大規模アイスショーの開催地は、東名阪のほかだと横浜、千葉、仙台、新潟など、おおよそ決まっている。奥州市総合体育館では過去にアイスショーが開催されたことがなかっただけに、フィギュアスケートファンからも驚きの声が上がっていた。

だが、ふたをあけてみると大盛況だった。各地から訪れた客に向けて会場前では地元伝統芸能の「江刺鹿踊(えさしししおどり)」が披露され、地元料理を出すキッチンカーは大繁盛。ショーのチケットを持たない地元住民までもが会場近くに集まってくる異例の事態となった。その様子は、まるで「祭り」のようだったという。


オープニングには、多くのスケーターが次々リンクに登場して目が離せない。「スターズ・オン・アイス ジャパンツアー2023」2023年4月6日 横浜公演初日(撮影:梅谷秀司)

失敗すれば市の評判に傷がつく

成功裏に終えられたのは、地元・奥州市の手厚い協力があったからだ。ただ、実務を担った奥州市協働まちづくり部の千葉達也部長に話を聞くと、不安もあったという。

「羽生結弦さんの出演が決まるとチケットの申し込みが増え、1日4000〜5000人が来場されるらしいという情報が市にも入ってきました。多くの方に来ていただけるのはうれしいことですが、これはまずいな、とも思いました。会場へのアクセスなどの点で不備があれば市の評判を落とす。きちんと準備してお迎えしなければと」

準備に当たって生きたのが、「いわて奥州きらめきマラソン」を開催してきた実績だ(2023年5月21日に第7回が開催)。マラソン参加者にスタッフやボランティアを加えると約6000人が集まる大会で、主催に名を連ねる奥州市には大規模イベント開催のノウハウが蓄積されていた。

一方で、マラソンとアイスショーとでは性質が異なる部分も多い。「公演前後の数時間に4000〜5000人もの人が一斉に動くとなると不安もありました。しかもそれが3日続く。私の役所経験の中でも初めてのことです」(千葉部長)。

公演当日は「水沢江刺駅・Zアリーナ」間で片道500円の有料シャトルバスを運行。車での来場者向けの駐車場も複数用意した。公演期間中、Zアリーナにはトイレ不足に備えて仮設トイレを設置した。踏襲できる前例がない中での試行錯誤だった。

郷土の芸能と料理でお出迎え

そして、「奥州公演特別企画」として披露した鹿踊である。地元の郷土芸能団体に所属する人たちが踊り手となった。公演が行われた4月3日〜5日は年度始めでしかも平日のため、社会人には厳しい時期だったが、多忙の中で皆なんとか都合をつけた。


江刺鹿踊の様子。「ささら」と呼ばれる長い腰指を着け、太鼓を打ち鳴らし、自らが唱える念仏調の踊り歌にのって勇壮に舞う。今回は地元の3団体がそれぞれ1日ずつ踊りを担当した(提供:奥州市)

演舞はアイスショー開演前の12時から1時間半の間に3回行った。15kgほどの重い装束を身に着け、太鼓を叩き飛び跳ねて踊れば、1回だけでも汗だくになる。4月にしては暑い日、太陽の下での全力の踊りは来場者の心に響いた。さまざまな地域からやってきた観客の好意的な反応は、地元の伝統芸能を大切に守る踊り手たちにとってもうれしいものになったようだ。

鹿踊披露のアイデアが生まれたのは、スターズ・オン・アイスの企画会社の担当者らが奥州市の倉成淳市長を表敬訪問した際だったという。「海外のスケーターも多く出演するので、鹿踊のような郷土芸能が新鮮なのではないか」と、会話の流れで自然に出てきた。

市議会で「どう対応するのか」の質問も

市議会では、スターズ・オン・アイスについて「どういう対応をするのか」という質問が出た。これには、倉成市長と千葉部長が答弁した。

「訪れるのは、関東圏を含む全国からのお客様。対応が悪ければ、全国に向けた悪いPRになってしまう。市としてもできることはサポートして一緒にやっていかなければいけない、と答えました」(千葉部長)

準備期間は限られていたが、運営側との合同会議や、市役所の各部署、地元商工会議所、鹿踊団体などとの調整を重ねて当日に間に合わせた。

とくに運営側への情報提供には力を入れた。例えば交通各社など連絡すべき企業や、それらの企業と運営側で共有する必要のある情報など、土地勘がなければわからないことも多いからだ。

奥州市の魅力をPRしたのは市だけではない。民間事業者も同様だ。会場周りには南部鉄器や岩谷堂箪笥の販売ブースまでもが出店。地元・奥州市の料理を出すキッチンカーには行列ができ、地元の銘菓やパンもよく売れた。

全公演が平日に行われたが、主催の木下グループによると来場した観客は1日当たり3500人以上。観客のほか、キッチンカーや物販、鹿踊を楽しむためにやってきた地元の人も加わり、会場周辺はさながら祭りの賑わいだった。

「大阪や横浜でアイスショーは珍しいイベントではないかもしれません。でも奥州市での開催は意味合いが違います。たった3日で延べ1万人以上が集まる大規模なイベント自体がほぼ初めてだったのですから。精一杯のお出迎えをと考えていくうちに、お祭りのような形になった。アイスショーと田舎のお祭りが一体となり、大谷翔平選手の出身地であることや地元の伝統工芸品などのPRもできた3日間でした」(千葉部長)


奥州公演では、チケットの金額が大阪や横浜よりやや控えめに設定された。会場や座席によってリンクからの距離や見え方は大きく異なる。最前列のスペシャルシートはTwinkle ICE Membersのみでの取り扱いで、公演当日・身分証の提示が必要となる。「スターズ・オン・アイス ジャパンツアー2023」2023年4月6日 横浜公演初日(撮影:梅谷秀司)

アイスショーのチケットは安くはない。今回のスターズ・オン・アイスでは、いちばん安い席が8000円で高い席になると2万4000円だった(「最前列スペシャルシート」や、注釈付席、ビギナーズシートといった席種を除く)。

それでもファンは、チケット代に加え交通費、時に宿泊費まで払って会場へ足を運ぶ。それは、フィギュアスケートの演技が一期一会だからだ。まったく同じ演技を生で見ることは2度とできない。スケーターが活躍できる期間には限りもある。さまざまな思いを抱くファンにとって、自分の座る席がどんな見え方をする席であるのかは極めて重要だ。

「都会のアリーナほど大きくないので、スケーターまでの距離がすごく近い。2階席で見た人からも、かなりの迫力で見応えがあったと聞きました」。Zアリーナを含む体育館などの施設を管轄する生涯学習スポーツ課の千田芳明課長補佐はそう話す。

リンクとの近さを感じられる席で演技を見ることのできたZアリーナでの公演は、多くの観客にとって満足できるものになっただろう。

今回のショーが成功を収めたことから、Zアリーナの今後の活用のヒントも得たという。「これを機に、またここでアイスショーが開催されることもあるのかな、と」(千田課長補佐)

「はやぶさ臨時便」も貴重な体験に

もう一つ注目されたのが、新幹線「はやぶさ」の臨時便だ。JR東日本は奥州公演の観客の利用を想定し、公演中の3日間、17両編成のはやぶさを会場最寄りの水沢江刺駅に停車させた。水沢江刺は通常だと停車しない駅だ。この「はやぶさ臨時便」を喜んだファンは多かった。

JR東日本盛岡支局の広報担当によると、臨時便自体は大規模イベントの際にしばしば設定するもので、それほど珍しいものではないという。

一方、ファンからすると、「“推し”のため、自分にとって大事なイベントのために新幹線が停まった」ということには大きな意味がある。その便に乗ったこと自体が特別な思い出となった人もいただろう。SNSには臨時便の車内や電光掲示板を撮影した写真を添えた投稿も見られた。

また、利用客からは「駅での対応が丁寧でよかった」との声も多かった。これについて水沢江刺駅に尋ねたところ、スターズ・オン・アイスのために公演期間の3日間、社員を集め駅のスタッフを通常の倍以上に増やして対応したとのこと。一度に数百人が乗降するとなれば水沢江刺駅は人が入りきらないほどに混み合う。それを見越して、混乱を防ぐための準備をしていたのだ。


新幹線の臨時便が出れば日帰り客が多くなるが、複数の公演のチケットを持つ人が近隣のホテルに宿泊・滞在した例もあった。今年は桜の開花が早かったため、夜は市内の桜の名所である水沢公園に夜桜を見に行った人もいたようだ。今回、チケットは比較的取りやすかったようで当日券(2階席・1万8000円)も発売された(提供:奥州市)

奥州公演は地元の人がアイスショーを見に行くきっかけにもなった。

「有名な羽生結弦さんが来るとのことで、発表されてすぐ地元も『初めて生で見られるかもしれない』と盛り上がりました。地元にもスケートファンはいますが、普段は東京や横浜に見に行っているので、『Zアリーナで見られるなんて』と」(千葉部長)

高齢者、夫婦や家族での観覧が目立った

奥州公演の主催者である木下グループによると、実際、観客の層は異なっていたという。「奥州公演はご夫婦、ご家族での観覧が多かった印象。通常、アイスショーに来場されるのは女性が中心ですが、奥州は大阪や横浜とは少し違っていたように感じました」(同社広報)

奥州公演は木下工務店などで知られる木下グループの単独主催。後援に地元のIBC岩手放送という座組で開催された。木下グループの広報担当者は今回の奥州公演の意味を次のように話す。

「アイスショーは大都市圏でなければ開催が難しいと考えられがちですが、地方で開催すればその近隣のお客様に生で見ていただく機会になります。地元の方が全面的に協力してくださって、実際、今までとは違うアイスショーになったと思います。奥州公演のような盛り上がり方は、地方公演ならではだと感じました」


岩手といえば盛岡冷麺と思われがちだが、地元・奥州市の料理を出すキッチンカーや、お土産・工芸品の販売ブースも出た。市役所としても地元のPRブースを出して、1日当たり6人の職員が現場で対応した(提供:奥州市)

奥州公演の成功からみえてくるのは、主催と地元の信頼関係、協力体制の構築の重要性だ。それがあってこそ、開催地はショーを地域PRの場として活用でき、主催側も地元の観客に幅広くフィギュアスケートに親しんでもらう機会を提供できる。主催者と地元には各方面への細やかな対応が求められる。

今回、奥州市はスターズ・オン・アイスに関する諸々に市のプロモーション事業の一環として取り組んでいた。開催地にもさまざまなコスト負担が発生することを踏まえ、双方にメリットのある形を追求することで、地方開催は持続可能なものとなるだろう。

他地域と地元、両面での集客は簡単ではないものの、知名度や人気のあるスケーターがショーに出演する際、地方公演を設定することの意義は大きい。多くの人を迎えるとなれば地域の負担は大きくなるが、訪れた人々が気持ちよく、ほどよくお金を使える場とモノを用意しておくことで、開催地にも還元されるものがある。奥州公演にはその可能性が感じられた。

(続編:「りくりゅう」所属、木下グループの選手支援力 ※フォトギャラリー後編)

(山本 舞衣 : 『週刊東洋経済』編集者)