真夏の高校サッカー大座談会(プロローグ)

 平澤政輝(53歳)、山田隆裕(50歳)、江原淳史(48歳)、森崎嘉之(46歳)――。

 4人の名前を見てピンとくる方は、おそらく1993年のJリーグ開幕前からのサッカーファンだろう。彼らはいずれも、Jリーグ以前の日本サッカー界で圧倒的な人気を誇っていた冬の高校サッカー選手権で活躍した選手たちである。

 平澤は86年度の第65回大会で黄と黒の縦縞のタイガージャージで旋風を巻き起こした東海大一(静岡)のFWとして、留学生の三渡洲アデミール(元清水エスパルス)との2トップで初出場初優勝に貢献。175センチとさほど大柄ではないが、巧みなポジショニングと左右両足から放つ強烈なシュートで得点を量産し、翌66回大会でも7ゴールを挙げて得点王に輝くなど、主将の澤登正朗(元清水エスパルス)とともに東海大一を2年連続で決勝に導く立役者となった。また、実力に加え、甘いマスクで圧倒的な女性人気を誇ったことでも知られている。

 同じく静岡の清水商業で、88年度の第67回大会において、1年生ながら市立船橋(千葉)との決勝で決勝ゴールを挙げたのが山田だ。

 1学年上の藤田俊哉(元ジュビロ磐田など)、同学年の名波浩(元ジュビロ磐田など)、大岩剛(元鹿島アントラーズなど)、薩川了洋(元柏レイソルなど)、1学年下の望月重良(元名古屋グランパスなど)らと清水商業の黄金期を形成。山田が3年時のチームはレギュラーのほとんどが卒業後もプロで活躍するなど、長い高校サッカーの歴史のなかでも最強チームのひとつとしていまなお名を挙げる人は多い。そんなチームにおいて主将として、絶対的なエースとして君臨していたのが山田だった。


左から山田隆裕さん、平澤政輝さん、森崎嘉之さん、右手前が江原淳史さん

 かつて静岡、広島と並ぶ「サッカー御三家」と呼ばれた埼玉で、選手権最多タイの出場を誇る武南のエースとして選手権に2年、3年時に出場(1年時はメンバー入りも出場なし)し、計11ゴールを挙げたのが江原だ。

 2年時には1学年上の天才MFと言われた上野良治(元横浜F・マリノス)らとともに、同校2度目の優勝を狙ったが、小倉隆史(元名古屋グランパスなど)、中西永輔(元ジェフ市原《現ジェフ千葉》など)、中田一三(元横浜フリューゲルスなど)らを擁した四日市中央工業(三重)に準々決勝で惜敗。3年時の第71回大会も準決勝で国見(長崎)に敗れ、悲願の優勝はならなかったが、8ゴールで得点王を獲得した。平澤同様、実力だけでなく甘いマスクとさわやかな笑顔が印象的で、高校サッカー史上でも屈指の人気者となった。

開幕したJリーグに参加しなかった2人

 94年度の第73回大会で、市立船橋(千葉)の初優勝時のエースFWとして強烈なインパクトを残したのが森崎である。森崎自身は当時を振り返り「運がよかった。たまたま」と話すが、帝京(東京)との決勝でハットトリックをマークしたほか、打点の高い得意のヘッドで得点を量産。準決勝を除く1回戦から決勝までの全試合で得点を挙げるなど、8ゴールで得点王に輝いた。

 のちに日産自動車を経て横浜マリノス(現横浜F・マリノス)などでプレーし、ハンス・オフト時代の日本代表でもプレーした山田を除けば、平澤、江原、森崎の3人の名をその後のサッカー界で聞くことはなかった。

 平澤と江原はプロへの道を選ばず、森崎は市船のチームメイトだった鈴木和裕、茶野隆行とともに鳴り物入りでジェフに入団するも、わずか2年で退団。彼らはその後どんなキャリアを歩んできたのだろうか。

 東海大一を卒業後、トヨタ自動車に就職した平澤は、名古屋グランパスの母体となったトヨタ自動車サッカー部に所属。ともにプレーした選手のなかにはJリーグの誕生とともにプロ化した選手も少なくなかったが、平澤にはサッカー選手として生きていくイメージがまったくなかったという。

「(高校卒業時は)まだ日本にプロリーグができることさえ知らなかった。同期が大学を出るタイミングでJリーグがスタートしましたが、プロとしての先が見えなかった。実業団のサッカー部に入ったわけで、引退後は会社に残って働くことに何の迷いもなかったですね」(平澤)

 武南を卒業後に中央大に進学した江原は、高校3年時の国体で痛めた首(頸椎)のケガが長引き、大学卒業を前にサッカー選手生活に別れを告げた。

「ケガの具合がどうにもよくなくて......。選手権で得点王になって周囲に期待されているのは感じていましたが、最後は箸もうまく持てず、日常生活を送るのも精一杯で、もういいかなって」(江原)

 その後は、俳優業などを経て、現在は埼玉県内の不動産会社に勤務しながら、自らクラブの立ち上げにも関わった、埼玉県川口市から将来のJリーグ入りを目指すアヴェントゥーラ川口(関東2部リーグ)のジュニアユースの監督を務めている。

「やっぱりサッカーが好き」

 高校までは努力しなくてもできちゃった――。そう話す森崎は、ジェフに2年間在籍するも、試合への出場はナビスコカップ(ルヴァンカップ)の1試合のみ、出場時間はわずか4分ほどだった。

「それまでは感覚だけで点をとっていましたが、プロになれば相手の身体能力も高いし、難しさは感じました。もちろん、自信がまったくないわけでもなかったですが、自分が調子いいと思っても使ってもらえず、『なんでアイツが......』って不貞腐れてしまったり。まあ、すべて試合に出られない選手の偏見でしかないんですけどね。

 そんな状態で、高校までは楽しかったサッカーが、プロになって楽しくなくなってしまった。当時はJリーガーというだけでチヤホヤされた時代。食事に出掛けてもお金を払わずに済んだりして、遊んでしまいました」(森崎)

 ジェフを退団後は、旧JFL時代の水戸ホーリーホック、横河電機サッカー部(当時関東1部リーグ)にも籍を置いたが、23歳でスパイクを脱いだ。

「そこからは約10年中古車販売会社で働いていましたが、やっぱりサッカーが好きなんですよ。いまは子どもたちに楽しくサッカーを教えたいなと思って、千葉県内でサッカースクールなどを運営しています」(森崎)

 そして横浜マリノスほか、京都パープルサンガ、ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)、ベガルタ仙台と渡り歩き、Jリーグで200試合以上に出場した山田は、引退後、メロンパンの移動販売業、スポーツバー店長など、サッカーとは距離を置きさまざまな仕事をしてきたが、近年はサッカースクールのコーチとしても活動している。

 今年1月に記念すべき第100回大会の高校選手権が行なわれてから半年余り。今回はかつて高校サッカーの聖地とされた国立競技場を沸かせたレジェンド4人に集まってもらい、当時から現在に至るまでの話をたっぷりと語り合ってもらった。
(つづく)