私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第18回
W杯出場という夢を目前で逃した男の選択〜田中誠(2)

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 2006年ドイツW杯を前にして、日本代表の選手も、日本中のファンも「やれる」という期待に満ち溢れていた。だが、戦い方を巡ってはチーム内でギクシャクしていた。

 その最中、思わぬ"事故"が起こった。

 チームがドイツ入りした時、現地はまるで冬のような寒さだった。それが、大会目前に気温が上昇。選手たちは慎重にコンディション調整をしていた。

"その日"も暑くなったが、田中誠は体温調節のためにウインドブレーカーを着て練習をしていた。そして、体温が上がり、水分もとらずにプレーしていた時だった。左足のヒザ裏の辺りを伸ばした感覚があった。

「あっ『やったな』と思いましたね。ピリピリ感があったので、『これはヤバイな』と」

 田中は練習を途中で切り上げて、すぐに病院に向かった。検査の結果、左足太もも裏の肉離れ。重症ではなかったものの、出血しており、しばらく安静と治療が必要と診断された。

 検査結果はすぐに指揮官のジーコにも伝えられ、田中は監督の部屋に呼ばれた。

「検査結果を聞いた。戦えないならチームとしては戦える選手が必要なので、(誰かと)入れ替える。マコはこのまま(チームに)残ってもいいし、日本に帰ってもいい」

 ジーコは、ストレートにそう言った。

 田中はその"ボール"を投げ返すように、「帰ります」と即答した。

「肉離れは経験したことがあって、(元に)戻るには10日ぐらい必要なんです。それまで(チームに帯同して)粘って練習をしていても、60%前後(の出来)でしかできないし、『やれる』という確信もなかった。自分の意地や目標よりも、『チームに迷惑をかけたくない』っていう気持ちが強かったので、すぐに(チームを離れることを)決めました」

 田中は"控え"というポジションではなく、主力組だった。チームにとって必要な選手であることを思えば、ジーコの判断はあまりにも早急すぎるような気がする。主力であれば、できる範囲で調整を重ねながら、最後まで出場できる可能性を模索していく道もあったはずだ。

「確かに、ジーコさんの判断はちょっと早いんじゃないかって思いました。普通なら、もうちょっと様子を見るんじゃないかって......。でもジーコさんは、人間性よりもサッカーのパフォーマンスを重視していました。W杯で勝つためには、チームとして戦える駒をひとつでも多く持っておきたかったのではないでしょうか」

 初戦は難しくとも、グループリーグは3試合ある。勝ち上がれば、さらに試合数は増える。田中にとって、W杯は夢の舞台のはずだ。ましてや、メンバー入りを果たしてドイツにいるのだ。冷静に考えて、「少し考えさせてください」「時間をください」とは言えなかったのだろうか。

「『できる』と言って(復帰)できなかった場合のことを考えたんです。万が一再発して、やっぱり『できません』となったら最悪ですし、(自分のせいで)メンバーがひとり減るのも嫌だった。だったら、新しいメンバーを入れたほうがいい。

 自分は負けず嫌いだし、一度スイッチが入るとやるんですけど、ピッチから離れると、そこまでやれる自信を抱けないというか、大口は叩けない。(その時も)冷静に考えて、『厳しいな』と思っての判断でした」

 2002年日韓大会では、中山雅史や秋田豊はチームのために黒子に徹して盛り上げ役を果たし、日本のW杯初の決勝トーナメント進出に貢献した。田中も、ジーコに「残ってもいい」と言われたのであれば、そういったチームのサポート役を担う選択肢もあったのではないだろうか。

「それは、まったく考えなかったです。(チームに残って)イジられるのならいいんですけど、チームでは年齢的に上のほうでしたし、状況が状況ですから『大丈夫ですか』って、気を遣われるのが嫌だった。みんなに迷惑をかけたくないし、みんなには試合に集中してほしかった。試合に勝つためには、戦えない選手がいるよりも戦える選手がいるほうが絶対にチームのためになるんです」

 その夜、田中は宮本恒靖らに「帰ることになった」と伝えた。宮本は絶句し、「残ればええやん」と強く慰留してきた。

 しかし田中は、「みんなに迷惑をかけたくないんで帰る」と冷静に伝え、自らの決断を覆すことはなかった。宮本はその決意を受け入れたものの、がっかりした表情を見せた。

 日本にいる家族には、食事をしたあと、部屋に戻ってから連絡した。田中は妻に「帰るよ」と言った。妻には「いればいいじゃん」と言われたが、「もう決めたことだから」と伝えた。

「何もできない自分が図々しくチームに残ることはできなかったんで。そういうことも伝えて、最後には嫁も僕の頑固さを知っているので、それ以上は何も言わなかったですね」

 家族はドイツ行きの準備をしており、試合観戦を楽しみにしていたが、すべてキャンセルすることになった。電話を終えたあと、田中はひとり、部屋のなかで静かに泣いた。

 ドイツを離れる日、田中はチームメイトの前で挨拶をした。

「僕はここで帰りますけど、みんなの予選突破を祈っています」

 土肥洋一や中田浩二らに、「残念です」と声を掛けられた。他の選手たちも田中の気持ちが痛いほどわかるだけに、何とも言えない表情で見送った。

「大会の開幕直前に離脱して帰るので、みんな、声をかけづらいんだろうなって思いました。自分もそう簡単には(気持ちを)切り替えられなかったです。ただ、帰りの飛行機はファーストクラスに乗せてもらって、『すげぇ(席だ)な』ってちょっと興奮しました(笑)」


W杯本番を目前にして、負傷のためにチームを離れて帰国した田中誠。photo by Kyodo News

 W杯出場は、田中にとって最大の目標であり、達成できるところまできていた。だが、達成目前にして、それを逃した。帰国を決めてから、いろいろなことが頭のなかで浮かんで、ほとんど眠れなかった。

「2002年の日韓W杯の時は、メンバー発表の前にはケガをしていて、選ばれる可能性もなかったんですけど、ドイツの時はメンバー入りして、現地にもいましたからね。あともうちょっとで始まるぞっていうタイミングで離脱してしまった。たぶん歴代の代表を見ても、メンバー入りしてから(チームから)いなくなるのは僕だけだと思うんです。『ツイてないな』『W杯に縁がないな』『自分はそういう星のもとの運命なんだな』って思いました」

 帰国後、傷心の田中は友人の安永聡太郎の家族と旅行に出かけた。宿泊先のテレビでは日本代表のW杯初戦、オーストラリア戦が放送されていた。安永は笑顔で、「マコ、本当はここにいたのになぁ。もったいないよなぁ」とイジってくれた。それが、田中にはうれしかった。

 試合は、中村俊輔のゴールで先制した日本が優位にゲームを進めていた。だが後半11分、坪井慶介が足を痙攣し、田中の代わりに追加招集された茂庭照幸と交代。日本の雲行きが徐々に怪しくなっていった。

「その時、自分がいればって思いましたけど、あとの祭りでした(苦笑)。センターバックが途中から入ることはなかなかないですし、それもW杯の、しかも緊迫した状況での途中出場。茂庭はかなり大変だったと思います」

 後半34分、ジーコは流れを引き戻そうとして、FW柳沢敦に代えてMF小野伸二を投入した。しかし流れが変わることなく、日本の劣勢は続いた。

「ジーコさんの選手交代って、どちらかというと攻撃的な交代が多かった。この時もそうだったのですが、個人的には『今は守備的な選手を入れたほうがいいんじゃないか?』と思って見ていました」

 田中の不安は的中し、日本はさらに厳しい状況に追い込まれていった。

(文中敬称略/つづく)

田中 誠(たなか・まこと)
1975年8月8日生まれ。静岡県出身。名門・清水商高(現・清水桜が丘高)3年時に全国制覇を果たし、卒業後、ジュビロ磐田入り。「黄金期」を築いた主軸のひとりで、守備の要として長年活躍した。世代別代表でも奮闘し、1996年アトランタ五輪に出場。その後、ジーコ監督率いる日本代表ではレギュラーに定着し、W杯出場に貢献した。しかし、2006年ドイツW杯直前に負傷。本大会出場は叶わなかった。現役引退後はジュビロのコーチなどを務め、現在は同クラブのスカウティングを担当している。