緊急経済対策は必要ですが、それが「中長期戦略」と矛盾してはならないといいます(撮影:尾形文繁)

オックスフォード大学で日本学を専攻、ゴールドマン・サックスで日本経済の「伝説のアナリスト」として名をはせたデービッド・アトキンソン氏。

退職後も日本経済の研究を続け、日本を救う数々の提言を行ってきた彼は、3月27日刊行の新刊『日本企業の勝算』で、日本企業が抱える「問題の本質」を徹底的に分析している。

「日本企業を根本から強くするためには最低賃金引き上げが不可欠」とするアトキンソン氏に、来週から始まる連載に先駆け、改めてこれからの経済政策のあり方を解説してもらった。

「緊急経済対策」も中長期を見据える必要がある

新型コロナウイルスの影響で日本経済は大きな打撃を受けており、経済対策を打つことはすでに決まっています。


今回の議論を見ても、日本企業の脆弱性が目立ちます。中国人観光客の激減により、倒産の危機に瀕している企業もあります。倒産には至らなくともぎりぎりで、余裕のない企業が、観光業以外でも多い印象です。状況が状況なので無理のない面もありますが、日本がもっと強い産業構造を有していればと思わずにはいられません。

このような状況下なので、緊急の経済対策は重要ですが、あくまでも経済政策の中長期的な戦略を踏まえたうえで「賢く」打つべきであることを強調する必要があります。

日本は、人口減少と高齢化に対応するべく、産業構造を強化する必要があります。産業構造の強化とは、簡単に言えば大企業と中堅企業を中心とした経済に誘導することを意味します。今回の緊急経済対策は、小規模事業者を中心とした企業の統廃合を進めて、企業の規模拡大を追求し、生産性を向上させる機会になりえます。この機会を逃してはなりません。

例えば、これまでの「最低賃金引き上げ」の流れを止めるようなことがあってはなりません。全国一律最低賃金に向けて、引き続き東京と地方の最低賃金の格差を縮小させることも必要です。イギリスはリーマンショックの後、「100年ぶりの大不況」と言われていたにもかかわらず、継続的に最低賃金を引き上げてきたのです。

日本企業は「規模」が小さすぎる

日本国内で行われている最低賃金に関する議論を聞いていると、まだまだ十分な理解がされていないことを痛感します。私の説明が足りていなかったのが一因かもしれませんが、海外において数多く発表されている論文の内容が、まったく伝わっていないように感じます。

これまでの読者の反応を振り返って考えてみたところ、まだまだ理解されていない点が明確になってきました。説明のための資料も見つかりましたので、今回の記事ではまだご理解いただけていないポイントに焦点を絞って、説明をしていきたいと思います。

今回の記事では、ドイツとイギリスで実施された全国一律の最低賃金導入の事例を検証していきます。その前に共通認識として、論点を整理しておきましょう。

日本はGDP総額が大きく、世界第3位、先進国では世界第2位の経済大国です。この順位だけを見ると、豊かな国のように映ります。しかし、GDP総額が大きいのは人口が多いからで、決して豊かなわけではありません。実際、日本の生産性と所得は非常に低水準で、1人当たりのGDP(=生産性)は世界第28位。大手先進国では最下位です。


生産性が低いと賃金水準も低くなります。購買力調整済みの数値で比べると、日本人の給料は極めて低水準であることが明らかになります。世界一の格差大国であるアメリカは例外ですが、生産性が低くなればなるほど貧困率が高くなるのも世界共通の傾向です。実際、日本の貧困率は先進国中第2位の高さです。

これから日本では生産年齢人口が急減する一方で、高齢者は減りません。このまま何もせずに放っておくと、近い将来、日本は間違いなく先進国の中で1番の貧困大国になります。

人口が減少する中で貧困率を上昇させないようにするには、一人ひとりの賃金を高めるしか方法はありません。そして、賃金を上昇させるためには、生産性を向上させる必要があるのです。

生産性は、経済学の「規模の経済」の鉄則に沿って、企業の規模に比例します。平均的には大企業ほど生産性が高く、規模が小さくなるほど生産性は低くなるのです。これは日本にかぎらず、世界中で認められている「揺るぎない事実」です。

つまり、日本人の賃金を引き上げるということは、企業の平均規模を拡大させることを意味するのです。そのためには、企業を成長させなくてはいけません。しかし日本は人口が減少するので、何もせずに企業規模の拡大を期待しても、無理というものです。人口減少の下、企業の平均規模を大きくするために、日本では中小企業の合併・統合を推し進める方策が不可欠なのです。

2019年の『中小企業白書』では、全国の360万社の企業が2012年から2016年の間にどれほど成長したかを分析しています。それによると、例えば中小企業が中堅企業になるというように区分が変わるほど成長した企業はわずか79万社です。実に281万社は、そこまでの成長を達成できていないのです。

企業の成長がここまで鈍いと、生産性向上は起こりません。生産性向上を実現するには一定の規模が必要ですし、大半の場合、規模の拡大も伴います。

経済政策を考えるにあたって、これら一向に成長しない281万の企業を動かすには、何らかの刺激策が不可欠です。そして、これらの企業の成長を促す刺激策として有効なのが、最低賃金の引き上げなのです。

最低賃金引き上げは雇用に大打撃」は迷信にすぎない

最低賃金の引き上げの影響に関しては、長年にわたって海外の学会で徹底的な検証が行われてきました。その結果得られたコンセンサスは、「段階的かつ適切に最低賃金を引き上げると、既存の雇用全体への悪影響は出ない。仮に影響が出たとしても、その影響は軽微である」というものです。

このコンセンサスは、最低賃金の引き上げが雇用に与える影響に関する膨大な数の論文の結果をまとめて分析する、「メタ分析」によって導かれています。イギリスの低賃金委員会が研究を依頼し、発表された「The Impact of the National Minimum Wage on Employment: A Meta-Analysis」という論文もその1つです。この論文では、2000件以上の論文の数値を確認して結論を出しています。

日本のアナリストの中には、1つか2つの論文を引っ張り出して「このコンセンサスは最新の研究によって否定されている」と主張する人がいます。もちろん、無理やり「最低賃金の引き上げは雇用への悪影響が大きい」と結論づけている論文を探そうと思えば、まったくないわけではありません。

しかし、メタ分析を行って、コンセンサスに影響を与えない程度の少数意見であれば、それだけを取り上げてコンセンサスに異を唱えるのは、アナリストとしてあるまじき行為です。

1つの論文の結果だけを取り上げて全体のコンセンサスを否定するのは、統計調査の結果、日本人男性の平均身長が171センチだと算出されているのに、「私は190センチの日本人男性をたくさん知っているから、平均身長は171センチではない」と言っているようなものです。

このように客観的なエビデンスではなく、自分の知っているエピソードや事例を引っ張り出して一般化し、議論の根拠に使う人が多いことには、いつも悩まされています。

ドイツでは「全国一律の最低賃金」の影響は軽微

さて、ドイツでは2015年に、全国一律の最低賃金が導入されました。ソ連陣営だった旧東ドイツ地域の経済は、旧西ドイツ地域よりかなり弱かったので、「全国一律の最低賃金を導入すると大変な悪影響が出る」とさんざん騒がれました。失業者が50万〜90万人増えるという予想が発表されたと論文に記載されています。

このような懸念の声にもかかわらず、ドイツ政府は2015年に全国一律最低賃金の導入を断行しました。

その際に設定された最低賃金は、賃金の中央値の48%というかなり高い水準でした。ヨーロッパ諸国の中では、スペインが37%で最下位、オランダが46%、イギリスは49%、トップのフランスは62%です。ちなみに「賃金の中央値の比率に対する最低賃金の比率」のことをKaitz指数と言います。

別の尺度として、1人当たりのGDPに対する最低賃金の水準で比較すると、ドイツは現在47.1%、アメリカは26.2%、日本は36.3%、韓国は47.4%です。

イギリスは最低賃金を1999年に導入した際に、賃金への影響は出ても雇用には影響が出ないように、Kaitz指数を42%の水準に設定しました。この水準は相対的に低かったので、影響を受けた労働者は全体の5.3%にとどまりました。当然ながら、Kaitz指数を高く設定すればするほど影響を受ける労働者の割合は高くなります。ドイツが48%に設定した際には、全労働者の11.3%に影響が出ました。

ドイツに全国一律の最低賃金が導入される前の2014年4月の段階で、新しく設定される最低賃金より賃金が低い労働者の割合は、旧西ドイツ地域では9.3%だったのに対し、旧東ドイツ地域は20.7%でした。男女別では、女性の14.2%の賃金は新しい最低賃金以下で、男性の8.4%を上回っていました。若い人ほど、また企業の規模が小さくなればなるほど、最低賃金より低い賃金で働く人の比率は高くなっていました。

ドイツの場合もイギリスと同様に、全国一律の最低賃金を導入しても、雇用の減少は確認されず、雇用全体への影響は見られませんでした。

この部分は理解されないことが多いのですが、最低賃金導入の影響に関しての議論では、雇用全体への影響は出ないというのがコンセンサスです。一方、影響は小さいながらも、特定の属性の人には影響が出るというコンセンサスも存在します。学者がemployment effectsと言うときに意味しているのは、全体の雇用への影響ではなく、一部の属性の雇用への影響です。「影響」を単純に「失業」と受け止めてはいけません。

最低賃金が導入された結果、ドイツ全体では雇用が1.4%も増加しました。面白いのは、最低賃金以下で働く人の割合が最も高い20業種での増加率は1.8%で、そのほかの業種の1.3%より高かったことです。最低賃金近くの賃金で働く人に悪影響が出ると言われていたのですが、ドイツでは真逆の減少が起こったのです。

ドイツでは最低賃金の導入の後に「ミニジョブ」が大きく減少したものの、全体の雇用の増加につながったと指摘されています。「ミニジョブ」とは、報酬が月450ユーロ以下で、労災保険以外の社会保険の適用されない職業です。所得税も免除されます。

最低賃金が導入された1年目に「ミニジョブ」は15万2600人分も減少して、2016年にも4万2448人分減少しました。このことだけを見れば、反対派は「ほれ見ろ、最低賃金を引き上げると、低所得者の失業が増えるではないか」と騒ぎたてるかもしれませんが、それは早合点というものです。

実は、ドイツが最低賃金を導入した際、「ミニジョブ」の書類提出規制なども強化されました。そのことが雇用者側にとって、非正規雇用者を正規雇用に変更するインセンティブになりました。また、最低賃金が導入されたことによって1時間当たりの賃金が上がったので、より多くの人がより短時間で「ミニジョブ」の報酬上限である450ユーロに到達することになりました。

月額の報酬が451ユーロ以上になると、「ミニジョブ」からアルバイトの扱いになるので、統計上は「ミニジョブ」が減少して、アルバイトが増えることになります。「ミニジョブ」の減少数約20万人のうち約半数が、社会保障が適用される雇用に切り替わったと分析によって明らかにされています。

日本への教訓

これは日本にとって大切な事実です。日本では最低賃金で働いている人の大半は女性です。厚生労働省の分析によると、2014年の数字では、最低賃金×1.15未満の賃金で働いている人のうち、72.6%を女性が占めているとされています。

日本にはいわゆる150万円の壁など、女性が自らの収入を低く抑えてしまいかねない制度があるので、最低賃金を引き上げていくと、その分だけ雇用者側が労働時間を短くしなくても、働く時間を減らす労働者が増えることが十分考えられます。

また、“Reallocation effects of the minimum wage: Evidence from Germany"という論文によると、ドイツが最低賃金を導入した結果、解雇される可能性は上昇しなかった一方、自主的に中堅企業に転職する人が増えたとされています。賃金の上昇の80%は、それによって達成されたそうです。

ドイツの事例の分析を探しても、女性やアルバイト、または外国人労働者への影響はまったくないわけではないが軽微で、正規雇用への影響はほぼないという結論のものしか見つかりません。しかも、旧東ドイツ地域での影響が大きくなると懸念されていたにもかかわらず、これもほとんどなかったとされています。

イギリスも1999年に最低賃金制度を導入した際には、全国一律の基準を採用しました。このときも、ロンドン以外の地方では影響が大きく、とくに地方の中小企業は耐えられずに雇用を減らすので、ロンドンへの一極集中が進むという反対の声が上がりました。

イギリスで全国一律の最低賃金制度が導入されてから20年経ちましたが、実際はどうなったでしょう。実は、イギリスでもドイツも同じ傾向が見られます。最低賃金の導入による影響が大きいと考えられていた地方でも、雇用全体への影響はほとんどありませんでした。しかし、しばらくの間は、地方の雇用成長率は低迷していたことが確認されています。

最低賃金引き上げ」で経営者を動かす以外に道はない

ここまでの話を総括してみましょう。

最低賃金の引き上げがなければ、雇用はもっと伸びたというのが学会のコンセンサスです。「雇用への影響」はこの事実を指します。

一方、最低賃金を引き上げると、離職する人が減ります。これは企業にとっては採用コストの削減というメリットになります。

「雇用への影響」が出るのは、生産性が低い企業です。最低賃金で多くの人を使っている企業ほど生産性が低い傾向にあるのは、世界的共通した傾向です。これらの企業では、コストの低い人力に頼っているため、最先端技術はおろか機械化も進んでいないところが少なくありません。しかし、最低賃金の引き上げを行うと、こういう企業からも生産性の向上を試みる企業が増えることが確認されています。

最低賃金が引き上げられると低生産性企業は「人を増やさなくなる」のが一般的ですが、生産性の低い企業が人を増やさなくなるのは、生産性向上の観点から見るとプラスです。

生産性の低い企業で働く人が全労働人口に占める比率が低下すると、国全体の生産性の向上につながります。このような動きが短期間に起きると、雇用全体への影響が顕著に現れますが、最低賃金の引き上げを徐々に行うと、経済全体で調整されるので影響はほとんど顕在化しません。

最低賃金の引き上げに反対の意を唱える人たちは、雇用の機会が減少してしまうので、若者や相対的にスキルの低い人が困ることになると反論するかもしれません。しかし、日本では、生産年齢人口は毎年約100万人ずつ減ってしまううえ、すでに180万人の外国人労働者を雇っているので、その心配は無用です。そもそも、生産性の低い企業に供給できる労働者は減っているのです。

また、この反論は事実にも反しています。安倍政権になってから最低賃金を継続的に引き上げた結果、何が起きたでしょうか。実は生産年齢人口が618万人も減ったにもかかわらず、最低賃金で働く人を中心に、雇用は371万人も増加しているのです。先ほど見たドイツと同じ結果が、日本でも起きているのです。

日本は高齢化が進むうえ、生産年齢人口が減るので、生産性を上げて賃金を上げるしか生き延びる道はありません。しかし、残念ながら大半の日本企業は、自発的に生産性を上げようとはしませんし、賃金も上げてはくれません。国が最低賃金を引き上げ、企業の変革を促すしか選択肢はないのです。新型コロナウイルスに対する緊急経済対策を打つときにも、この中長期的な使命に逆行してはいけません。