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ストリームラインで先頭に立つ

text:Jon Pressnell(ジョン・プレスネル)photo:Will Williams(ウィル・ウイリアムズ)translation:Kenji Nakajima(中嶋健治)

 
勇敢に新しい流れを作り出すことは、リスクと隣り合わせなことも多い。1934年1月、流線形ボディの新モデル、エアフローを先駆けて発表したクライスラーは、先頭に立ったと感じていただろう。

創業者のウォルター・クライスラーは、自動車発明以来の本物の自動車だ、と自負した。ストリームラインと呼ばれた流線形は、トースターから蒸気機関車までに影響を与えた、当時の工業デザインのトレンド。

デ・ソト(クライスラー)・エアフロー(1934年)

アールデコやバウハウスといった、芸術・デザイン様式の流れを汲んだ新しいスタイル。同時に自動車工学は、原始的な馬と重たい独立シャシー、ケーブルブレーキなどから開放された、次の姿を模索していた。

エアロダイナミクスを追求することは、技術的にも美術的にも、調和の取れるデザインだった。クライスラーの、機能美といえるスタイリングが、失敗するとは考えにくい。

それでも、エアフローは成功できなかった。1935年に滝のような縦縞のフロントデザインを改めるも、流れを変えられなかった。

廉価ブランドだったデ・ソトは、前年まで2万2736台を売っていたのに対し、1934年にエアフローが売れたのは1万3940台。1936年、デ・ソト・ブランドのラインナップから落ちる年には、6275台しか販売されなかった。

上級のクライスラー・ブランドで売り出されたエアフローは、1934年に1万1292台を販売。だが1937年になると400台しか製造できなかった。その後もフェイスリフトなどで延命を試みるが、エアフロー全体の生産台数は5万5155台に留まる。

風洞実験を重ね空力特性を重視

そんなエアフローの始まりは、クライスラー創業10周年を祝うことがきっかけ。ウォルター・クライスラーは特別なモデルを欲したのだ。

技術者は次の自動車の検証と実験を進めていた。当時のクライスラーは、優れたエンジニアリング部門を持つことで他社をリードしていた。三銃士と呼ばれた、フレデリック・ゼダー、オーウェン・スケルトン、カール・ブリアーが率いる部署だ。

デ・ソト(クライスラー)・エアフロー(1934年)

フローティングパワーと呼ばれる、フレキシブルなエンジンマウント機構を生み出していた3人。次に取り掛かるべきは、エアロダイナミクスだった。

初飛行を成功させたライト兄弟の助言を受け、縮小版の風洞実験施設が作られた。そこで発見したことが、当時の自動車は、風洞の中で逆向きに風を当てた方が空力性能が向上する、という事実だった。

ブリアーが設計を進めたエアフローは、空力特性を優先。リアシートを車軸の前側に移動し、ボディの高さを抑えた。また、風洞実験から生まれたスタイリングだけではなく、アメリカ人のために熟考された設計を得ている。

新しいボディはセミ・モノコック構造を採用。ボディシェルを兼ねる、外周フレームが与えられた。そこへ、駆動系などが組み付けられた簡素なシャシーが固定されている。

その結果、独立シャシー構造のクルマと比較して、70kgから90kgをダイエット。ねじり剛性は40%も向上させている。さらに重量配分やスプリングの周期性を研究。人間が歩く時のリズムに同期する動きの乗り心地を与えた。

多くの人に受け入れられなかったデザイン

理にかなった設計のエアフローは、1934年のニューヨーク自動車ショーで発表。クライスラー・ブランドは直6と直8エンジンを搭載。デ・ソトブランドにはひと回り小さい3956ccの直6エンジンが選ばれた。

初めの反応は良かった。ブリアーによれば、自動車ショーの中で過去にないほど多くの注文を集めたという。しかし、エアフローの生産には時間がかかった。先進的なマルチスポット溶接を実現する生産機械の開発には、時間が必要だった。

デ・ソト(クライスラー)・エアフロー(1934年)

クロームメッキが施されたチューブラーフラームのシートを作るには、工場のスタッフへ技術を習得させる必要があった。加えてサプライヤーはストライキを強行。

1934年4月に生産が始まるまで、ライバルメーカーの対抗キャンペーンもあり、多くの潜在バイヤーがエアフローから離れていった。初期不良も、少なからず影響しているだろう。

検証と実験が生んだクルマの結果は、エアフローのデザインを多くの人が受け入れない、ということ。だが、カール・ブリアーはその事実を否定した。「ショーが終わった1月には、(両ブランドで)2万5000台のエアフローをオーナーへと引き渡しています」

「エアフローのスタイリングは、多くの人の賛同を得ました。スタイリングの悪い噂は、未然に防げたと考えています」 と、後に振り返っている。

ブリアーの意見はどうあれ、クライスラーは爪痕を残した。多くのメーカーへ、デザイン的な影響を与えた。米国ではボディデザインだけでなく、シャシーの構造やサスペンションなど、多くの面で参考にされた。

ディティールまで貫かれた流線形

そんな歴史的背景を持つ、英国では数少ない現存車両となるクライスラー・エアフロー。最も影響を受けたであろう1台、ボルボPV36カリオカと並べることで、価値も改めて見えてくる。

アダム・ムーディの1935年製エアフローは、アメリカではデ・ソト・ブランドのモデルだが、英国では組立工場の都合でクライスラーと呼ばれている。フロントバンパーは、北米クライスラー仕様のトリプルバー・タイプが流用されている。

デ・ソト(クライスラー)・エアフロー(1934年)

ムーディー家が50年に渡って所有しているクルマで、2度全塗装している以外、レストアは受けていない。前後でカーブする低いボディは堂々としており、細部の作り込みも見事。

フロントまわりは、クライスラー版では細いバーが立てに並ぶ、滝のようなグリルを湛えているが、このクルマには1935年仕様のデ・ソト版グリルが付いている。アールデコの傑作といえる。

3本バンパーの中央にはティアドロップ型の装飾が付く。大きく弧を描くボンネットの横には、ルーバーが幾重にも並ぶ。スプリット・ウインドウを強調するかのようなクロームのモール。ホイールのスパッツにはタイリッシュなエンブレムが飾られる。

ドアハンドルも流線形。クライスラーのロゴがハブキャップに入り、飛び跳ねたガゼルのマスコットがフロントの頂上を彩る。テールライトを覆うのは、肉厚なクロームメッキのカバー。1930年代ファンにはたまらない、デザインミックスといえるだろう。

インテリアもボディデザインの流れを受ける。バウハウス調のパイプで組まれたシート。リアシートには小さなアームレストが添えられる。

エアフローに強い影響を受けたボルボ

足元空間は充分に広く、シート表面はボタン付きのレザー張り。おそらく英国で組み立てられたエアフローの特徴だろう。ヘッドライナーもアメリカ仕様と異なり、英国仕様では通常の布張りだ。

塗装されたダッシュボードに埋め込まれたメーターはゴールドの盤面。スイッチ類はカーブを描く真鍮製の飾りが付く。

ボルボPV36カリオカ(1935年)

フロントの三角窓は横に開くだけでなく、サイドウインドウと一緒にドア内側に下ろすこともできる。トラックから取ってきたような3スポークのステアリングホイールが、少々場違いに見える。

一方のボルボPV36カリオカは1935年3月の発表。1934年のエアフローから1年ほどのブランクだが、クライスラーの影響は明らか。デザイナーのイバン・オルンベルクはアメリカの自動車メーカー、ハップモビル社で働いていた経験もあり、その影響も見て取れる。

1935年は800台程度の生産台数しかなかった、立ち上げ間もないボルボ。デザインの発想を求めて、アメリカに向かっても不思議ではない。当時のスウェーデンでは、アメリカ車が市場を独占していた。自国市場での支持を集めることが、当初の目標だった。

エンジンは3670ccの直列6気筒サイドバルブ。最高出力は85psで、当時のほかのモデルやトラックにも用いられていたユニットだ。

コイルスプリング式のフロントサスペンションと、リーフスプリング式のリアサスペンションを持つ、独立シャシーを保持。アンチロールバーや油圧ブレーキも採用している。

この構成は当時としては先進的で、高級モデルとしても充分。一方で、クライスラーの設計にある根本的な部分、セミ・モノコック構造は採用していない。

ボルボ・カリオカの続きは後編にて。