韓国で「ホカ弁」を広めた在日韓国人の食への信念
ソウル有数の繁華街・江南駅近くにある「ハンソッ」店舗(写真・黒田勝弘)
韓国にテイクアウト式の日本風弁当ビジネスを初めて導入し、成功した在日韓国人経営の韓国最大ホカ弁チェーン「株式会社ハンソッ(Hansot)」が、2023年で創業30年を迎える。創業資金2億ウォン(約2000万円)足らずでスタートし、今では加盟店775店、年間売り上げ約1300億ウォン(約130億円)、営業利益130億ウォン(約13億円、いずれも2022年度)と、業界ではダントツ企業にまで成長した。
今後の目標は加盟2000店と海外進出だ。近く待望の自社ビルもできる。韓国ではビジネス分野として社会的評価が低かった食文化に果敢に挑戦し、いわば“在日の壁”を乗り越えた在日2世のサクセスストーリーを、創業者である李英徳(イ・ヨンドク)会長(73)に聞いた。
ソウル大卒でなぜ弁当屋に?
彼は1948年に京都で生まれ、京都の高校卒業後、韓国に渡った。日本語しか知らなかったためまず韓国語学習から始め、1973年に国立ソウル大学法学部を卒業した。この経歴だと、学歴至上社会の韓国では「韓国最高のソウル大卒がなぜ弁当屋に?」となる。以下は、そういった韓国国民が抱く謎の謎解きでもある。
大学時代はエリート職業である外交官になるのが夢で、その勉強もしていたという。しかしある時、親しかった現役外交官から「これから韓国はビジネスの時代だよ!」といわれ方向転換した。とはいえ、大学を卒業してからホカ弁にたどりつくまでには紆余曲折があった。
手っ取り早いビジネスとしてまず、工芸品製造やファッション衣料店、貿易商などをやってみたがいずれもうまくいかなかった。その後、父(李判述氏)に頼まれ、父が投資していた韓国南部・全羅南道麗水市の観光ホテルを手伝ったが、やがて父が亡くなり、さらにホテルも火災に見舞われたため手放した。
貿易商に戻ったが、独身のまま40歳近くになって人生を考えるに至る。ちょうどそのころ、京セラの故・稲盛和夫会長に出会って一念発起した。
稲盛氏も同じく京都の人。日本での講演会の際、彼がよくやる講演会後の飲み会の席で初めて会った。そこで「おう、キミは韓国人か。わしのヨメはん(夫人)も韓国人や……」といわれ、親近感を覚えた。ちなみに稲盛氏の夫人は戦前、日本の東京大学で学んだ韓国の著名な農学者、禹長春博士(1898〜1959年)の娘だったことで知られる。
李英徳氏が稲盛語録から学んだことは「商売の目的は金儲けやない、社会貢献や。金にこだわったらアカン。自分の好きなことをやって自分を高めろ」だった。
では「自分がやれるもの」は何か。思案の末、思いついたのが食のビジネスだった。
ここでも「京都」がヒントになった。というのも在日1世の父は京都の中心街で旅館や時計・宝石店などを手広く経営し、結構、美食家だった。父に連れられ京都の食を楽しんだ息子の英徳氏も、子どものころから食には関心があった。
そこで「自分は他人よりは食に通じてる」と思ったことから、「韓国で食のビジネスをやればどうだろうか」と考えたのだ。
しかし、韓国では伝統的には食に関するビジネスへの社会的価値が低い。日本のように、食べ物屋で家業何代などという伝統はまずなかった。飲食店の親は「子どもにだけは家業を継がせたくない」と思うのが当たり前の社会なのだ。だから、世間的には「ソウル大を出て食べ物屋などとんでもないこと」だった。
食べ物商売なんて「あんなものは誰でもやれる商売」と思われてきたため、優秀な人材は入ってこない。実は、韓国で飲食店の社会的価値と評価が高まり、職業としての料理人が人気を得るようになったのはごく最近のことである。
「温かいままテイクアウト」が人気に
しかし今から30年前、英徳氏は“先見の明”としてそこを逆に考えた。「韓国では食のビジネスが本格化するのはこれからだ、その社会的価値を高めるチャンスでもある、それが自分の社会的貢献にもなる」というわけだ。
まず食ビジネスを行う一企業として、フランチャイズ・システムによるお持ち帰りのホカ弁チェーン店を構想した。韓国ではもっぱら出前(配達)ばかりで、テイクアウトという分野は未開拓だった。
日本では神戸を拠点に、同じく在日韓国人2世が経営するホカ弁チェーン店「本家かまどや」があった。紹介を受けノウハウを教えてもらった。
韓国最初のテイクアウト専門のホカホカ弁当屋「ハンソッ1号店」は1993年7月7日、ソウル中心街の鍾路(チョンノ)区役所前にオープンした。日本でいえば東京の千代田区役所という位置づけになる。わずか8坪(26.4平方メートル)の店だったが、初日のランチタイムには長い行列ができ、売り上げは1000個に上った。周りはビジネス街でサラリーマンが多い。事前にメニューのチラシをばらまいてはいたが、予想外の好反応だった。
もともと韓国人は冷や飯、冷めたご飯を嫌う。したがって韓国の航空会社でも、短距離路線でも機内食のご飯はきまって温かい。温かいご飯付きの弁当をテイクアウトできるというのは、韓国人にとってはこのうえなくありがたい。
それに「ハンソッ」のお店は、こぢんまりしているが明るくて清潔で、何よりも弁当の値段が安かった。開店当時で1個平均1500ウォン、日本円で100円程度だったのだ。それゆえに、若い勤め人たちに大受けした。現在でも、韓国食の焼き肉・ビビンバシリーズなどのほか、どんぶり物シリーズやカレーシリーズ、パスタシリーズなど多様なメニューをそろえ、おおよそ500〜1000円の価格帯で提供している。
オープン当初から「自分もやりたい」「やらせてほしい」と、見学や加盟申請が殺到した。各店舗に食材を配送するフランチャイズ・システム、かつ客席・テーブルが不要だから店舗も小さいためそれほど経費はかからず、開店が容易だったからだ。ただ、弁当を盛る発泡スチロールの容器が韓国にはなく、オープンしてしばらくの間は、日本からハンドキャリーで大量に持ち込んだという話がある。
余談だが、韓国では1970年代までは弁当を、日本語そのままに「ベントウ」と言っていた。近代化の過程で日本からもたらされたものだからだが、その後、韓国にも昔、似たような携帯飯があったとして韓国語の「トシラク」に代わった。
しかし北朝鮮ではずっと「ベントウ」が残っていたが、つい最近、国営メディアに「ハムバップ」という言葉が登場した。直訳すると「函(箱)飯」だが、いずれにしろ「弁当文化」はもともと日本文化といっていい。李英徳氏の韓国での弁当ビジネスは、典型的な日韓の食文化交流の一環だった。
ちなみに屋号の「ハンソッ」は韓国語で「一つの釜」の意味だが、「同じ釜の飯」というように「親しい仲間」の意味にもなる。李英徳氏の経営哲学は「消費者を裏切らない」「加盟店との信頼・共生」「経営の透明性」など。会社の応接室の壁には「温かい弁当で地域社会に貢献するハンソッ精神」として、「良心・配慮・正直」という3つの言葉が掲げられている。
コンビニを蹴散らすメニュー開発力
おかげで開業初期に遭遇した1998年のアジア金融危機、韓国では「IMF危機」の際にも、物価高騰であらゆる外食チェーン店が値上げするなか、食材取り引き先や加盟店の協力で値段を上げずに持ちこたえた。韓国のフランチャイズ業界では本社と加盟店の間でのトラブルがしばしば発生しメディアをにぎわすが、「ハンソッ」にはそれがないことで知られる。
テイクアウトの弁当ビジネスにとってライバルはコンビニ弁当などだ。韓国でコンビニが本格展開したのは1990年代末からだが、日本をモデルにしてスタートしたものの、日本では定番商品の「おにぎり」は苦戦した。
それを韓国人になじみの「キムバップ(のり巻き)」をヒントに「三角キムバップ」と命名して成功させたのは、韓国セブンイレブンの日本人スタッフが生み出したグッド・アイデアだった。
その後、コンビニに弁当も登場したが、温かく食べるには電子レンジで温めることが必要だ。さらに、種類の多さや価格面でも「ハンソッ」のホカ弁にはかなわない。
「ハンソッ」創業者の李英徳氏(写真・黒田勝弘)
新メニューの開発では、李英徳氏が陣頭指揮をふるう。今でもしばしば日本に出かけ、新メニューの開発に余念がない。これまでの最大ヒット商品は「チキンマヨ弁当」だが、「ハンソッ」のメニューの多さは業界で飛びぬけている。だから「コンビニ弁当は敵ではない」と自信を見せる。
70歳を超え、社長職を先ごろアメリカで外食ビジネスを勉強してきた長男の李夏林氏(31)に任せ会長となった。在日韓国人が本国でビジネスをやる際、人間関係や組織管理など日本との違いに苦労する。「ビジネスをやるうえで在日韓国人としてのマイナス、つまり“在日の壁”はなかったか」という問いには、「鈍感なせいかまったく感じなかった」という。その成功の秘訣を知りたいと講演要請も多く、ソフトで威張らない人柄が好感を持たれている。
韓国の企業はある分野で成功すると、すぐ異業種に手を出しがちだ。しかし、李英徳氏は慎重だ。一方で、食のビジネス拡大には意欲を持ち続ける。その一環として、アメリカ育ちの若い新社長の下、海外進出を構想している。とはいえ、「法秩序と道徳・倫理が守られている国以外には出ていってはだめだ」が持論である。
(黒田 勝弘 : 産経新聞ソウル駐在客員論説委員、神田外語大学客員教授)