「パンデミックによって、わたしたちは「場所や距離」を意識する時代へと回帰する」の写真・リンク付きの記事はこちら

パンデミックは、わたしたちとスペースの関係を再定義している。宇宙を意味する「スペース」ではない。物理的なスペースのことだ。感染のホットスポット、距離、拡散、規模、近接……これらは全部、地理的な概念の話である。突如としてわたしたちの頭は、「それが『どこ』で起きていることなのか」という疑問符でいっぱいになったのだ。

インターネットが消し去った「場所」や「距離」

ここ数世紀の間に誕生した輸送やコミュニケーション関連のテクノロジーによって、場所や距離といった地理の概念は以前より大した問題ではなくなったように感じられる。例えば、19世紀の鉄道や冷蔵車の登場は、場所の違いや距離を曖昧にした。これに関して歴史家ウィリアム・クロノンは、「場所はその特殊性を失い、機能的な抽象概念となった」と、1992年の著書『Nature’s Metropolis』に書いている。

電報、電話、ラジオ、テレビもそれぞれ、場所や距離といったものをどんどん周縁に追いやり、やがてインターネットがすべてを跡形もなく消し去った。結局のところサイバースペースは、どこでもあり、どこでもないのだ。

もちろん、本当の意味で地理の概念が死んだことはない。わたしがここにいて、あなたがそこにいる。ほら、もうこれは地理の概念だ。

しかし、人がどこでも飛行機で飛んで行けて、あらゆることをオンラインで学べ、アマゾンでほぼ何でも注文でき、遠くの地もGoogle Earthですぐにズームできるこの時代。わたしたちは空間的なリアリティなぞ結果論のようなものなんじゃないかと考えがちだ。

「現実世界における近接性は、わたしたちの意識から徐々に抜けていきました」と、スタンフォード大学空間・テキスト解析センター(CESTA)の主任研究員、エリック・シュタイナーは言う。「そんななか、パンデミックが空間の重要性を再び浮き彫りにしたのです」

ワシントン大学の地理学・疫学名誉教授であるジョナサン・メイヤーいわく、今回のパンデミックは、わたしたちの体験の根本になぜ「どこ」という疑問符があるのかを、悲しいほど明確に強調していると話す。「病原体は、電気信号に変換されてインターネットを移動するものではありません。人が直接接触することによって広がるものなのです」

それゆえ当然、人は疾病の負荷が高い場所、感染率が高い場所を意識せざるを得ない。集中治療室(ICU)が不足しているのはどこか、クルーズ船が停泊している港はどこか、マスクが買える場所はどこか、検査キットが隠されているのはどこか。いまやわたしたちの安全は、(少なくとも一部は)場所や距離といった地理にかかっているわけだ。

「ここ」と「ここ以外」を意識する日々

その一方、ソーシャルディスタンシングは「あらゆる人々の物理世界を非常にローカルな空間に縮めてしまいました」と話すのは、ベッツィー・メイソンだ。メイソンはさまざまな地図を集めたサイト「Map Dragons」の共同創設者で、書籍『All Over the Map』の共同著者でもある(そして、元『WIRED』US版のサイエンスエディターだ)。

わたしたちは非常に狭い場所で活動しながら、「自分自身がいるローカルな空間と、地球上に存在するそれ以外の場所のつながりを意識しすぎているのです」とメイソンは言う。「頭のなかでまったく違うふたつのスケールを行き来していると、混乱してしまうかもしれません。現実の空間を移動することが危険な時期には特にです」

さらに今回のパンデミックは、わたしたちの「家」に対する考え方も変えているのかもしれない。

ワシントン大学のメイヤーは、1918年のスペイン風邪や、2014年と16年のエボラ出血熱の流行を研究していたとき、病原体と「どこか別の場所」という考え方の関連性に着目した。

「エボラ出血熱は、どこかエキゾチックなものと捉えられていました」と、メイヤーは言う。「危険な病気とはされつつも、米国で何件かの発症例が出るまで『どこか別の場所』の話と考えられていたのです」

危険なもの、あるいは危険とされているものが忍び寄ってきたとき、自分にとって安全と思える空間はどんどん範囲を狭めていく。そして「安全なのは自分の家の中だけ、というところまで縮小し続けるのです」と、メイヤーは話す。

それを思い知らされるのは、自分の子どもたちが家に引きこもる生活に悲しいほど適応している様子を見たときだ。いつになったらもっと外に冒険しに行くよう促せるのか、つい考えてしまう。

「どこか」というフィクション

パンデミックによって、日常的なやりとりに地理的な要素が加わっている兆しすら感じる。例えば、Zoomのミーティングで「調子どう?」の代わりに「いまいる場所はどんな感じ?」と言ってみたり、感染者数マップを確認するのが陰鬱な日課になっていたりといったことだ。

先日、まさにそんなことがあった。その日の朝、7歳の娘が書斎にやってきて、パソコンの画面にちらっと目をやったのだ。州や都市別の感染者数を表す円だけが描かれた『ニューヨーク・タイムズ』の地図を見て、彼女はすぐにこう尋ねた。「それコロナウイルス?」

新型コロナウイルス感染症という現実は、わたしたちの生き方を変え、それが「どこ」の話なのかをやたら意識したものの見方を強いた。とはいえ、パンデミックの最も価値ある教訓は、「どこか別の場所」というコンセプトがフィクションであるということだ。

ここじゃないどこかが、自分がいる場所や自分の生活と隔絶されていると考えるのは甘すぎる。「どこ」という疑問符は間違いなく重要だ。しかし、わたしたちがみなここで一緒に生きているということも、また事実なのである。みんな一緒に、だ。