毎週、火曜日と土曜日に沖縄県庁前でのアピール活動を続ける岸本さん

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 沖縄県民の岸本セツ子さん(80)は、毎週火曜日と土曜日の午前中、沖縄県庁前で「辺野古新基地NO」と記したプラカードを掲げ、道行く人たちに「沖縄に民主主義はあるのか?」とのチラシを配布している。

【写真】岸本さんが配っているチラシには文字がぎっしり!

 チラシには、日本国土の0・6%の面積しかない沖縄に米軍専用施設が約70%も集中していること。いわゆる「本土」から移設されて大幅に増えた事実が描かれている。

なぜ沖縄だけが苦しむのでしょう

 岸本さんはこう訴える。

「沖縄の米軍基地は本土に引き取ってもらいましょう!」

 岸本さんが県外移設を意識したのは、2015年5月。米軍普天間飛行場(宜野湾市)の辺野古移転に反対する県民大会に参加したときだ。戦争の悲惨さも、県民が米軍基地に苦しむ日常も知ってはいたが、大会でもらった「米軍基地は県外へ」との資料で、沖縄に米軍基地の7割以上も集中しているとの具体的数値を初めて知った。

「これは絶対に不公平。沖縄への差別です。調べると、“本土”には米軍の専用施設がない府県が34もあります。なぜ沖縄だけがこれほどの基地集中に苦しむのでしょう」

 そして、岸本さんは県庁前での行動を開始する。

 岸本さんの行動に共感し、チラシ作成と更新を担当するのが知念栄子さん(75)だ。

 栄子さんは終戦時に1歳だったが、自分を背負い戦火の中を逃げ回った祖母からは悲惨な過去を聞かされ、自身の両親が健在だったからこそ、戦後、同級生の多くに親がいないという戦争の傷痕を強く肌に感じ、常に反戦の思いを抱いていた。

 栄子さんもまた、日本政府の沖縄差別を訴えたかった。

 チラシには興味深いデータが記載されている。

《本土で米軍基地反対運動が高まり沖縄の日本復帰(1972年)前後に下記の都道府県から移設された》

 として、もともと米軍基地があった「本土」の11か所が描かれているのだ。例えば、《東京都(砂川闘争)》、《石川県(内灘闘争)》など。

「1950年代には、沖縄に米軍専用施設は全国の1割しかなかった。それが、本土での反基地運動でその基地が沖縄に移設し、いまでは7割になったんです」(栄子さん)

 同様の差別はいまもある。

「私たちがいくら反対しても、世界一危険な普天間飛行場にオスプレイは配置されるのに、佐賀県でのオスプレイ配備に県知事が反対すると国はそれを認めた。この違いは何でしょうか」(岸本さん)

県外の人に移設を訴えるのが私の役目

 岸本さんも栄子さんも「県外移設」を訴えて痛感するのは、その差別を、沖縄の現状を憂う「本土」の人こそが知らないことだ。

 こんなことがあった。

「本土」から来た平和活動家の前で、栄子さんが県外移設の考えを述べると、「その話は間違っていませんか?」との反論を受けた。

 50年以上前に砂川闘争で反基地運動を展開したというその男性は、「戦争につながる米軍基地は日本のどこにもいらない。県外移設は“本土”に新たな基地を作ることになる」と主張した。

 栄子さんはこう反論した。「沖縄では日本復帰まで施政権はアメリカにあって、“本土”の基地を自由に沖縄に持ち込めたんです」

 男性は表情を変え、「自分たちの反対運動の結果、基地がまさか沖縄に移ったとは……申し訳ない」 と謝罪した。

「沖縄県民には県外移設に同意する人は多いと思います。でも県外の人にその意見を伝える人は少ないですね。それが私の役目です」(栄子さん)

 沖縄で「県外移設」を訴えるのは岸本さんや栄子さんが初めてではない。

 1995年の米兵3人による少女暴行事件を機に、日米の協議で普天間飛行場(宜野湾市)の撤去、そして辺野古移設が決まった。

 その後、宜野湾市の女性たちが「自分の思いを自分たちの言葉で、自由に発言しよう」と『カマドゥー小(グヮ)たちの集い』(以下、カマドゥー)との集まりを作り、名護市へ赴き個別訪問を行って「宜野湾のためにと移設を受け入れないでいいです。一緒に沖縄から基地をなくしましょう」と訴えた。

多くの人が「自分の街には来るな」

 それから「金曜集会」を実施したり、米軍基地のフェンスに黒いリボンをつけたり、米軍機飛行を止めようと普天間飛行場の周辺で大きな風船を掲げたりしてきた。そこで訴え続けてきたことが普天間基地の「県外移設」だった。

 1998年、沖縄の女性125人が東京都心で「普天間基地の県内移設反対」を訴える“道ジュネー”(デモ)を行った。そのなかでカマドゥーや名護『ジャンヌの会』のメンバーは「普天間基地大安売り」「いまなら振興策がついています」と呼びかけた。

 このとき道ジュネーに一般人として参加したのが、東京在住だった沖縄出身の知念ウシさんだ。ライターであるウシさんは『シランフーナーの暴力』('13年)などの著書で「差別する日本」を告発しているが、道ジュネーに参加した当時は「県外移設を」との考えはなかったという。

「当時は、県内でもその道ジュネーはブラックユーモア扱いで“沖縄で嫌と思うものを県外に押しつけるな”との考えが多かった」と振り返る。

 実際、ウシさんも、大田昌秀知事(1990〜1998年)が提唱した「全国で基地の応分負担」を「そこまで言う?」と疑問を感じていた。

 だが、2000年に沖縄に帰郷し、カマドゥーの活動に参加し自ら考えるうちに、少しずつ「県外移設」を意識するようになる。例えば─。

 日米安保は日本国民の8割以上が是認、つまり、米軍基地を日本のどこに建設してもいいと認めているのに、実際はその多くが「自分の街には来るな」と思っている現実。「本土」の米軍基地が沖縄に移設された歴史。その結果、過剰負担を強いられる沖縄のいま。そして、「本土」の基地反対の人が描く勝手な幻想。

「沖縄の子どもに向かって“この子も基地問題と闘うんだね”と言うなど、反基地運動こそが正しいウチナーンチュと思い込む人がいます。逆に、沖縄が好きなら基地のひとつでも“本土”に持ち帰ってねと言うと、スルーするんです」(ウシさん)

 ウシさんは「いまでは多くの県民に県外移設の考えは浸透している」と語る。その背景のひとつが、大田知事以降の歴代知事もそれを訴えてきたことだ。現職の玉城デニー氏も「基地は本土も平等負担を」と県外移設を訴えている。

 実際、「本土」の人間も、

 '09年、民主党政権で鳩山由紀夫首相が「普天間飛行場は“最低でも県外”移設」を公約したときに県民がそれに期待し、そして、断念したときの落胆をテレビや新聞で見たことで、県民の県外移設への願いを知ったはずだ。

他人事からジブンゴトへ

 沖縄県民は県外移設をどう思っているのか? 私は、沖縄の街角で複数人に意見を求めた。すると、その多くが「ぜひ“本土”で引き取って」、「“本土”の市民が納得すればOK」というものだった。

 一方、辺野古の米軍基地、キャンプ・シュワブ前で展開する「基地絶対反対」運動に参加する人の意見は異なる。

「“本土”から応援に来る人が多いなか、引き取ってと言うべきでない」、「基地はここでなくす。それしかない」などの声が目立った。

 運動のリーダーである『沖縄平和運動センター』の山城博治議長も「基地問題解決にはさまざまな方法がある。だが、ここは多くの人に支えられ基地撤去を目指す現場である以上、リーダーたる私が県外移設に賛成できません」と明言した。

「基地絶対反対」も「県外移設」も辺野古基地の建設阻止との方向性は共通している。

 特筆すべきは、「本土」で「沖縄の米軍基地を引き取る」運動が始まったことだ。

 '15年、大阪府で市民団体『沖縄差別を解消するために沖縄の米軍基地を大阪に引き取る行動』(引き取る行動・大阪)が設立された。

 松本亜季代表は、かつて辺野古で数か月間の座り込みを行い、そして出身地・大阪で10年間、「基地絶対反対」運動を展開。その過程で、多くの府民が「沖縄は大変だ」と口にはするが、沖縄に問題を押しつけた「本土」の責任に無自覚であることを痛感した。この問題をジブンゴトとして考えてもらうためにも引き取り運動を始めたのだ。

 大阪の動きに、ウシさんは「あ、やっと思いが届いた」とうれしさを覚えたという。

 引き取り運動は現在、全国10か所で展開され、岸本さん、栄子さん、そしてウシさんは請われれば赴き、市民に「本土」の責任を訴えている。

 議会も動いている。市民有志『新しい提案実行委員会』が「普天間基地の県外・国外移設を国民的議論により公正で民主的に解決する」との意見書採択を求める陳情書を全国の自治体に提出したところ、昨年末の東京・小金井市議会での採択を皮切りに、7月11日時点で29議会が採択するに至っている。

 また、朝日新聞は昨年9月、毎日新聞も今年3月に「基地引き取り」の世論調査を行うなど、数年前まで「本土」では見向きもされなかった県外移設への意識は徐々に広がってきたと言える。

 ただし、栄子さんは「でも、基地はカゴに担いで持っていけるものではない。県外移設を国会で徹底審議してほしい。だって基地が必要と言っているのは議員でしょ」と国の責務を訴え、同時に県外の市民にも、「小さな集まりでも各地で次々と引き取り運動が立ち上がれば、必ず変化は訪れます」と強い期待を寄せる。

 読者は沖縄の声にどう応えようか。

(取材・文/樫田秀樹)

樫田秀樹 ◎ジャーナリスト。'89年より執筆活動を開始。国内外の社会問題についての取材を精力的に続けている。『悪夢の超特急 リニア中央新幹線』(旬報社)が第58回日本ジャーナリスト会議賞を受賞