高校サッカー人気絶頂時代のヒーローたちの現在。「今となっては全部、いい思い出」
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――トヨタ自動車に就職された平澤さんですが、その後、グランパスから声がかかったと聞きました。
平澤「誘われたことはありましたが、『練習生として1からやってくれ』と言われたので、『じゃあ、結構です』と(笑)。いつだったが、ノボリ(澤登正朗)と(東海大一時代の監督だった)望月(保次)先生が清水エスパルスにいたので、「もう1回やらないか?」と誘われたこともありました。でも、ブランクもあったし、条件的にもよくなくて......。もしJリーグができた時に独身だったら、プロという道を選択していたかもしれないですが、その時にはもう家族もいたので。サッカーをやめたあとの人生を考えれば、そっちのほうが長い。生臭い話で申し訳ないですが、いまはプロに行かなくてよかったと思っています」
山田「長い目で考えれば、そっちのほうが安定していますし、正解だと思います。でも、平澤さんがJでプレーしている姿は見たかったな」
平澤「うれしいけど、たとえば(プロ野球・元巨人の)江川(卓)さんは(元広島の)小早川(毅彦)さんに自慢のストレートを打たれて、すぐにやめたじゃない。江川さんは、あっさりやめたからこそ、美化されている部分もあると思う。もしオレがJリーグでプレーしてダメだったら、誰も『もったいなかった』なんて言ってくれない。そういう意味でも、よかったかなと。
それに、仮にプロに行っても、引退したら一般社会に戻るわけでしょ。そうなった時に、オレにはまた一から出直すのは無理かなって。森崎くんはそれができたからすごいなって思います」
森崎「1回、(プライドなどは)全部、捨てましたね。僕は全日本少年サッカー大会に出たこともなかったし、本当にたまたま市船で優勝して得点王になっただけですが、それでも、どこに行っても『おっ、得点王』と言われて、そういう目がキツかった時期はありました。
23歳でサッカーをやめて、約10年間は千葉県内の中古車販売会社で営業をしていましたが、そのときも『あの森崎さんですよね』って言われましたし。でも、10年で車を1000台くらい売りましたが、僕のことを高校サッカーで知っていてくれて買ってくれた人も多かった。だから、得点王という肩書に苦しんだこともあれば、救われたこともある。今となっては全部、いい思い出です」
高校で活躍すれば誰でもプロになれた平澤「心の底では絶対にプライドはあるもんね。オレも仕事をしていて『あの平澤さんですよね?』って言われても、『どの平澤ですか?』って返していた時期があったし。自分からサッカーをやっていたなんて、絶対に言わなかった」
――森崎さんは、プロで壁を感じたという話もありました。
森崎「僕がジェフに入ったのは、Jリーグができて3年目の時でした。当時は、高校サッカーで活躍すれば、誰でもプロになれちゃう時代だったんです。だから、そのぶん消えていった選手も多い。高校までは、普通にできたことが、周りのレベルが上がってできなくなって」
平澤「オレらのポジションには外国人選手も来るしね」
森崎「それもありますし、プロになって誘惑も多くて、夜はほとんど寮にいませんでした。それに勝手ながら平澤さんに感覚が似ていて、ボールを使わないで走る練習が嫌いで......。コーチの上げるセンタリングのボールが悪くて『ヘタくそ』ってキレて言っちゃったこともあったり、不真面目だったんです(笑)」
平澤「『前から守備しろ』って言われても、守備なんかしていたら疲れて、点、とれないもんね。オレもJSLの2部なら余裕だったのに、1部に上がったら駆け引きが全然通じないって感じたことはあった」
山田「江原くんは大学までサッカーをやって、そのあと俳優として?スーパー戦隊モノ"に出ていたんでしょ?」
江原「中央大へ進学したのですが、高3の国体で痛めた頸椎の痛みが引かずに、2年でサッカーはやめて、3年の夏前には大学も中退しました。選手権で得点王になって注目されるのは嫌ではなかったですが、周りの期待に応えなきゃみたいなのはありましたし、無理して頑張っていたことで、最後に気持ちがバンって破裂しちゃったみたいな。いま思えば自分自身、かなり葛藤していたんだと思います。
武南高校のエースとして活躍した江原淳史さん。写真は埼玉県代表で国体に出場した時
高校卒業する時にちょうどJリーグが開幕し、話がまったくなかったわけではないですが、やる自信もなかったですし。おそらく、ケガなく大学卒業後にJリーグに行けていたとしても、きっと『昔、Jリーガーでした』っていうレベルで終わった気がします。だから、そこはそんなに後悔もないんですけどね。
俳優になったのはたまたま従妹がテレビ業界にいたのがきっかけです。オーディションがあるからと誘われて行ったら受かちゃった。それがトヨタのカローラの小沢健二さんの歌が流れていたCMで、その流れで事務所も決まって、21歳から26歳くらいまで俳優をやっていました」
山田「それで『(秘密戦隊)ゴレンジャー』に出たの?(笑)」
江原「ゴレンジャーじゃなくて、『電磁戦隊メガレンジャー』(97年テレビ朝日系。メガブラックの遠藤耕一郎役)ですね(笑)。ほかにも、薬品のCMや舞台や映画に出たり。その後はいくつか仕事をして、08年にアヴェントゥーラ川口(関東社会人リーグ2部)の立ち上げに関わって、いまはジュニアユースチームの監督をやっています」
――森崎さんもいまは千葉県内でサッカースクールとジュニアユースのチームを持っているんですよね。
森崎「15年に独立してスクールとジュニアユースチームでサッカーを教えながら、自分もシニアチームでボールを蹴っています。プロになって、一度はサッカーがつまらないと感じた時期もありましたけど、やっぱりサッカーは楽しいなって、この歳になってあらためて思いました。だから、いまはできるところまでプレーしたくて。現役時代にやりきった人は、こんな気持ちにならないんでしょうけど、僕はまったくやりきってなかったので。スクールは100人くらい生徒がいますが、指導者がうるさく『蹴れ、走れ』と言っても、楽しくないだろうし、僕はあまり言わないようにしています」
――山田さんもいまはサッカーの指導を中心に活動されているんですよね。
山田「オレはラモス(瑠偉)さんや木村和司さんのスクールを手伝ったり。森崎くんのスクールにも隔週で行っています」
平澤「ユーチューブで『TAKAちゃんTV』見たよ」
山田「あれは、いろいろあってもうやめました(笑)」
平澤「でも、教えるのは難しいでしょ」
森崎「よく『シュートを教えてください!』と言われても、教えられません」
平澤「オレはいま、トヨタの東富士研究所にいて、以前は新車のテストドライバーとかドライバーの指導員をやったりしていたんだけど、誰かに教えられたものは教えられる。でも、点のとり方は自分なりに努力はしたけど、誰かに教えられたわけじゃないから、それを教えるのって難しいよね」
江原「自分で感覚を掴まないと。点をとるために、一番効率のいい場所を探していく。最近の子はボール扱いは上手ですが、そういうことができない子が多い」
山田「それにしても、みんな体型はそんなに変ってないですよね。オレなんて、『現役時代どこの部屋にいたんですか?』って感じなのに(笑)」
江原「みなさんがどういう気持ちでサッカーをやっていて、どういう経緯でサッカーから離れていったのかなどを聞けて、少し安心しました。憧れだった平澤さんと山田さん、森崎くんにも会えて、楽しかったです」
一同「また、みんなで集まりましょう」
プロフィール
平澤政輝(ひらさわまさき)
1969年4月25日生まれ。大河FC→東海大一高→トヨタ。65、66回大会の2度の高校選手権で計10ゴールを挙げて、優勝&準優勝に貢献。高校卒業後にトヨタに進んだが、ほどなく引退。現在はトヨタ自動車株式会社、東富士研究所勤務
山田隆裕(やまだたかひろ)
1972年4月29日生まれ。清水商業1年時の67回大会の市立船橋との高校選手権決勝で決勝ゴールをマーク。日産を経て、横浜マリノス、京都、ヴェルディ川崎、仙台と渡り歩き、03年に引退。J1出場224試合20点、J2出場47試合3点。国際Aマッチ1試合出場
江原淳史(えはらあつし)
1974年4月14日生まれ。東浦和中→武南高→中央大(中退)。70、71回大会の高校選手権で計11ゴールをマーク。3年時の71回大会では8ゴールで得点王、エースとして名門武南をベスト4に導いた。現在はアヴェントゥーラ川口(関東2部)の理事、ジュニアユース監督を務める
森崎嘉之(もりさきよしゆき)
1976年4月20日生まれ。市立船橋卒。73回大会の高校選手権で8ゴールを決め、市船の初優勝に貢献。ジェフ市原(現千葉)に2年間所属も、リーグ戦出場はなし。中古車販売会社などを経て、15年からドリームサッカースクール(千葉県八千代市)代表。児童や中学年代にサッカーの楽しさを教えている