※この記事は2018年05月04日にBLOGOSで公開されたものです

銀座の老舗洋菓子店が“炎上覚悟”と前置きしツイッターに投稿した内容が議論を呼んでいます。ことの発端は4月25日の下記ツイートでした。


老舗の覚悟が共感を呼んだこともあり、このツイートへの反応は大半が肯定的なもので占められていました。同店は続けてこのようにツイートしています。



これにてこの話題は収束したかと思われた5日後の5月1日、同店のツイッターに下記のツイートが投稿されました。

本日、障害をお持ちのお子様とご来店されたお客様より謝罪のメールを頂戴しショックを受けました。親御様の気持ち次第で制御可能なお子様連れの問題と、障害をお持ちの方のケースとは全く次元の違う問題で周りのお客様にもご理解頂けると考えます。今後とも引き続きご利用頂きたくお願い申し上げます。

これは難しい話になってしまったなーと感じました。
ツイッターでは、“子どもは親の気持ち次第で制御可能”という考え方に違和感を抱いた人や、そもそも“制御”という言葉のチョイスに怒る人、また“障害があれば制御不可能だから受け入れる”ともとれる主張に差別意識を感じた人など、一度目のツイートに比べて、反発の声も多く上がってしまいました。この一連の投稿について考えてみたいと思います。

“制御”することについて

まず「制御」という言葉の選択について。
辞書では「制御」という言葉の意味は”自由勝手にふるまわせず、おさえつけて自分の思うように支配すること”とあります。「制御」という言葉に違和感を持った人は、特にこの後半部分に違うと感じたのではないでしょうか。親とは言え、子どもを自分の思うように支配してはいけませんので、すべての子どもは、親の気持ち次第で“制御不可”です。

だけど、個人的にはこの言葉の選択について目くじら立てても仕方がないと思っています。なぜかというと、これは中の人がただ言葉を誤用してしまっただけだと思うからです。考えを表現する最適な言葉を選ぶことって、簡単なようで極めて難しいことです。

前のツイート“就学前とおぼしきお子様がアイスクリームの器を前にきちんと足を揃え、少し緊張してお座りになっているのは微笑ましいものです。こんな素敵なお客様を締め出す事は出来ません。”などを拝見すると、この中の方の子どもに対する暖かな眼差しを感じます。子どもに人権がないと思っている人であれば少なくとも“お子様”、“お座りになっている”などの言葉を使うこともないような気もします。ですから「制御」という言葉に中の方の考えがそのまま反映されているとは、私は思いません。

では中の人は“制御”という言葉を使って本当は何を言いたかったかというと、主に辞書の解説の前半部分“自由勝手にふるまわせず”というところだと思います。“言って分かる子”とその親に対して要求しているんですよ、ということを明確にしたかったのではないかと思います。

ところが“障害のある子どもについては別次元の問題”としてしまったことで、じゃあ障害がある子どもは言って分からない子どもなのか、という話になってしまった。

お客さんが担う役割

私は今回の中の人の投稿の真意が「マナーの悪い子どもとその親には来てほしくないが、障害者であればその限りではない」という意味では決してないと思います。そうではなく、中の人が本当に言いたかったことはつまり、こういうことじゃないかと思うんです。

“この店では、お客さんが過ごす時間と空間に価値がある。だからこそお客さんと言えども、その価値ある時間と空間を、ともに作る協力者であってほしい”

今回の一連の投稿は、このための“お願い”だったのではないかと思います。そして障害の有無や大人・子どもに関わらず、その意識さえ共有できれば、みんなを歓迎します、ということであったのではないかと思うんです。

そもそも、自分の店をどんな店にするかはオーナーが決めて良いことですし、その店を選ぶかどうかはお客が決めて良いことです。今回の菓子店について言えば、恐らくお店の方はお菓子の味のみならず、銀座という立地で長く続けてきたという歴史にも誇りを持っていらっしゃるのでしょう。

ツイートに寄せられているコメントを見ると、お客さんの方もやはり、味のみならずその店の醸し出す雰囲気を好む人が多いようです。であればこそお客だって、そのお気に入りの店の雰囲気を維持できるような振る舞いをしようと思うべきではないでしょうか。

もちろん、自分はたかだかお客に過ぎないのだから勝手に協力者に仕立て上げられるのは迷惑と思う人もいると思います。たとえば小さい子供がいるとか、もっと気ままにくつろぎたいとか。そういう人はそういう気持ちのまま居心地が良くなれる場所がほかにもたくさんあります。そんな風に、お店の種類と自分のニーズを上手にマッチさせると良いと思います。

私たちは個であり、全体の一部である

それにしても、店と客とか、プラットフォームとユーザーとか、政治と市民とか。この、個人もしくは家族という最小単位と、その外側にある社会との関係について、最近よく考えます。小さい個人である私たちは、実は思ったよりしっかりと社会の歯車の一部として組み込まれていて、私達の言動が、社会に対して案外大きな影響力を及ぼすことがあるものの、多くの人がそのことに無自覚なのではないかなと思うのです。

たしかに、選挙の投票で自分の一票が確実に効いた!と感じたことは今まで一度もありません。しかし、たとえば老舗喫茶店での自分一人の振る舞いや、ツイッターの中での自分のツイート、リツイートなど。たとえ自分がインフルエンサーでなくとも、案外大きな影響力を持っているように思うのです。

参考までに、佐々木俊尚さんの書かれた『広く弱くつながって生きる』(幻冬舎新書)には、村上春樹氏がエルサレム賞を受賞した際の「壁と卵」と言われる記念講演を例に、公と私の関係について次のように書かれています。

“(※講演の内容を)簡単に言うと、システムというのは壁であり、卵をぶつければ割れて落ちます。壁と卵のどちら側に立つかというと、自分は一貫して卵の側に立ちたいという内容です。
私はその考え方には反対で、そもそもシステム=壁を作っているのは私達です。

…一部省略…

戦後の日本は、権力の圧倒的な強さに弱い個人が対抗しているイメージでした。しかし、21世紀は私達がシステムを作り、そのシステムが私達を支える社会です。壁と卵という二元論ではなく、政府も権力も私達に内在しているという考え方に転換する必要があるのではないでしょうか”

壁に卵をなげつける人ではなくて、政府も権力も私達に内在している。
こういった視点でもって私達個人が日頃の振る舞いを見直してみると、一見些細なことに見えも、案外大きな変化が生まれたりするのではないかと思います。

多くの親御さんは迷惑をかけたくないと思っている

最後に、一つだけ付け加えさせてください。私はウーマンエキサイトというウェブメディアとともに「泣いてもいいよステッカープロジェクト」というものを実施しています。これは公共の場所で連れていた赤ちゃんが泣いてしまい“早く泣き止ませなくては周りに迷惑をかけてしまう”と慌てるお父さん、お母さんに“慌てなくても大丈夫ですよ”という気持ちを伝えるステッカーです。

ニッコリ笑って声を掛けてあげられたら一番いいけれど、その勇気が出ないという人も少なくないと思います。そういう人がこのステッカーをスマホの裏やパソコンの裏に貼ると、無言のうちにメッセージを伝えることができるというものです。

なぜこれを作ったかというと、赤ちゃんの泣き声に寛容な社会の姿というのが、今はなかなか見えづらくなってしまっているからです。今回の件もそうですが、親が子どもを注意しないとか、保育園が近所にできるてうるさいとか、親子連れについてニュースになるのは、もっぱら子どもにまつわるトラブルばかりです。

これを見た人達は、今の親はモンスターばかりだなと嘆かわしく思うでしょうし、そういう声を見た親達の方も、社会は親子にこれほど厳しい目を向けているものかと思います。でも、決してそういう人ばかりではないと思うんです。「泣いてもいいよ」ステッカーは、私は赤ちゃんを見守っていますよ、という、日頃見えにくい温かい気持ちを可視化しようと、始まりました。

このステッカーの配布が始まって以来、私やウーマンエキサイトにはさまざまな意見が届けられました。中でも特に多かったのが、「街でこのステッカーを見かけたら自分が泣いてしまいそう」というお母さん達からの声です。ぜひご理解いただければと思うのは、多くの親御さんが、いまだ慣れない育児の中、子どもの泣き声で知らない人に迷惑をかけてはいけないととても緊張しています。少しでも優しい言葉を向けられたら、涙してしまうほど心細い人も沢山いるのです。

日々さまざまなニュースが飛び交いますが、多くの小さい子を持つ親御さんは、人様の迷惑になってはいけないと毎日一生懸命子育てに取り組んでいます。「最近の親は……」なんてことを言わず、ぜひ温かい眼差しを向けていきたいものです。

WEラブ赤ちゃんプロジェクト