※この記事は2021年08月16日にBLOGOSで公開されたものです

元経産省官僚の宇佐美典也さんに「私が○○を××な理由」を、参考になる書籍を紹介しながら綴ってもらう連載。第15回のテーマは、日本における「氏名」の常識について。今とはかけ離れていた江戸時代の「名前」がなぜ現在の形に変化したのか、その背景を辿るとともに、現在夫婦別姓議論をめぐって見られる「日本古来の名前の伝統」という表現について考えます。

私が夫婦別姓の議論は明治維新以来の「名前の革命」につながると思う理由

現代の日本では「姓(氏)」があって「名」があって合わせて「名前」となる、というのは当たり前の常識になっている。

私で言えば当然の如く「宇佐美(うさみ)」が姓で「典也(のりや)」が名で、姓は家族と同じくし、名は親からつけられ原則一生涯変わらない、ということになるのだが、これが当たり前になったのは明治維新以来のことである。

江戸後期から明治初期にかけての「名前」の変化について詳細に解説した「氏名の誕生―江戸時代の名前はなぜ消えたのか」(尾脇秀和著)を読むと、明治維新までの日本には現在と全く異なる名前の常識が存在していたことが分かる。

大隈重信は「大隈八太郎」だった江戸時代

元内閣総理大臣で早稲田大学創始者としても名高い明治維新期の偉人・大隈重信公の江戸時代のフルネームは以下のようなものだった。

「① 大隈 ②八太郎 ③菅原 ④朝臣(あそん) ⑤重信」

それぞれ①~⑤の部位には①苗字、②通称、③本姓、④カバネ、⑤実名(または名乗)、という名称がある。現代では当たり前とされている「大隈重信」というのは「①苗字+⑤実名」に当たるわけだが、それはあくまで現代の常識で、江戸時代は「①苗字+②通称」が名前とされていた。つまり「大隈重信」は「大隈八太郎」というわけだ。

なおすべからく庶民が設定していたのは②通称のみで、他の部分は設定していない人も多く、①苗字を設定していない場合は通称のみで「百姓何兵衛」というように名乗っていた。特に④カバネは爵位のようなもので、持たない者がほとんどであったので以後議論から省略する。

一番重要な②通称には官名を当てるケースも多く、例えば水野忠邦の場合は

「① 水野 ②越前守(えちぜんのかみ) ③源 ⑤忠邦」

という具合で彼の場合、当時は「水野越前守」が名前だったということになる。現代の常識で捉えると「水野忠邦」が名前で「水野越前守」と呼ばれていたように勘違いしがちだが、そういうわけではなく、「水野越前守」がまさしく当時の彼の名前であった。

ちなみに「越前守」というのは本来、「越前国の地方長官」を意味するが、もはやそうした意味は形骸化しており、単なる格式を表す指標にしかなっていなかったらしい。名奉行として名高い「大岡越前守忠相」の場合も同様である。ただこれは、名前を聞いただけで大体その人がどれくらい偉いか分かる、という意味で実利を兼ねていた面もあった。

実体を伴わない名前の横行 政府が動く

そんなわけで江戸時代は「①苗字+②通称」が名前とされており、大隈重信は大隈八太郎であったわけだが、この通称に実体の伴ってない官名を当てるような事例が非常に多かった。先ほど例を挙げた越前守は正式な官名で、これを通称に用いるには朝廷の許可を得なければならなかったのだが、何の権利もなく官位を織り交ぜる行為は広く一般化していた。

例えば「石川五右衛門」や「大石内蔵助」で知られる「右衛門」「内蔵助」のような名前も、古い官名を朝廷の許可を得ずに勝手に通称に用いて一般化したものだという。先ほどあげた「百姓何兵衛」の「兵衛」も古い官位名である。

なんでこんな具合に実体のない官位を名前に用いるような行為が社会的にまかり通っていたかというと、それは朝廷の権威が地に落ちていたからである。これが明治になって朝廷の権威が復興してくると、朝廷の権威を対外的に示すためにも、この実体と名前の乖離が問題化してくる。そうすると当時当たり前になっていた「①苗字+②通称」という名前の形式のあり方をそのまま放置しておくわけにはいかなくなってきて、政府が名前のあり方に色々と口を出してくるようになる。

その過程でさまざまな混乱があったのだが、ここで存在が注目されたのはそれまでは書状のサインや朝廷での叙任儀式でしか用いられることはなかった「⑤実名(または名乗)」、大隈公で言えば「重信」の部位であった。ちなみに朝廷での叙任儀式は「③本姓+⑤実名(または名乗)」を用いており、これは一般常識とは隔絶された公卿にとっての名前であった。

大隈公の場合は「菅原重信」ということになり、ごく一時はこれが正式な名前とされた。公卿は一生懸命この「③本姓+⑤実名(または名乗)」の組み合わせを名前として復活させようとしたのだが、朝廷とは縁遠い庶民はそもそも本姓を設定していない人がほとんどで、また、従来の「①苗字+②通称」とかけ離れ過ぎているということでこの運動は頓挫することになる。

1871年、現在につながる「苗字+実名」の新常識が誕生

結果として通称を使わせなければ官位と実体の不一致は解消されることになるので、現代における「①苗字+⑤実名」という形式が明治4(1871)年10月12日に正式採用されることになった。この背景には政府による国民管理のため、ひいては徴兵制の円滑な実行に向けて戸籍整備を進めていたという事情がある。

明治政府は明治5(1872)年に戸籍法の施行を控えており、どうしても1871年中に名前を巡る混乱を収拾させなければいけなかったのだ。国民をすべて戸籍で管理するには名前をシンプルな形で一人一名に統一する必要があり、「①苗字+⑤実名」という形に落ち着けざるを得なかったのだろう。

この流れを強化するため明治5(1872)年の8月24日には改名禁止令が出される。「名前は自分で設定するもので通称はしばしば変更される」という江戸の常識はここで終わりを告げる。ただしこの時点でもそもそも苗字を持たない国民は多かった。

一方徴兵令は戸籍整備に続き、明治6(1873)年に施行されたが、人々は徴兵という新たな負担を忌避し、初回の徴兵では徴兵対象者の80%が兵役から逃れたという。これは戸籍による国民の氏名の管理が不徹底だった面が大きく、陸軍卿の山縣有朋は明治8(1875)年1月14日に徴兵事務の都合から平民に苗字を必ず名乗らせることが必要だと建議し、同年2月13日に苗字強制令が布告される。

この時地方の百姓などは先祖伝来の苗字を登録することが多かったが、都市部の住民はそもそも苗字を持たない者が多かったので慌てて適当に苗字を自己設定していくことになった。こうして現代日本の「人間には唯一絶対の姓名によって構成される本名があり、それが生涯を通じて改名されることは戸籍の移動に伴う姓の変更を除けばほとんどない」という常識が確立する。明治維新はこのように「名前の革命」でもあったわけであるが、それは朝廷の権威の復興と徴兵制徹底のための国民管理という統治側の事情が複雑に交叉しつつ、実務的に進められたもので、古来の伝統に基づくものとはとても言えない。

夫婦別姓議論で見られる「日本古来の伝統」はあるのか

さて私がなんでこんな名前の歴史を調べたかというと「夫婦別姓」を巡って議論される「我が国の姓名の伝統」というものについて知りたかったからなのだが、これまで見てきたように「日本は古来苗字を大事にしてきた」だとか「名は親から子へ与えられる」だとかいった話は明治以降150年程度の伝統に過ぎない。150年続けば立派な伝統の一つと言えるのだが、その前にはまたその前の「伝統」があったわけで、唯一無二の古来の伝統というものがこの国にあるというわけではないのである。

なお女性名に関してはここまで見てきた当主の名前とは少々事情が違い「百姓儀右衛門女房 きた」だとか「諏訪右衛門娘 きた」だとか言った具合に当主との関係と実名をセットとして名前としていたようで、「婚姻によって苗字が変わる、変わらない」とかいった観点はそもそもそこにはない。

こうした我々の常識とは必ずしも合致しない名前を巡る歴史、事情はこれまであまり公の場で掘り下げられる機会はなかったわけだが、夫婦別姓の議論が今後白熱してくる過程で徐々に明らかになってくるだろうと思う。その結果として今の常識とは異なる「名前の革命」というものが起きる可能性というのは十分にあるだろう。

例えばマイナンバーに基づく国民管理というものが徹底されたら、国としてはもはや生涯一氏名に固執する事情はなくなるわけだから、改名が比較的自由に行えるような時代がくるかもしれないし、それに国民の意識変化が伴えば江戸時代のように苗字に対するこだわりというものがなくなっていくのかもしれない。ただ明治維新の時と違うのは、新しい名前の常識は上から決められるものではなく、国民が議論する中で形作られていくということだ。

そういう民主主義的、文化的な名前の革命というものを個人的に楽しみにしている。
とりあえず冒頭に紹介した「氏名の誕生―江戸時代の名前はなぜ消えたのか」は丁寧に歴史的文献にあたって名前の歴史をおった、我々の名前に関する常識が打ち砕かれる良書なので、興味のある方はご一読をお勧めする。いやこの本、本当にすごいよ。

【今月の推薦図書】

氏名の誕生 ――江戸時代の名前はなぜ消えたのか (ちくま新書) 新書 - 2021/4/8
尾脇 秀和 (著)