侍ジャパン・栗山英樹監督【写真:荒川祐史】

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大学を中退→GSなどでアルバイト生活→日本ハム入団テストに合格

 3月の第5回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に挑む侍ジャパンは宮崎キャンプの真っ最中だが、今キャンプから初めて侍のユニホームに袖を通している城石憲之内野守備・走塁兼作戦コーチの野球人生は、まさに“奇跡的”だ。高校卒業後、野球を諦めてフリーター生活をしていた時期があったが、そこで意識をガラリと変えてくれたのが、現在侍ジャパンを率いている栗山英樹監督の著書だった。

 城石コーチは内野守備走塁担当として今キャンプ中、シートノックや個別の守備練習でノックバットを振り続けている。作戦担当の肩書も付いているが、「僕が作戦を立案するわけではないと思います。以前ファイターズの1軍打撃コーチを務めていた時(2016〜19年)、攻撃時には栗山監督(当時)の隣にいさせてもらい、シチュエーションによって、いかに選手に準備をさせるかを学ばせていただいた。そういうことを含めた役割だと思っています」と語り、「日本代表のユニホームを着るなんて、考えてもみなかった。栗山監督との縁のお陰です」と深くため息をついた。

 城石コーチは埼玉・春日部共栄高3年の時に、主将として春夏連続で甲子園出場。しかし、進学した大学の野球部になじめず、1週間で中退した。そして約2年野球から離れ、ガソリンスタンドなどでアルバイト生活を送った。先が見えない日々の中で出会ったのが、栗山監督がヤクルト現役時代に上梓した著書「栗山英樹29歳──夢を追いかけて」だった。日常生活に支障をきたすほどのめまいに襲われる「メニエール病」を患いながら、野球を諦めない栗山監督の言葉に心を打たれた。

 一念発起し、1993年12月から3か月間、知人のつてを頼って社会人野球の強豪・東芝の練習に参加。その後日本ハムの入団テストを受けて合格し、1994年ドラフト5位で指名され、プロの選手になる夢をかなえたのだった。

侍ジャパンの選手は「体の使い方が上手だから疲れ方が違う」

 日本ハムではなかなか出場機会に恵まれなかったが、1998年の開幕直前、トレードでヤクルトに移籍すると才能が開花。セカンドやショートで堅守を誇った。2005年オフに移籍組では異例の選手会長に就任したのは、実直な人柄ゆえだろう。2009年限りで現役を引退後、ヤクルト、日本ハムでコーチを歴任し、現在はヤクルトの2軍チーフ兼守備走塁コーチを務めている。

「コーチという立場ではあるけれど、こうして各球団からトップ中のトップだけが集まった中で一緒に野球をやっていると、練習の合間などにふと、不思議な感覚に陥ることがありますよ」と感慨深げ。「一番びっくりしているのは、練習量です。侍ジャパンの選手はものすごく練習する」と語る。

「もちろん体力もあるのだろうけれど、体の使い方が上手だから、どれだけ練習しても、そうでない選手に比べると疲れ方が違うのではないか。侍ジャパンの選手にとっては、ほどよい疲れなのではないでしょうか」と分析している。「もちろん、並大抵の努力ではその域に達することはできない。何事もコツを得るまでには時間と手間がかかりますよね」と続けた。

 フリーターの頃、日本代表のユニホームを着る自分を想像できただろうか? 城石コーチは「考えてもいませんよ。正直言って、2度と野球をやれることがあるとも考えていなかった。僕は自ら退いたわけですから」と首を横に振る。49歳の元フリーターは、栗山監督との縁に導かれて得た経験を糧に、今後も指導者として成長していくに違いない。(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)