私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第18回
W杯出場という夢を目前で逃した男の選択〜田中誠(3)

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 ドイツW杯初戦のオーストラリア戦、日本は先制したものの、後半に入ると、敵の知将フース・ヒディンクの戦略的な選手交代によって徐々に追い込まれていった。

 ジーコは後半34分にMF小野伸二を投入し、反撃を試みた。

 日本に帰国して同ゲームをテレビで見ていた田中誠は、修正点が違うのではないかと感じていた。

「ジーコさんには、伸二を入れて攻撃的にいって流れを変えようという意図があったと思うんです。でも、その時にすべきことは守備の修正だったと思うんですよ。(後半39分のティム・)ケーヒルの同点ゴールは不運な部分がありましたけど、そのあとはカウンターを受けて中央から攻められていたので、あそこはイナ(稲本潤一)を入れたほうがよかった。

 結局、前がかりになって中盤が薄くなり、防ぐべきところを防がないでいたので、さらに失点を重ねてしまった」

 日本は後半39分に同点ゴールを奪われると、立て続けに失点を重ねて大事な初戦を落としてしまった。


初戦のオーストラリア戦で逆転負けを喫した日本代表。photo by Jun Tsukida/AFLO SPORT

 絶対に負けてはいけない相手に敗れたことで、チーム内は不穏な空気に包まれた。レギュラー組とサブ組の間には見えない壁が生まれ、チームは"ダッチロール"に陥り始めていた。

「自分もそうだったんですけど、30歳にもなると尖っていた面も丸くなって全体が見えてくる。でも、25歳前後の選手は全盛期バリバリで『自分がやるんだ』という気持ちが強い。表には出さなくても、サブに置かれたら『ふざけんなよ』っていう気持ちはあったと思うんですよ。

 実際、紅白戦ではサブ組はレギュラー組を『負かしてやる』という気持ちで激しくプレーしてくるし、レギュラー組は(結果だけでなく)内容も考えながらプレーしないといけないので、負けてしまうこともある。そうなると、サブの選手は『オレらのほうがいいのに、何で使わないんだ』ってなる。

 でも、なかなかチャンスを与えてもらえない。フラストレーションは相当たまっていたと思うけど、それを表に出すと『輪を乱した』と言われてしまう。みんな、難しい状況に置かれていたと思います」

 田中は大会直前までチームに帯同していただけに、チーム内の事情をよく理解していた。メディアなどを通して聞こえてくる不協和音の声は、ある程度想像がつくものだった。

 続くクロアチア戦、日本はそれまでの3バックから4バックに変更して臨んだが、0−0のドローに終わり、結果を出すことはできなかった。

 グループリーグの最後は、ブラジル戦。勝てば予選突破の可能性もあったが、田中はブラジルの強さをよく知っていた。

「ブラジルとは(1996年の)アトランタ五輪の時に対戦して勝ちましたけど、ブラジルの凄さを肌で感じました。ブラジルは80%ぐらいの出力だったけど、自分たちは120%で対応しないといけなかった。

(ドイツW杯前年の)コンフェデレーションズカップでもブラジル(2−2の引き分け)とやったけど、圧倒的にうまくてプレースピードが速かった。それは、経験しないとわからない。W杯でブラジルと本気で戦えるのは羨ましいなと思ったけど、五輪とはいえ本気になった時のブラジルを知っていたので、怖さもありました」

 迎えたブラジル戦、日本が玉田圭司のゴールで先制した。だが、それが巨象を眠りから覚ます結果となり、前半終了間際に追いつかれたあとは、ボコボコにされて1−4で敗れた。

 2002年日韓W杯でベスト16入りしたことによって、大きな期待を背負っていた日本だったが、グループリーグを1分2敗の最下位。1勝もできずにW杯敗退が決まった。

「2002年日韓W杯を経て日本の選手レベルは上がったと思うし、ドイツW杯でも大会前は世界ともある程度戦えるだろうなと思っていました。でも実際は、W杯で世界とガチで戦うと、まだ大きな差があった。

 それに、当時の日本サッカーはどこを向いていくのかすごく曖昧で、日本に合ったスタイルも確立できていなかった。それは今もそうかもしれないですけど、ドイツW杯の頃の日本サッカー界は楽観的で、ちょっとぬるかったかもしれません」

 W杯後、しばらくしてキャプテンの宮本恒靖は「マコがいてくれたら、チームはもっとまとまっていけたと思う」と田中不在の影響の大きさを語った。田中も日本代表が不本意な結果に終わったことについて、自らの責任を感じていた。

「ツネはキャプテンで、チーム全体のことはもちろん、試合に出る面々を(チームとして)どうやってまとめていくか、常に考えていかなければいけない存在だった。だから、ヒデ(中田英寿)や自分よりも下の世代と話ができる僕にいてほしかったんだと思います。そこは、力になれず申し訳なかったですね」

 大会中、チーム内で孤立を深めていた中田はブラジル戦後、現役引退を発表した。

「(中田の引退には)びっくりしました。年齢的にはまだまだやれましたからね。でも、ヒデはドイツの時、ずっとやりにくさとかを感じていたと思うんです。あの時のチームには、仲のいいゾノ(前園真聖)とか、(日韓W杯の時の)ゴンさん(中山雅史)みたいに気を配ってくれる年上の選手もいなくて、孤立してしまって。

 基本的にヒデはイジられるのが好きじゃない。ゴンさんもヒデと話をする時は気を遣っていて、年上の人でもヒデはイジれない存在なんだなというのは理解していました。それでも、僕らはユースの頃から知っているので、よくイジっていた。そういうのがイヤだったので、僕らともちょっと距離をとっていたのかもしれないですね」

 大会後、W杯メンバーである福西崇史らが所属のジュビロ磐田に戻ってきた。大会中の代表チームについて話を聞くと、「マコが帰ってからが大変だったよ」と言われた。おおよそ察しがついていたため、それ以上のことは聞かなかった。田中のなかでは、ドイツW杯のことはすでに区切りをつけ、次へと動き出していたからだ。

「自分のなかでは、4年後の南アフリカW杯を目指そうと思っていました。もちろん年齢的には厳しくなりますが、自分の目標はW杯の舞台に立つことだったので、まずは代表に入るところに新たな目標を設定して、再スタートをきりました」

 日本代表の新監督にはイビチャ・オシムが就任。選手は一新された。オシムの戦術を知る選手が多数代表入りし、ジーコの時とはまったく異なるチームになった。田中も「調子が上がりきらず、パフォーマンスもよくなかった」ということもあって、以降、日本代表に招集されることはなかった。

 しばらくして、田中は大きな転機を迎える。南アフリカW杯の前年、1994年から15年間プレーしてきたジュビロから去ることを決めたのである。

「自分のなかでは、(最後は)ジュビロで引退することを決めていました。試合に出られず、年俸が下がっても『ジュビロのために』って思っていたんですが、そんなに甘い世界ではなかったですね。自分がいくらクラブに対して愛情を持っていたとしても、ダメになるとスパッときられるのが現実。改めてプロの厳しさを思い知らされました」

 ジュビロからはスタッフとしての契約を打診された。だが、田中はそれを断ってアビスパ福岡への移籍を決めた。

「まだ体が動いたので、動かなくなるまでやりたいと思ったんです。サッカー選手として、最後の花を咲かせたい、と。指導者になるのは、そのあとでも遅くないですから。でも、環境が変わり、初めて一緒にやる選手も多くて、そう簡単ではなかったですね」

 福岡に移籍して2年目、2010年シーズンにはチームのJ1昇格に貢献した。ただ、そんなシーズンですら、田中は自らの存在価値について自問自答することが増えたという。せっかくJ1に昇格した2011年シーズン、田中は大きな決断を下した。

「シーズンの早い段階で、『今年で(現役を)やめます』とクラブに伝えました。引退の理由は、もうサッカー選手としての価値が上がっていかないと感じたからです。カテゴリーを下げればやれないこともないですけど、そこで身を粉にして頑張っても、自分の価値が上がるわけでもないですし、家族もいましたからね。

 それなら、指導者としての価値を高めていきたいと思い、やめようと思いました。最後の1年は子どもたちの前でプレーする姿も見せられましたし、悔いなくやることができました」

 現役引退後、解説者やサッカースクールのコーチをこなしたあと、2015年からジュビロのU−18監督に就任。2017年にはトップチームのコーチとなった。現在は、スカウティング担当として日々奔走している。

「関東を中心に、いろいろ見て回っています。日本の選手で今、世界で本当に活躍しているのは、冨安(健洋)、遠藤(航)ぐらいでしょうか。ベルギーやオランダからステップアップしているかというと、そうでもない。日本選手のレベルは上がっているけど、まだ世界のなかでも物足りない。

 そういった状況のなか、光るものを持っている選手を探して、ジュビロで成長してもらって、世界に通用する選手にする――それが、今の自分の最大の目標です」

(文中敬称略/おわり)

田中 誠(たなか・まこと)
1975年8月8日生まれ。静岡県出身。名門・清水商高(現・清水桜が丘高)3年時に全国制覇を果たし、卒業後、ジュビロ磐田入り。「黄金期」を築いた主軸のひとりで、守備の要として長年活躍した。世代別代表でも奮闘し、1996年アトランタ五輪に出場。その後、ジーコ監督率いる日本代表ではレギュラーに定着し、W杯出場に貢献した。しかし、2006年ドイツW杯直前に負傷。本大会出場は叶わなかった。現役引退後はジュビロのコーチなどを務め、現在は同クラブのスカウティングを担当している。