世界こんなところに日本人サッカー選手(1)ブータン

 いまやサッカー日本代表メンバーのほとんどは海外組となった。昨年のカタールW杯では登録メンバー26人のうち、実に19人がドイツやフランス、イングランドなどサッカーの本場・西ヨーロッパでプレーする選手だった。この事実は、日本サッカーのレベルアップのひとつの象徴かもしれない。

 ただ、サッカーは最もワールドワイドなスポーツであり、盛んなのは西欧だけではない。環境や求めるものは、その土地によってさまざま。世界中のあらゆる地域でプレーしている日本人選手を追った。


昨年、ブータンで得点王となり表彰される本間和生

 2022年ブータン・プレミアリーグで優勝したパロFCで、得点王とMVPをダブル受賞した本間和生(43歳)という選手をご存知だろうか。

 Jリーグを経由せず、02年に22歳で海を渡った本間は、セルビア(当時はセルビア・モンテネグロ)のFKマチュヴァ・シャバツで約2年半プレーしたのを皮切りに、その後は主にハンガリーとラオスで活躍。ラオ・トヨタFC時代は、14年から20年までの7シーズンでそれぞれ5度のリーグ優勝と得点王を経験するなど「ラオスの英雄」とも呼ばれた選手だ。

 22年夏にタイ3部のサムットプラーカーンFCからパロFCへ移籍。海外暮らしの長い本間にとっても、ヒマラヤ山脈の麓に位置し、インドと中国に挟まれた南アジアの小国ブータンは、未知なる国だった。

 かつて日本からブータンへ赴くには1日250ドル前後の公定料金制度があった。現在でも1日200ドルの観光税がかかるなど気軽には行けない、少し敷居が高い国として知られている。

「行きたくてもなかなか行けない国」

 本間にとっても、それは移籍を決めた大きな理由だった。

「ブータンは、九州と同程度の小さな国。正直、娯楽はほとんどありません(笑)。ただ結果的には、これまでのキャリアで最高のシーズンになりました」

 創設11シーズン目を迎えたブータン・プレミアリーグは10チームがそれぞれホーム&アウェーで対戦し、計18節で争われる。本間は18試合すべてに出場し、全チームから得点を奪うなど34ゴールと得点を量産。パロFCとティンプー・シティFCの優勝争いは23年1月5日の最終節までもつれたが、本間の決勝弾などで、パロFCが2−1と勝利し、リーグ連覇を決めた。

【セルビア、ハンガリー。ラオスにも】

 ブータンは経済的に恵まれた国ではない。しかし、折に触れて「世界一幸せな国」と称される。実際はどうなのか。本間は肌で感じた様子をこう話す。


昨年、ブータンでプレーしていた本間和生

「どうなんでしょうね(苦笑)。一般的には国の豊かさを図る指標はGDP(国民総生産)だったりすると思うのですが、ブータンはGNH(国民総幸福量)という独自の指標を掲げて国作りをしているので。

 今ではブータン人も普通にスマホを持っていますし、経済的な刺激を受けて海外に移住したいという人も増えてきているみたいです。チームメートからもそういう話は聞きましたし、実際にオーストラリアに移籍した選手がいましたからね」

 かつてブータンは閉ざされた神秘の国というイメージがあった。だが、現代社会において伝統を守りつつも、国際化が進んでいることは当然なのかもしれない。

 それにしても、本間のキャリアはほかに例がないほど独特だ。高校時代は埼玉の名門・大宮東でプレーしながらも、全国大会出場経験はなし。リエゾン草津(現ザスパクサツ群馬)などを経て02年にセルビアに渡ると、04年からハンガリーで9年、ラオスで7年プレーしてきた。

 これまでも海外に出た選手は数多いが、これほど長くプレーした選手は珍しい。ハンガリーでは1部と2部で8クラブを渡り歩き、1部で計118試合34ゴール、2部で計52試合25ゴールをマークした。ラオスでも7年でリーグ通算156ゴールと高い得点力を発揮し続けた。

「長く海外でプレーし続ける秘訣? この歳になって、結果を出さないといけないというのは余計に感じます。

 パーソナリティの部分では、自分はどこに行っても目の前のことを受け入れてきました。たとえば目の前に出された料理に対し『これは食べられない』という人がいるのは理解できますが、自分に関してはそういうことがなかったし、仮に現地の言葉がわからなくてもできるだけ何でも受け入れてやってきたというか......。

 FWというポジションがら、密にコミュニケーションを取るというよりも、周りの選手の特徴や癖を掴み、うまくボールを引き出すように意識はしていました。あとはロッカールームでチームの爆弾になるようなことは避けようと立ち回ったり。もちろん、プロである以上、それだけではダメですし、結果を出した上での話ですけどね」

【J3クラブからのオファーは断った】

 東欧でコンスタントに得点を重ね、ラオスとブータンで通算6度の得点王に輝いた本間だが、Jリーグでプレーする機会には恵まれなかった。


ラオスでプレーしていた時代の本間和生

 ハンガリー1部のBFCシオフォクに所属していた2011年、日本代表の招待参加が予定されていた南米選手権に、東日本大震災の直後で国内組の参加が困難となり、海外組だけでメンバーを組む案が浮上した。このとき「日本代表のリストに本間和生が入ったのでは」とニュースになったことはあったが、最終的には日本代表の招待参加自体がなくなり、本間の代表入りも幻となった。

「そのときは知人からすごいメッセージが来たんですけどね(苦笑)。ラオス時代にエージェントを通して、J3のあるクラブから『経験ある選手を求めているから』と誘われたことはありましたけど、結局は断りました」

 1980年3月生まれの本間は、Jリーグ経験も日本代表経験もないが、隠れた"黄金世代"のひとりと言っていいかもしれない。

 東欧から東南アジアへと渡り、ブータンを経て、現在はタイ3部のサムットプラーカーンFCに復帰している。決して計画していた歩みではなかったが、プレーする場所やカテゴリーにかかわらず、求められることに応えてきたからこそ築けたキャリアだ。

「一般的にはラオス(FIFAランキング187位)やブータン(同185位)のレベルはJリーグ(日本は同20位、昨年12月時点)より低いかもしれないですが、『じゃあ、そこで活躍できますか?』と言えば、またそれは違う話だと思います。

 プロとして生活していくにはどうしたってお金は必要ですが、僕はお金に執着しているタイプではないですし、一番の財産は海外に出て日本に暮らしていたらできなかったことを経験できたこと。若いころはもっとレベルの高い国でやりたいとか、競争意識もありました。でも東欧からラオスに行ったのも、キャリアの晩年だからとか、そういうことではなく、サッカーが好きで、純粋にそこにチャンスがあったからです。

 この歳になると、オフのたびに自分のなかで『まだサッカーを続けたいか』と自問自答する日々です。もちろん需要がなければ続けることはできないですし、本当ならブータンを最後に引退したほうが、キャリアの終わりとしてはよかったのかもしれませんけどね」

 サッカー選手として自らが活躍できる場所を求め続けてきた、本間の旅はもう少しだけ続きそうだ。

プロフィール
本間和生(ほんま・かずお)
1980年3月生まれ。大宮東高を卒業後、越谷FC、リエゾン草津、FKマチュヴァ・シャバツ(セルビア)を経て、ハンガリーでは9シーズンで8チーム(2部を含む)を渡り歩く。14年からはラオスのラオ・トヨタでプレーし、7年で5度の得点王と5度のリーグ優勝を経験。21年はタイ3部のサムットプラーカーンFCでプレーし、22年夏にブータンのパロFCへ移籍すると、18試合で34ゴールを挙げパロFCの優勝に貢献。23年にタイ3部のサムットプラーカーンFCへ復帰した。FWまたはMF。175センチ、74キロ