国立のヒーローたちが振り返る、「日本のサッカーで唯一客が入った」時代の高校選手権
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――まずはみなさんにとって高校選手権が、どんなものだったのか聞かせてください。
平澤「オレは中学の途中まで埼玉県の旧浦和市で育って、81年度の60回大会で武南(埼玉)が優勝するのを見て、エースで11番の柴崎薫さんに憧れていたんです。武南が決勝で韮崎(山梨)に2−0で勝った時、先制点を決めて、2点目をアシストしたのが左利きの柴崎さんだった。少年団の先輩だった柴崎さんの弟がオレの2歳下にいて、柴崎さんが選手権で優勝したあとにグラウンドに来た時には、ちびっ子が『サイン下さい!』って群がって大騒ぎだったんですが、そのなかのひとりが小6のオレ。ローマ字の筆記体とカタカナを交ぜて書かれたサインもまたカッコよくて、オレもああなりたいってね。
まだ日本サッカーにプロがなかった時代。選手権で活躍して女の子にモテたい。そのためにすべてを捨てて一生懸命頑張ったわけです(笑)」
江原「サッカー好き、イコール女の子にモテたい、みたいな。ただ、5つ下の僕ら世代は、それこそ平澤さんに憧れていました。ユニフォームのシャツの裾をちょっとだけ短パンから出して、袖を少しまくる......。平澤さんのいでたちがカッコよくて、なぜか短パンのヒモの片側だけ出すのも真似したり(笑)」
森崎「平澤さんが点を決めると手の平を上にして揺らす、『やったぜ』みたいなゴールパフォーマンスも真似しました(笑)」
87年度の選手権後、高校選抜に選ばれた平澤政輝さん(右)と、当時小学5年だった森崎嘉之さん(左)
平澤「なんでそうなったのかな。ガムシャラに喜ぶのもカッコ悪いし、当たり前だと思っていたんでしょうね。でも、シャツの裾はたまたま引っ張られて出ていただけでしょ(笑)」
江原「偶然? こだわりしか感じなかったですよ(笑)」
平澤「こだわりといえば、78年のワールドカップでアルゼンチン代表のマリオ・ケンペスに憧れて、左足が利き足なのも、ストッキングを下した姿もカッコいいなって。それで、右利きのくせに『もう左足しか使わない』と。その翌年にも、ワールドユース(現U−20W杯)でアルゼンチン代表のディエゴ・マラドーナとラモン・ディアスが来日して、大宮サッカー場で試合をしたんです。その試合でFC浦和(埼玉)の代表として選手に花束を渡したんですが、マラドーナとラモン・ディアスを間近に見て、やっぱり『左足いいな』って」
江原「なぞが解けました。平澤さんのスタイルはケンペスが始まりだったんですね」
女性ファンが集まりすぎてパトカーが山田「当時、日本のサッカーで唯一お客さんが入るのが高校サッカーでした。パーパーパパパパ〜っていう、テーマ曲『ふり向くな君は美しい』が流れると、みんな飛び上がって喜んだというか。それにしても平澤さんの頃の東海大一のフィーバーぶりはすごかった。2年連続で選手権決勝に行ったのもそうだけど、3トップが主流だった時代に、東一(東海大一の略称)は2トップで戦っていたのもオシャレに見えた。ベレーザ(三渡洲アデミール、元清水エスパルスなど)や澤登(正朗、元清水エスパルス)さんもいたけど、平澤さんはもうアイドル並の人気だったじゃないですか」
森崎「サッカーがうまくて、顔は中村繁之(俳優、元ジャニーズのアイドル)似で(笑)」
平澤「確かに18歳の頃の比較なら、福山雅治よりオレのほうがモテたかも。追っかけの女の子たちが集まりすぎてパトカーが来ちゃったこともあったから(笑)」
森崎「僕、小5の時に平澤さんが高校選抜で東大の検見川グラウンドに来て、一緒に写真を撮ってもらっていますからね。中学の時に憧れていたのが山田さんで、山田さんがアシックスのイエローラインのインジェクター(固定式スパイク)を履いていたから、静岡のサッカーショップ『GOAL』で通販してまで同じのを買っていました(笑)」
――80年代は静岡代表が7度も決勝に進出するなど、強さが目立ちました。
山田「清水東、東一、清商の3強時代で、予選を勝ち抜けば本大会では準決勝まで行くのが当たり前という時代だった。ただ、国立競技場以上に憧れだったのは、県大会のメイン会場だった草薙競技場。草薙こそ静岡の高校サッカーの聖地で、そこで活躍するのがモチベーションだった」
平澤「東一が選手権に出たのは、オレらが2、3年時の2回だけ。その前後の11年間で静岡県の決勝には8回行っていたんだけど、清水東や清商に負けてね。いまでも『清商ガンバレ!』っていう『清商サンバ』は聞くと腹立つし、『燃える闘魂』(東一のブラスバンド部が応援で演奏していたアントニオ猪木の入場曲)を聞くと気合いが入るからね(笑)」
3人は高校選手権で得点王に山田「正直、静岡の予選は藤枝東とか静岡学園も力があったし、選手権本大会よりもレベルが高く、予選を勝ち抜くのが本当に大変だった。そのぶんベスト8あたりは、どれも好カードでいちばん面白い。静岡の高校サッカー熱はすごくて、『KICK OFF』(静岡第一テレビ)という高校サッカーだけの情報番組が毎週やっていて、みんな見ていましたからね」
平澤「『KICK OFF』は静岡のサッカー少年のバイブルだった」
江原「埼玉にはそんな番組はなかったし、千葉もないでしょ?」
森崎「千葉もさすがになかったですね」
平澤「当時、ほかの学校のシャツを着て練習するのがステータスで、オレは藤枝東のユニフォームを着ていたこともあった」
森崎「僕は1回、清商のユニフォームで練習に出たことがあります。布(啓一郎)先生に『オマエ、すごいの着てるな』って睨まれましたけど(笑)」
江原「武南はさすがにそれはダメでしたね」
――平澤さん、江原さん、森崎さんの3人は選手権で得点王になっています。
山田「そう言われると1人だけダメみたいですが、オレも第8回全日本少年サッカー大会で、得点王になっているんです。清水FCの3連覇は止めてしまいましたが、14点で太田南(群馬)の選手と一緒に(笑)」
平澤「オレは、校内のスポーツテストこそ1級だったけど、ヘディングはまあまあ、テクニックもまあまあ、スピードも遅くはなかったけど、身体能力は平凡だった」
山田「平澤さんの点のとり方はハンパなかった。3年の時は、県予選でも点をとりまくって(11ゴールで得点王)、武田(修宏、清水東OB、元V川崎など)さんの大会記録(9点)を抜いていましたよね」
平澤「でも、森崎くんが市立船橋(千葉)で初優勝した時は、すごい選手が出てきたなと思ったよ。帝京(東京)との決勝戦でハットトリックして、ヘディングの打点は高いし、バネはあったし」
森崎「僕も客観的に昔の自分を見るとそう思います(笑)。決勝の2点目は距離のあるヘディングシュートでしたけど、センタリングが上がってきた時から"スローモーション"でした。飛ぶ瞬間、頭に当てる瞬間、GKの位置、すべてが見えていたというか。振り返れば、あのときはゾーンに入っていたのかなって、しばらく経ってから気づきました。
ただ、ヘディングで大事なのは、高さよりもタイミングじゃないですか。それがダメで、プロになって壁を感じました」
江原「僕は選手権前の国体で頸椎をケガしていて、予選はそのケガの影響でほとんどプレーできなかったのですが、かえって余計な力が抜けてよかった。準々決勝の南宇和(愛媛)戦で決勝ゴールを決めてベスト4に行きましたが、得点後に味方が喜んで抱きついてきても首が痛くて露骨に痛そうな顔をしていましたから(苦笑)。そのぶん、プレー中は無心というか、いい精神状態でできていたんだと思います」
(つづく)
プロフィール
平澤政輝(ひらさわまさき)
1969年4月25日生まれ。大河FC→東海大一高→トヨタ。65、66回大会の2度の高校選手権で計10ゴールを挙げて、優勝&準優勝に貢献。高校卒業後にトヨタに進んだが、ほどなく引退。現在はトヨタ自動車株式会社、東富士研究所勤務
山田隆裕(やまだたかひろ)
1972年4月29日生まれ。清水商業1年時の67回大会の市立船橋との高校選手権決勝で決勝ゴールをマーク。日産を経て、横浜マリノス、京都、ヴェルディ川崎、仙台と渡り歩き、03年に引退。J1出場224試合20点、J2出場47試合3点。国際Aマッチ1試合出場
江原淳史(えはらあつし)
1974年4月14日生まれ。東浦和中→武南高→中央大(中退)。70、71回大会の高校選手権で計11ゴールをマーク。3年時の71回大会では8ゴールで得点王、エースとして名門武南をベスト4に導いた。現在はアヴェントゥーラ川口(関東2部)の理事、ジュニアユース監督を務める
森崎嘉之(もりさきよしゆき)
1976年4月20日生まれ。市立船橋卒。73回大会の高校選手権で8ゴールを決め、市船の初優勝に貢献。ジェフ市原(現千葉)に2年間所属も、リーグ戦出場はなし。中古車販売会社などを経て、15年からドリームサッカースクール(千葉県八千代市)代表。児童や中学年代にサッカーの楽しさを教えている