なぜソニーはアップルになれなかったのか。経営共創基盤グループ会長の冨山和彦氏は「ソニーはiPhoneを作るための技術は持っていたが、そのためのアイデアを持っていなかった。必要だったのは技術ではなく、自由な発想をもつ『デジタル・ドリーム・キッズ』だった」という――。(第3回/全5回)

※本稿は、冨山和彦、田原総一朗『新L型経済 コロナ後の日本を立て直す』(角川新書)の一部を再編集したものです。

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■なぜシリコンバレーの優秀人材を採用できないのか

【田原】僕はソニーの取材をしていたこともあったけど、ソニーは井深大(いぶかまさる)、盛田昭夫(もりたあきお)、それにソニー初の新卒社長になった出井伸之(いでいのぶゆき)と名物社長がいた。僕は、出井時代のソニーをおもしろい会社だと思った。彼はインターネットの可能性をよく知っていた。

ウォークマンであれだけ時代をリードしたのに、その後、アップル製品に負けた。ソニーはアップルにはなれなかったのか。ここは日本型経営を考える上で、大きな問題だと思う。デジタル革命だというならスタンフォードを出たシリコンバレーの優秀な人材をもっと呼ぶべきだと思う。

【冨山】海外の優秀な人材を採用するには、当然今の日本人社員とは全然違うレベルの待遇をしなければなりません。評価体系、評価基準も大きく変えざるを得ない。ただ、そうすると、現状の日本型の雇用体系では、終身雇用で働いている人の仕事を奪ってしまい、多くの社員のモチベーションを下げてしまうんです。

たとえばソニーでは東大、慶應、早稲田といった日本の理工系トップを出たエンジニアはたくさんいます。彼らも優秀であるがゆえ、プライドは高いですから、そこに日本の会社の内部事情をあまり知らない外国の、それもソフトウェア系の若造がやってきても、なかなか受け入れることができない。今でも抵抗があるでしょうし、10年以上前であればなおさらです。

■日本企業の弱点である「トップの弱さ」

【田原】日本は年功序列でこうしたエリート人材が日本にやってきても、せいぜい年収1000万から。中国やヨーロッパだったら2000万、3000万からが普通で、日本で働くメリットはないという。

【冨山】そうです。それが普通です。そのため、日本型企業の論理と彼らは合わないんですよ。

【田原】いまの世界的企業と日本の大企業の差は人材だけなんだろうか。

【冨山】もちろんそれだけが原因ではありません。アップルが復活するのは1990年代に入ってからですが、その時期はちょうど出井体制と重なっています。田原さんの指摘の通り、出井さんはインターネットの可能性は知っていました。しかし、これも日本型経営の特徴ですが、トップの力は弱い。

社長やCEOの決断だけではうまくリードできず、やたら人数が多い取締役会の根回しを大事にしないといけない時代が長く続きました。ソニー全体はまだまだ移行期で古くて大きい日本の製造業の構造を引きずったままだったからです。

【田原】アップルのスティーブ・ジョブズは、あまりにも経営者としてうまくいかないから1回、アップルをクビになるんだけど、ちょうど復活して、新しいパソコンや音楽プレイヤー(iPod)をやろうとした。

【冨山】ちょうど私がスタンフォードに留学していた1990年初頭、彼は事実上の失業状態だったんです。アップルのあとに作ったピクサーとかも当時はうまくいっていなくて、彼は終わった人だと思われていました。

■ジョブズを復活させた「インターネット革命」

スタンフォードのビジネススクールには、どちらかと言うと「終わった人」という感じでスピーカーとしてやって来て、「こうやるとベンチャー経営者はおかしくなります」というような、やや自虐的な話をしていました。誰もが、ジョブズの復活もアップルの復活もないと思っていた。ところが、ここでインターネット革命が起きる。

インターネット革命が起きたのと同じ頃に、アップルが苦し紛れに打ち出したネクストコンピュータ構想、要するにジョブズが作った高い技術を活かしたコンピュータを作ると決めて、技術目当てでジョブズごと買い戻したんです。

ここからが物語の始まりで、ジョブズの経営者として最も優れていたことは、ネット時代に何をやったらクールで、おしゃれで、誰もが憧れるモノやサービスを生み出せるかということにしか関心がなかったことです。ジョブズはいろんなアイデアを打ち出しますが、すべて当たるわけもなくというか、結果は無残なもので、失敗ばかりの死屍累々です。

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iMacこそ美しいデザインと、画期的なカラー展開、それから簡単にインターネットにつながるというので大当たりしましたが、そこからはけっこう大変だったんです。死屍累々の先に、やがて2001年にiPodの第1世代が出て、のちの大ヒットの下地を作ります。ダウンロード型音楽配信サービスとしてのiTunesもサービスが始まり、さらに2007年にiPhoneが発売されてスマートフォン時代の幕が上がります。

■周囲から理解されなかった出井元社長のコンセプト

ジョブズはソニーというか盛田昭夫さんが大好きで、尊敬していたというのは有名な話です。特にiPodは新時代のウォークマンと言っていいし、音楽を外で聴けるようになるというソニーのアイデアを極めて洗練させた形で打ち出しました。

彼はいかにしてインターネット時代に適合したものにするかを考えていた。だから、ダウンロードしたデータで持ち歩くという発想になるんですね。出井さんが考えていたのも基本的には同じで、アップルのようにウォークマンとインターネット、そしてデータを統合するという道は見えていたはずです。だけど、できなかった。

【田原】そこが問題だ。なぜできない。

【冨山】当時のソニーも、創業から60年以上を経過した日本の古くて大きいメーカーの体質を引きずっていたということではないかと思います。日本の古い会社だと、○○担当取締役という出世ポストがあり、たくさん取締役がいますよね。たとえばぱっと考えるだけでも、音楽部門からすれば、まだまだ売れていたCDの売り上げを死守したいとか、もっと最高の音質でウォークマンを作りたいとか部門ごとにいろいろな思惑が働きます。

各々の思惑があるなかで調整しないといけないという問題がやはり出てきます。よく言えば、民主的なのかもしれませんが、同質的な集団の中で既存のゲームを全否定するような根こそぎイノベーティブな意思決定ができるかといえば、それはできません。

出井さんが先を予見していたというのは間違いなくて、彼は当時「デジタル・ドリーム・キッズ(Digital Dream Kids)」というコンセプトを打ち出していました。このコンセプトの意味を当時ほとんどの人が理解していなかったように思います。ソニーの内部できちんと理解されていれば、その後の長期低迷はなかったでしょう。

■「デジタル・ドリーム・キッズ」を率いたアップルが成功した

出井さんは、これからデジタル技術で世の中がかなり劇的に変わる、いろんなものが根こそぎ変えられてしまい、野球がサッカーに変わるくらいのゲームチェンジが起きる、と予見していたと思います。

そうなった時に、これからの時代を引っ張るのは、野球で育った人たちではなく、デジタル技術に目を輝かせて、それに飛びついていた若者たち。それはユーザーとして飛びつく若者たちもそうですし、ベンチャーを立ち上げるという若者たち、新時代のソニーに飛び込んでくる若者たちも含まれます。

こうした新人類が牽引(けんいん)する世界になるんだというのが「デジタル・ドリーム・キッズ」というコンセプトだったんです。2021年の今、リアルなデジタル・ドリーム・キッズ、あるいはデジタル・ドリーム・キッズのメンタリティを持っている人々が世界中で大活躍していて、その一部がGAFAを作り、GAFAを支えています。

日本企業の論理に合わない、MITやスタンフォード卒の人材はほとんどが出井さんのいうデジタル・ドリーム・キッズですよ。スタンフォードのMBAにいる人たちは大部分が起業しますし、彼らはむしろ起業しないことのほうが人生にとってリスクだという発想を持っています。

ジョブズも、いわばデジタル・ドリーム・キッズの1人です。世代はもちろんだいぶ上ですが、やっぱり子どもみたいな夢やアイデアを語って、周囲を巻き込んでいた。デジタル・ドリーム・キッズ率いるアップルが、最初にハードとソフトの融合モデルを作ることに成功したことは決して偶然ではないでしょう。

■技術はあってもアイデアがなかったソニー

結局iPodなりiPhoneというハードと、iOS、iTunesというソフト上のクラウドベースの技術というものを結びつけるということに、彼らが先に成功しちゃった最大の要因は、デジタル化にわくわくしていて、新しいゲームのルールをいち早く理解していたからです。

結果として、ウォークマンはiPodに殺されてしまった。教訓として忘れてはならないのは、アップルが駆使していたそれぞれの技術を単体で見ていくとソニーも持っていたことです。ソフトもハードもアップルが持っているものはすべて持っているのに、それを結びつけて、すべて統合したサービスでユーザーを獲得するという発想だけが欠如していたんです。

写真=iStock.com/jirkaejc
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ソニーはガラケーを作っていましたから、電話もついたウォークマン、そしてダウンロードデータで勝負するという発想があれば、iPhoneより時代に先駆けたサービスを展開できたかもしれません。しかし、結果としてそんな未来は実現できなかった。

iPodが出てきてウォークマンは市場を奪われ、iPhoneが出てきたときに日本のガラケーの市場も奪われ、まさに構造そのものを変えるようなゲームをやられた時に、ソニー、多くの日本企業は対応できなかったんです。

本質はパナソニックと同じで、イノベーティブに見えているけれども、やってきたことは、アナログ型のハードウエアの大量生産、大量消費、大量販売がベースにあって、そこを変えるのに苦労したんです。要はアスリートとして運動能力の優れた人はたくさんいたけど、ほぼ全員、野球選手だった。そこに同じ球技だけど全く違うサッカー競技をアップルが持ち込んで、世の中はサッカーのほうに流れてしまったんです。

■いまだにソニーを支えている盛田時代の“遺産的事業”

【田原】僕は盛田とは何度も会っているんだけど、盛田は終始僕に「ソニーは世の中にないものを作ろうとする。これがソニーだ」と言っていた。盛田の考えというのは、とにかく技術主義で、ないものを作る。ここにこだわりを持っていた。

冨山和彦、田原総一朗『新L型経済 コロナ後の日本を立て直す』(角川新書)

【冨山】そうなんです。ところがですね、盛田さんもデジタル革命の最初のほうしか見届けることができず、1999年に亡くなっています。でも、盛田さんは変化への期待を込めて出井さんを抜擢していたと思います。盛田さんは時代の変化を先読みしていて、その証拠にコンテンツを作ることができるコロンビア・ピクチャーズ・エンターテインメントを買収しています。

ハードからソフトへ、アナログがデジタルにシフトするということは、むしろ盛田さんが先鞭(せんべん)をつけているんですね。いまだにソニーを支えているのは、盛田時代の投資であり、その意味では遺産的な事業で、やっぱり盛田さんというのはすごい人なんです。けれども、そこは盛田さんが創業経営者だったということも大きい。日本の場合は創業経営者が、右に行けと言えば皆が右に行きますから。

■「次のウォークマン」を求めて衰退したソニー

出井さんはサラリーマン経営者、雇われ経営者なのでそうはいかなかった。盛田さんがもうちょっと元気でいてくれて、出井さんのデジタル・ドリーム・キッズというのを現実のものになるまで改革をやる、出井を支えると言えば相当厳しい変革になり、恩恵を被らない人も社内に出てくると思いますが、それでも改革は早期に実現したと思います。

アメリカはCEOに絶大な権力が制度的にも集中していて、だからこそ結果が出なければすぐにクビになり、あらゆる責任を負うということになっています。出井さんもCEOを名乗っていたけど、それはあくまで日本的な文脈で、実態としては社長の言い換えでしかありません。

OBを含めたソニーの社内の空気というのは、2010年代もずっと次のウォークマンを目指そうというものでした。ハードウエアで、世界中でバカ売れする商品が出てこないのは、ソニーらしくないという願望です。ソニー全体が、「幸せの青い鳥」をずっと探していたことで大きく後れをとってしまった。

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冨山 和彦(とやま・かずひこ)
日本共創プラットフォーム代表取締役社長
1960年生まれ。東京大学法学部卒、在学中に司法試験合格。スタンフォード大学でMBA取得。2003年から4年間、産業再生機構COOとして三井鉱山やカネボウなどの再生に取り組む。機構解散後、2007年に経営共創基盤(IGPI)を設立し代表取締役CEO就任。2020年12月より現職。パナソニック社外取締役。
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(日本共創プラットフォーム代表取締役社長 冨山 和彦、田原総一朗)