Twitterで話題、相撲パフォーマー・ごっちゃんこが行き着いた「生きづらさ」の先
まわし一丁にマゲ姿のおすもうさんスタイルで路上に立ち、まわしを叩きながら歌う“路上相撲パフォーマー”のごっちゃんこさん(27歳)が最近、ツイッター界隈で話題になっている。
まわしをパーカッションのように叩きながらラップし、歌い、通りすがりの人と相撲を取る。足を高々と上げる美しい四股(しこ)を踏み、「ひとり相撲」で取組(のまね)を熱く見せることも。さらに、相撲甚句を朗々と歌いあげ、声もいい。もともと、京都・河原町の路上に立っていたが、最近ではハワイ、メキシコ、オーストラリア、東京、インド、台湾と、世界あちこちをまわし姿でぐるぐる回っている。
通りすがりの人と相撲を取ることも
そこで、パフォーマンス予告がされた高円寺へ、追っかけて行ってみた。
さて、駅前に突然現れたまわし姿のおすもうさん。道行く人は「なんだ?」と視線を投げかけ、足を止め、何人かはジーッと食い入るように見つめる。その中でごっちゃんこさんは蹲踞(そんきょ)の姿勢でひしゃくに入れた力水を飲むと立ち上がり、足を前後に開いてスッと立ち、やにわにまわしを叩き、ラップをし始めた。
♪わたくし ごっちゃんこと申します まわし叩いてオリジナルラップ 自分なりの人生 自分なりの相撲道 ちゃんとやる♪
♪どこだってやれる 地球上どこも 自分の土俵にできるんだ もうダメだって言わないで♪
♪気づいたんだ 自信だけ持ってよう 謙遜とか 謙虚とか いらない♪
まわしパーカッションのリズムがきいていてキレっキレっ。なによりリリックがいい! 最初ぼんやり見ていた、髪を金髪に染めた若い男の子が身を乗り出して聞き始めた。彼は最終的にごっちゃんこさんと相撲を取って、「今、休職中なんです。すごくよかった」と感動の面持ちで、励まされた様子だった。
コート姿のOL風の女性もジッと見ている。日ごろ相撲とは無縁そうなフツーの人たちが、ごっちゃんこさんの路上相撲パフォーマンスにグイグイ引き寄せられていく。
かつて江戸時代には「ひとり相撲」を演じて見せる路上芸人がいたり、街道の辻で相撲を取って投げ銭を集めた「辻相撲」などもあったが、なんと令和の路上に相撲が帰ってきたとは! インドでのパフォーマンスの動画を見ると、現地の伝統相撲「クシュティ」にも挑戦したりもしている。いいっ! 世界に日本の相撲を広め、世界の相撲を日本に知らせる。全く新しい路上相撲パフォーマーとして世界でブレイクしそうなごっちゃんこさん、カッコいい!
ところがだ。
最高位は東幕下49枚目の大司
お話をうかがい始めると、最初に思い描いていた豪快なイメージとはギャップがあることがわかってきた。
「みなさん、いろいろと定義づけしてくださってありがたいんですが、今やってることは僕という人間の生きづらさと、相撲でやってきたものが相成った産物です。僕は生きづらさの当事者です。パフォーマンスを見てもそう感じないでしょう。楽しそうに自由にやってると。でも、本当の僕はそうじゃない。それでも自分の内なる思いを拡大して表現するのがラップだと思うので、思いや願いを全部、全力で表現します。必死に叫んでるんです」
生きづらい自分を抱えて悪戦苦闘するごっちゃんこさん。その激動の相撲人生を聞くことになった。
ごっちゃんこさんこと、太田航大さんは平成29年まで入間川部屋に在籍した、元プロのおすもうさん。最高位は東幕下49枚目。大司(ひろつかさ)という四股名に、相撲ファンなら記憶にある人もいるだろう。
「僕は6歳から相撲をやっていて、愛知県岡崎市の出身です。小学校低学年のころから御嶽海とは合同稽古でよく当たっていたし、北勝富士、宇良世代で、炎鵬のお兄ちゃんとも同じ年でよく試合で当たりました。相撲を始めたのは父親がトレーナーで、心も身体もひ弱な自分に『男なんだから鍛えろ』って、たまたま地元にあった『岡崎相撲教室』に通うようになったんです。ここはめっちゃ名門で、琴光喜関もかつて通っていたところです」
路上パフォーマンスの映像を見てもらえばたくましく鍛えられた身体がわかるが、6歳から相撲をやってきた、バリバリのおすもうさんだ。高校時代には、インターハイ団体2位になった。決勝の相手は相撲の名門、埼玉栄高校。
「それは2年のときで、3年ではインターハイで朝玉勢(現・十両)に一回戦であっさり負けました。ちょうどプロになるか心が揺れている時期だったんですが『これはちげぇな』と、違う道を考えようとしたんですけど、同志社大学へ相撲の推薦で行かせてもらえることになり、相撲を全うしようと進学しました」
ところが、そのころからごっちゃんこさんの苦悩が始まる。
「実は高2の終わりぐらいに体重を増やして負けない身体にしようと躍起になり、95キロから108キロまで増やしたんです。(プロの)現役のいちばん大きかったときと同じです。でも現役の筋力がついた108キロと、高校生の108キロじゃ全然違います。ただただ飯食って太っただけ。結局パフォーマンスが落ちてしまいました」
そこで体重を元の95キロに戻すと、お腹が出てる状態で安定していた背骨や骨盤の位置が変わり、腰痛が悪化。結局、高校3年の秋以降はずっと相撲が取れないままとなる。
「そのまま3月の卒業式が終わったら、翌日には大学の入寮式。推薦で入ったわけだし、無理して相撲を取っていたら5月ぐらいに、また腰痛が爆発。病院に行ったらひどいヘルニアだってわかりました。何をしても痛い、相撲は取れない。それですつかりふさぎ込んでしまったんです」
再起、そしてプロの道へ
「今から考えれば、あのころはうつ状態だったんじゃないかなぁ……」と、ごっちゃんこさん。相撲をやろうと推薦で大学へ来て、肝心の相撲が取れない。アスリート人生最大の危機だ。そのときに、ふと「音楽をやろうかな?」と思ったという。
「高校生のころに“相撲以外のほかの世界も知らなきゃ”って、エラそうな思いにとらわれて(笑)、ドラムの練習を始めたんです。きっかけは、『ヒラヒラヒラク秘密ノ扉』という曲でチャットモンチーの大ファンになり、ドラム担当の高橋久美子さんのパフォーマンスがめちゃくちゃカッコよかったから、ドラムです。
それで僕は京都・左京区にある『エムジカ』というレンタルサイクル屋さんで自転車を借りて学校へ通っていたんですが、実は、そこは京都のアンダーグラウンド・シーンの拠点のような店でした。店主はもともとミュージシャン。“相撲やれなくて、音楽やってみたいんですよね”って言ったら、“ここにあるよ、スタジオ・エムジカが”なんて言われて、その人と一緒に『ちゃんこぽんちー』というユニットを組んで音楽活動を始めました」
最初はまわし一丁でドラムを叩いて歌い、自転車屋さんがギターとコーラスを担当した。地元のお祭とかお店のパーティーなんかに呼ばれてライブをしていたけれど、ドラムセットを運ぶのが面倒で、そのうちボディパーカッションからヒントを得て、まわしを叩く「まわしパーカッション」を始めた。
「でも相撲に復帰するための気分転換というのは忘れないようにしていました。治療に通い、リハビリに励んだんですが、なかなかよくならない。そこで大学3年の秋にヘルニアの手術を受ける決意をしました。最後の1年に賭けよう! って。手術はうまくいき、そこから身体つくって11月のインカレ(全国学生相撲選手権大会)には団体戦に出させてもらい、2回勝ったんですけど、最後に小さいころから知ってる選手に負けました。満足いく結果じゃなかったですけど、久しぶりに自分の力を出せた感じがして、スッキリした。でも……」
でも?
「スッキリしたら、こんなにオレ、相撲ができたんだ! と思いました。また稽古を始め、入間川部屋に入門が決まっていた、いま、幕下にいる大元に誘われて一緒に部屋へ稽古に行ったんです。そのとき親方から“大学時代に思いきりできなかったぶん、相撲がしたい気持ちが残ってるんだろう? オレもそうだった”と言われたんです。
親方も大学時代にケガで相撲が取れず、それを取り返そうとプロになったと聞いて。もう、すぐにでも入りたい気持ちにはなりましたけど、就職も決まってたから親父に相談すると、大反対。“じゃ、3年間だけ”と約束して入門したんです」
角界入りした理由は「とにかく残した伸びしろを塗りつぶしたい」というもの。「変な言い方をすると、相撲をやめるために大相撲に入ったんです」という。やめるためにプロになったなんて初めて聞いたが、ごっちゃんこさん、いや、大司は最初の1年で、幕下までグングン出世した。
引退しても“相撲”をやめなかった
同じタイミングで幕下に上がってきたのが、現在、幕内の上位で活躍する豊山だ。初日、豊山と対戦が組まれた。立ち合いの早いごっちゃんこさん、攻め込んだものの、負け、しかも足首を痛めてそのまま休場となってしまう。次の場所は勝ち越したけれど、そこからは気持ちがついてこなくなった。伸びしろは塗りつぶされ、負け越しが続いた。そして平成29年の9月場所前にやめることを決めた。
「親方には決断する前に、2回“やめたい”と相談していたんですけど、“一年間分もまだうちの部屋で稽古やれてないよ”と言われ、跳ね返されていたんです。でも、ずるずると続けたくなかった。自分の人生は自分で決めたい」
やめることを決めて親方のところに行くと、「世話したつもりはない」と言われた。親方の無念な気持ち、ごっちゃんこさんは痛いほど感じながらも京都に戻った。アルバイトをしながら、相撲を使った健康コンテンツを構築して事業化する計画を立て、そのかたわらでバンド活動を路上で始めるも、次第にパフォーマンスが主となっていく。
「自転車屋さんが“『ちゃんこぽんちー』で食っていけるようになろう”と、新しいメンバーをひとり連れて来て、3人組のユニットになりました。京都の町家のレンタルスペースを借りてイベントをやったんですけど、『ちゃんこぽんちー』としてのパフォーマンスをして、ちゃんこ鍋を作ってみんなで食べたり、相撲フィットネスもしたり。素人目から見て相撲の売りやすさを詰め込んで使い切る、みたいになっちゃったんです。“なんでもやったらいいな”とチャレンジしたけど、しっくりこなくて、しんどかったです。それで、全部バラけさせました」
何もかもやめて、傷心のまま実家の岡崎に帰った。どうしたらいいんだろう? 悩みに悩んで、「路上パフォーマンスをもっとフランクにやろう」と決めて京都に戻る。手探りで路上に立ち始め、SNSにつぶやきや動画をあげていった。すると……。
次第にフォロワーが増え、メキシコ在住の韓国人の人気ユーチューバーがインスタのストーリーにあげてくれた夜には、一気にメキシコ人のフォロワーが800人も増えた。だからメキシコに行った。
「メキシコは貧富の差が激しく、子どもでもお菓子を売り歩いたりと生きるのに必死。でも、そのシビアな現状を笑い飛ばす陽気な性格で、すぐにウジウジ考える自分は救われました」
2月はインドに行って、3月は台湾へ渡った。コロナウイルスの影響でどうなるかわからないが、これからヨーロッパにも行きたいと思っている。
「子どものころ、相撲強くなって世界に相撲を広げるぞ! と言ってたんです。ハッと気づいたら、王道じゃないけど、それをやり始めてる。夢見たようなキラキラしたものじゃないけど、自分がやりたいことをやってる。僕は相撲が好きなんです」
太田航大さんこと、ごっちゃんこさん。悩みながら、転びながら、その相撲道は世界に、未来に、まだまだずっと続いていく。
和田靜香(わだ・しずか)◎音楽/スー女コラムニスト。作詞家の湯川れい子のアシスタントを経てフリーの音楽ライターに。趣味の大相撲観戦やアルバイト迷走人生などに関するエッセイも多い。主な著書に『ワガママな病人vsつかえない医者』(文春文庫)、『おでんの汁にウツを沈めて〜44歳恐る恐るコンビニ店員デビュー』(幻冬舎文庫)、『東京ロック・バー物語』『スー女のみかた』(シンコーミュージック・エンタテインメント)がある。ちなみに四股名は「和田翔龍(わだしょうりゅう)」。尊敬する“相撲の親方”である、元関脇・若翔洋さんから一文字もらった。