「大和」だけじゃない 大艦巨砲主義の象徴&最も戦艦にこだわり続けたアメリカのナゼ
戦艦「大和」の建造中、山本五十六は「これからは海軍も空軍が大事で大艦巨砲はいらなくなる」といいました。今も「大和」=「無用の長物」という見方が支配的。しかし当時を振り返ると「大艦巨砲主義」にこだわったのは旧海軍だけではありませんでした。
戦艦の建造ラッシュとその後
旧日本海軍の戦艦「大和」は、日本がロンドン海軍軍縮条約を破棄した1936(昭和11)年に建造が開始されました。それまで第1次世界大戦後の軍縮条約で新たな戦艦の建造は制限されていましたが、当時、日本の脱退を受けて列強各国も建造を始めました。
当初、日本は大和型戦艦4隻の建造を計画しましたが、それに対しアメリカは10隻、イギリス海軍は7隻の戦艦を計画しています。当時の空母(航空母艦)はまだ航続距離が短い複葉機が主流で、艦隊の主役ではありませんでした。
ただ、イギリスは1939(昭和14)年に第2次世界大戦が始まったために、建造期間と費用がかかることから建造する数を2隻減らし、代わりに新設計の戦艦1隻(のちの「ヴァンガード」)を起工します。
アメリカの戦艦「ニュージャージー」の一斉射撃(画像:アメリカ海軍)。
日本は1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まると、いち早く大和型戦艦の4番艦を建造中止にしました。さらに翌年6月に起きたミッドウェー海戦で空母4隻を失ったことで、手っ取り早く空母をそろえるため4番艦より建造が進んでいた3番艦「信濃」を空母に改造しています。
他方、アメリカはアイオワ級戦艦6隻が建造中で、このほか大和型に匹敵するモンタナ級戦艦5隻も計画していました。
変化した戦艦の役割
このように、各国の戦艦の建造計画はそれぞれ中止されたり変更されたりと、さまざまな道をたどりましたが、その事情をもう少し掘り下げて見てみましょう。
まず、第2次世界大戦の海戦は太平洋と大西洋で性格が違っていました。大西洋ではドイツ海軍が弱体で空母を完成させられず、ドイツは大戦前半については戦艦や装甲艦で、後半は潜水艦でアメリカやイギリスといった連合国の輸送船団を攻撃しています。それに対して太平洋では、日本とアメリカの双方が戦艦や空母を始めとした強力な軍艦を多数保有しており、それらを中心とした複数の艦隊を編成していました。
日本はハワイ真珠湾攻撃前の1940(昭和15)年に複数の空母を中心に編成した艦隊、いわゆる空母機動部隊を創設し、航空機を海戦の主役に据えるようにしました。この動向は旧日本海軍の山本五十六連合艦隊司令長官の言葉どおりにみえます。
イギリスの戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」(画像:帝国戦争博物館)。
太平洋戦争中は日米とも空母の数を増やしたものの、戦艦の建造に見切りをつけた日本に対して、国力のあるアメリカがモンタナ級戦艦を中止にしたのは、開戦からかなり経過した1943(昭和18)年7月でした。アイオワ級戦艦は1944(昭和19)年4月に「ウィスコンシン」が最後に就役し、残る「イリノイ」は終戦直前の1945(昭和20)年8月12日、「ケンタッキー」は戦後の1950(昭和25)年1月に建造中止になっています。
このように見てみると、すでに時代が航空機中心になりつつあったなかで、むしろ日本よりもアメリカの方が戦艦にこだわり続けたといえるでしょう。ただ、それには理由がありました。
変化した戦艦の役割
太平洋戦争は初戦で日本が占領した南方の島々を、アメリカが攻め落としていきました。日米が空母や戦艦を繰り出し、海軍の総力を挙げた「ガチバトル」になったのです。
当時、すでに航空機の性能や航続距離が飛躍的に伸びて、戦艦の主砲が届かない遠距離からたがいに軍用機を送り込む、航空戦が主流になっていました。とはいえ砲撃戦がなくなったわけではありません。およそ1年半にわたり死闘がくり広げられたソロモン諸島では、航空機だけでなく戦艦などあらゆる軍艦が投入され、砲撃戦も起こりました。
シブヤン海海戦で対空用の円陣を組む栗田艦隊(画像:アメリカ海軍)。
第2次世界大戦前は戦艦が海戦の雌雄を決する切り札でしたが、太平洋では役割が変化していたのです。それはアメリカが顕著でした。
戦艦は、上陸部隊を支援する艦砲射撃、艦隊の防空、砲撃戦というように、むしろ用途が広がっています。なお、日本もアメリカ軍に占領されたガダルカナル島を戦艦で砲撃しています。アメリカ軍の戦い方からわかるのは、各種の航空機や軍艦をそろえて、あらゆる戦いに対応できる総合力がものをいう、ということです。そのなかでは、時代遅れにみえた戦艦も充分大きな役割を果たせたわけです。
戦後も活躍したアメリカ戦艦
航空機が主役の時代にあっても、戦艦を航空攻撃のみで沈めるのは、実はかなり困難でした。
1944(昭和19)年10月に起きたレイテ沖海戦のうちシブヤン海海戦では航空機の支援がなく、戦艦「武藏」が沈められたといわれます。これは日本軍が限られた航空機を敵の空母部隊に集中させるしかなかったからでした。
シブヤン海海戦は8時間にわたる死闘でしたが、沈没したのは「武藏」だけで、重巡「妙高」が脱落した程度です。これに対し、アメリカ軍はのべ286機が出撃し、撃墜や不時着水などで19機を失い、40機が被弾で損傷しました(アメリカ海軍の戦闘報告書から集計)。
ここからくみ取れるのは、対空用の円陣を組んだ艦隊を攻撃するのは、アメリカ軍でも容易ではなかったという点であり、決して航空機が万能だったわけではないということです。
湾岸戦争でトマホークを発射する「ウィスコンシン」(画像:アメリカ海軍)。
レイテ沖海戦ではアメリカ軍が戦艦部隊を栗田艦隊に差し向けており、大和型とアイオワ級という日米の戦艦同士が砲撃戦を行う可能性がありました。双方の艦隊がわずかなタイミングで行き違ったため、戦艦同士が砲火を交える機会はありませんでした。
これについて、アメリカ艦隊の司令官ウィリアム・ハルゼーは、「兵学校以来の夢がかなわなかったのが残念だ」と自伝に書いています。なぜなら、当時のアメリカでは20世紀初頭に兵学校で学んだ多くの司令官が、日露戦争のような戦艦の砲撃戦を夢みていたからです。
しかも、アメリカは第2次世界大戦後も戦艦を使い続けました。アメリカ海軍はアイオワ級戦艦を朝鮮戦争とベトナム戦争で地上への支援射撃で使用し、1991(平成3)年の湾岸戦争でも巡航ミサイルを地上目標に対して放っています。
このように大戦後も長らく使われ続けたアイオワ級戦艦がすべて退役したのは1992(平成4)年でした。こうして見てみると、どの国よりも戦艦にこだわっていたのは、アメリカだったといえるのではないでしょうか。