日本女子バレー界のレジェンド
大林素子インタビュー(3)

(連載2:「サインがほしくて」出した手紙が招いた人生の転機。日立の練習に参加して「久美さんに睨まれました(笑)」>>)

 日本女子バレーボール元日本代表で、現在はタレントやスポーツキャスター、日本バレーボール協会の広報委員としても活躍する大林素子さんに、自身のバレー人生を振り返ってもらう短期連載。第3回は、八王子実践でのプレー、日立や全日本での練習について聞いた。


八王子実践で活躍し、全日本入りした大林さん photo by「バレーボールマガジン」

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――中学時代から実業団トップチームの日立で練習しつつ、1983年には東京の名門・八王子実践高校に進みましたね。

「日立の山田重雄監督にも進路を相談させていただいたんですが、堀越学園や、中田久美さんのように通信制など時間に融通がきく高校に進んで、日立でプレーするという案もありましたね。他には岡山の就実高校や大分の扇城高校(現東九州龍谷高等学校)なども勧められ、就実には泊りがけで見学にも行きました。

 中学3年時には身長が179cmになっていて、『日立でプレーしたら(1984年の)ロサンゼルス五輪にも間に合うかもしれない』と聞いて心が揺れましたが、自分の実力は自分が一番知っています。まだ五輪に出場するような力はない。悩んだ末に『学校で学びながら実力をつけて自信を持とう。それに高校は今しか行けない』と八王子実践を選びました。当時の八王子実践は三冠を達成した高校女子の最強チームでしたし、日立にもよく練習に来ていたので馴染みもありましたから。私の実家からも近かったこともありますね」

――八王子実践のバレー部の練習環境はいかがでしたか?

「バレー部は寮生活でした。当時の施設は、校舎と校舎の間にプレハブで作られた簡素なものでしたね。朝早く起きて、食事や掃除など身の回りのことをすべて自分たちでやらなければいけませんでした。バレー以外の人間形成やお料理、家事全般などいろいろなことをこの寮生活で学びました。一種の"花嫁修業"でもあったかもしれません(笑)。

 みんなで何かを成し遂げるために必要な、人を思いやること、コミュニケーション能力などもそこで身につけました。だから、八王子実践に進学した私の選択は間違ってなかったと、今でも思います。顧問の菊間崇祠先生(2012年に退任)に会えて、八王子実践のメンバーと生活をともにできた。厳しくて過酷な毎日でしたが、今となってはすべて楽しい思い出です。

 菊間先生は体調を崩されていますが、コロナ禍の前までは、同期のメンバーと一緒に先生のお宅に毎年お邪魔していました。また訪ねられる日を楽しみにしています」

国体の優勝インタビュー直前に「全日本入りが決まったよ」

――春高バレーやインターハイでは、常に優勝候補に挙げられながらあと一歩届かず。3年時の国体で悲願の優勝を果たします。

「1年の時にチームはインターハイで優勝しているんですが、私はまだレギュラーではなかったので、優勝の実感があまりなかったんです。1年時の春高には出られましたが、益子直美さんがいた共栄学園に敗れて3位。それまでは、共栄学園にセットを落とすこともなかったので悔しかったですね。

 当時の春高は2年生までしか出られなかったので、翌1985年の大会が最後のチャンスだったんですが、"雑草軍団" と言われた古川学園に決勝で負けました。それでも、3年時の最後の国体でようやく日本一になれて、菊間先生に恩返しができた。その優勝インタビューに向かう前に、菊間先生から『おめでとう、全日本入りが決まったよ』と伝えられたんです」

――高校生で全日本入りを果たした時の気持ちを覚えていますか?

「実は、その1年前にも話はいただいていたんです。でも、当時は『高校生は最終学年まで学業に専念する』という雰囲気があって......菊間先生は『どんどん行ってこい!』とおっしゃってくださったんですが、実現できませんでした。すごく悔しかったですね。

 そんな経緯があったので、ようやく全日本に入ることができて感無量でした。その年はジュニア世界選手権に出場してから、日本で行なわれるワールドカップへの転戦でした。ワールドカップはバレー3大大会のひとつですし、日本戦はすべて地上波での放映がありましたから注目度も高く、それに出られることにワクワクしていました。中学生の頃、テレビで花輪晴彦さんや広瀬美代子さん、江上由美さん見て胸をときめかせ、下敷きに切り抜きを入れていたくらいでしたから」

――ワールドカップでのプレーはいかがでしたか?

「初戦でスタメンに選ばれたんですが、『私がスタートでいいのだろうか』と遠慮する気持ちが少し出てしまって。当時はワールドカップの前にもたくさん国際大会があったので、全日本デビューは済ませていたんですけど、国内で、しかも3大大会のデビュー戦は夢のスタメンとなりましたが、世界のすごさを感じた大会となりました。

 大会後に、山田先生から『素子、お疲れさま。次は日立で頑張ろう』と声をかけていただけたのが嬉しかったです。当時は『日立の選手たち=全日本のメンバー』という時代でしたし、そんなチームでプレーできたことは、自分がもうひとつ深いバレー人生に進んでいく第一歩になったと思います」

「データバレー」と緊張感が続く練習

――日立を率いた山田監督は、現在のように分析ソフトがないなかでも「データバレー」をされていたそうですね。

「今でこそ『データバレー』というと、女子バレー日本代表の監督に再任した眞鍋政義さん(2012年ロンドン五輪で銅メダルを獲得)の印象が強いですが、『データバレー』を始めたのは山田先生だと思います。当時はノートパソコンもありませんから、試合を記録しているVHSや8ミリビデオの映像をテレビの画面で流し、ひとコマずつ止めながら、用紙にデータを書き込んでいきました。スパイクのコース、フォーム、助走の入り方、トスの長さ、高さといったことを全部手書きで。

 控えの選手やスタッフも含めて徹夜して分析しましたね。1988年のソウル五輪の時にも、日立の全選手とコーチ全員が、分析、練習要員として帯同しています。そうして集めた緻密なデータを基に相手を研究したり、自分たちのプレーの振り返りをしたり。

 練習では、『この選手はこのコースに打ってくる』とコートに付箋を貼るなど、いろんな方法を実践しました。山田先生のアイディアは、本当に誰も考えつかないようなものばかり。そんな才能あふれる方だったからこそ、国際大会で多くの金メダルを獲得できたんだと思います」

――山田監督は全日本女子の指揮も執っていましたね。

「今では、休みとトレーニングのバランスやタイミングもしっかり計算したうえで体作りをするのが当たり前です。でも、当時は何日トレーニングして、何日休んだら効率的に疲労を回復できるかという理論も確立されていませんでしたから、ほぼ毎日練習していました。外泊ができるようなお休みは5月の黒鷲旗大会が終わってからの4、5日のみでしたね」

――具体的なメニューを覚えていますか?

「一例ですが、朝6時50分から朝練で、レギュラーの6人は体育館でサーブを100本打ったあとに、サーブレシーブをやります。セッターの位置にかごを置いて、2本連続でボールをそこに入れる。ひとつのローテで全員が2本連続で成功したら1ローテ回る、という形で、それが5周成功するまで朝練は終わりません。

 サーブの打つのは大学、大学院生の男子コーチたち。現在、国際武道大学バレー部の監督を務めている徳永文利さんや、元FC東京の総監督の吉田清司さん(今季から東京グレートベアーズのハイパフォーマンスアドバイザー)などが本気で打ってきましたから、なかなか終わらない時もありましたね。

 それが7時50分、8時ぐらいに終わったあとは床を雑巾がけ。それもトレーニングの一環でした。そこで朝練は終了です。その間、セッターはずっとひとりでトスの練習、レギュラー以外の選手は外でランニングやダッシュトレーニングなど、別メニューでした」

――朝からなかなかハードですね。そのあとは?

「朝練後に食事をとったあと、ミーティングのあとに全体練習が始まります。ただ、その日の練習はミーティングで発表されるまでわからないんです。ミーティングなしで『このメニューをやるぞ』とすぐに練習が始まる時もありましたが、そのメニューは毎日違っていました。

 だから、『今日は何やるの?』という緊張感がずっと続くんですよ。対人パス練習なんかも、ペアはもちろん変えるし、パスする場所も体育館の中で変えていた。決まったメニューや環境に慣れてしまうと"流れ作業"のようになってしまうことがあるので、山田先生はそれを嫌っていました。

 やることを固めすぎてしまうと、大会などいつもと違った環境で試合をすることが"特別"になってしまう。どんな環境で試合をしても、いつもどおりのプレーできることがベストですから、その意識づけという意味でもメニューや場所を常に変えていたんです。ただ、私がその意図を理解したのは、だいぶあとになってからでしたけどね」

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