研究者は市場原理主義の下では生きられない - 赤木智弘
※この記事は2018年04月08日にBLOGOSで公開されたものです
静岡県富士山世界遺産センターの教授2人が3月に相次いで退職したという。
その理由について退職した教授は「県職員らの研究への介入や、ハラスメントが相次いだ」と訴えているが、県側は否定しているということだ。(*1)
いわゆる、パワハラがあったのではないかとされる問題である。記事を見るに教授たちの研究に対して不満の声が挙がっているようだ。
しかし、静岡県富士山世界遺産センターが開館したのが去年の12月23日。開館してわずか3ヶ月しか経っていない施設でこのような問題が起きるというのは、やはり何かがおかしいと思わざるをえない。
今はまだ、提示された事実関係が少なくなんとも言いようがないが、これからの報道に注目したい。
さて、この記事を読みながらふと思い出した問題がある。それは青色LEDを開発した研究者である中村修二氏と、当時彼が所属していた日亜化学工業の問題である。
日亜化学工業を退社した中村氏は、職務発明の対価に対する訴訟を起こし、2005年に約8億円の支払いで和解した。
企業に属する科学者が、偉大な開発を成し遂げた時に、企業は莫大な利益を得るのに対して科学者への待遇が低すぎるのではないかという問題が、世間でも話題となった。(*2)
確かに、日亜化学工業が中村氏に与えた報酬は、研究によって生まれた利益に比して低かったと言えると思う。しかし一方で企業内の研究成果は、当然研究者当人だけのものではなく、会社側の多大なバックアップや人員配置あってのことである。そうした企業側の認識も当然であるといえる。
世間の声としては、中村氏に同情を寄せる声が多く、研究者に対価を与えなければ、日本の産業は衰退するという声も強かった。
「十分な研究結果を出した研究者には、それ相応の高い賃金や待遇を渡すべきだ」という考え方は逆に言えば「研究結果を出せない研究者は、干してしまっても構わない」というところに至る。これはコインの裏表であり、前者を是としながら後者を否定することはできない。そう考えれば「結果を出せない研究者」が不遇となるのは時代の流れであろう。
しかしここで踏みとどまらければならないのは、大半の研究活動は市場原理と合致しないという点である。
青色LEDのような市場性の強い、成功すれば大きな利益に至る研究がある一方で、研究が成功したとしても、それこそ「これまでは仮定で言われていたことが、明確な事実だと判明した」というような、学問的には重要な研究成果であっても、市場性にはなんら関係しない研究も存在する。
前者のような研究者が最終的に勝つために研究を続け、結果として成功した人が多くの利益を得て、一方で成果を出せなかった人が追放されるというのは、まぁ仕方ないと言えるだろう。その道は決して楽ではないし、ライバルも多い。
一方で、後者のような研究で成功したとしても、せいぜい研究者としての職が継続するだけである一方で、成果を出せなかった研究者が追放されるというのは、メリットに比してのリスクが高すぎはしないだろうか。
そして今回の富士山の歴史などは、明確に後者のような研究であろう。こうした地味な研究を地道に行いながら、一般の人達に対して研究を話し、富士山の歴史に対する理解を深めるような活動が「ろくな研究成果がでない」という評価を受けて研究者が仕事を追われるのはあまりに無残である。
確かに、研究者が一流であったり、一流を目指すことは重要である。
しかし、研究とは常に積み重ねであり、その土台は決して自分の研究だけではなく、他人の研究もまた土台であり、その土台には一流の研究者の観点と、それを支える多くの平凡な研究者による地道でけっして大きな成果ではないが、必要な研究があるのである。他の研究者を平凡として否定することは、研究の土台そのものを否定することではないかと、僕は思うのである。
これは研究以外の労働に対しても同じことがいえる。第一線に立つ経営者やコンサルが高い給与と待遇を手に入れていられるのは、末端で平凡な働きをしている人たちがいるからである。
コンビニで考えれば、経営者だけがいても、店で働く店員や商品を運ぶドライバーなどがいなければ、商品を1つだって売ることはできないのである。コンビニ本部の経営者がアルバイトに対して「商人として一流でなければならない」などといい出したら、とりあえず経営者の頭を殴って治そうとするしかないだろう。
しかし、そうした経営者の戯言が許容されつつあるのが現状である。自分の仕事が平凡な仕事の上に立っていると自覚していない傲慢な人間が、格差を容認し大言を放つ。さらにそれをSNSなどで見た経営者のワナビーたちが、自分たちも経営者側の人間であるかのように、下手すれば自分よりも一生懸命に働いている人間を、見下して腐す。このようにして自己責任論が形成されることが時代の趨勢になりつつある。
そのような状況で、研究者という市場原理とは単純にそぐわない立場の人達が担う労働をどのように解釈していくべきか。たとえ市場原理的には正しくても、それが公平だとは思えないことに対して、どのような待遇を与えていくべきなのか。
そのことを真摯に考えなければ、平凡な研究者や平凡が労働者がいなくなる。そのことは国の屋台骨をやせ細らせることと同じなのである。
*1:富士山世界遺産センター、2教授退職しピンチ(読売新聞)http://www.yomiuri.co.jp/national/20180402-OYT1T50111.html
*2:LED訴訟決着から10年、いまだ「しこり」消えず 古巣の日亜化学工業は「中村氏個人の開発技術だけではない」(J-CASTニュース)https://www.j-cast.com/2014/10/08217980.html?p=all