「住宅建材界のユニクロ」と呼ばれるサンワカンパニー。製造から小売りまでを一貫して手掛ける。同社の商品の特徴は、スタイリッシュなデザインと価格の透明性だ。住宅建材業界の流通経路は複雑かつ不透明で、ブラックボックス化することも多い。ところが同社ではワンプライス戦略のもと、ECサイトからいつでも誰でも同じ値段で商品を購入できる。

2代目社長の山根太郎氏は伊藤忠商事の出身。父親の築いたビジネスモデルを足掛かりに、果敢なグローバル展開を仕掛ける。しかし、社長就任直後に実行したのは、会社の人とモノを大幅に入れ替える改革、大胆にいえば内側からの「乗っ取り」だった――。早稲田大学大学院の入山章栄准教授が、代替わりで起こったイノベーション「第二創業」の秘密を解説する。

■後継ぎではなく「経営者」を育てた父

▼第二創業

「もともと家業を継ぐ気はまったくなく、それどころか19歳になるまで、父親が会社の社長をしていることさえ知らなかったんですよ」

2代目社長の山根太郎氏が打ち明けたのは、意外な生い立ちでした。

「たまたま一緒に香港旅行したとき、父親の知り合いから『君が未来のプレジデントか?』と聞かれ、そこで初めて、どうやら会社を経営しているらしいと勘づいたのです」

お父さんは、いったいなぜ自らが経営者であることを息子に隠し続けていたのでしょうか。

「家業を継ぐという逃げ道をつくってしまったら、息子は努力を放棄し、成長できないと思ったんでしょうね」

山根親子は、本連載でこれまで登場した親子のなかでも、特異な関係にあったのです。同社の事業承継のいきさつを見ながら、私なりの経営学の視点で解説していきましょう。ポイントは3点です。

第一のポイントは、「知の探索」。スタンフォード大学のジェームズ・マーチが提唱した「イノベーションを起こすには、本業から離れた、認知の外に出る」ことの重要性を謳った理論です。そして山根氏はまさに生い立ちそのものが知の探索であり、そこにはお父さんの育成方針があったと言えます。

一般に創業者の後継ぎ息子は、父親との葛藤に悩みます。父親と自分を比べて自信を喪失したり、プレッシャーを感じたりする人が多くいます。ところが山根氏は、父親から束縛されることもなく、自由な少年時代を過ごします。学生の頃はプロテニスプレーヤーを目指して世界各国を歴戦。最終的にテニスをあきらめ、大学卒業後、就職したのは伊藤忠商事でした。

「父は日頃から『おまえには会社を継がさへん』と言っていました。そのかわり、ことあるごとにいつかはベンチャーをやれ、一国一城の主人になれ、と発破をかけられたものです。ならば、さまざまな分野にネットワークを広げる総合商社に行こうと。なかでも伊藤忠は“野武士集団”と呼ばれるだけあり、自由闊達な社風と聞いていました」

代表取締役社長 山根太郎氏●1983年、奈良県生まれ。関西学院大学経済学部卒。2008年伊藤忠商事に入社。繊維カンパニーに配属。ブランドライセンス事業などを担当し、10年より上海に駐在。13年突然の父親からの電話で、後を継ぐことになり、14年より現職。

実際入社してみるとそのとおりで、配属されたアパレル関連部門では、会社の看板を使ってやりたいことを思う存分できたそうです。

「1年目から、自由に海外を飛び回って商売していました。注文をとりつけたら自分で予定を組み、提携先の工場があるインドネシアや中国に飛ぶ。価格交渉の折り合いがつけば、その場で課長のゴム印を押して契約を締結していました」

入社早々、課の投資先企業や仕入先の決算書をチェックして上司に報告をするなど、プライベート・エクイティ(投資ファンド)のような仕事もしていたといいます。おかげで会計の知識がひととおり身についた、と山根氏。入社3年目には同じ部署の同期では最速で上海に駐在をすることになります。

■一本の電話で家業に引き戻される

前途洋々の道を歩んでいた山根氏でしたが、2013年、一本の電話で家業に引き戻されることになります。

「やっぱり、おまえしかおらん」

お父さんは末期の肝臓がんでした。電話がかかってきたのは亡くなる3日前のことです。

「社内の人間には、もうこの業界も会社も変えられない。おまえは大手商社の仕事のやり方が身についている。社長になって新しい文化をつくってくれ。好きにやっていい」

その言葉に山根氏の心は揺れました。

「実は、ゆくゆくは自分で興したベンチャーを大きくし、それから父親の会社を買収してやろうという計画を立てていました。ですが、起業できるのは当分先のこと。後を継いで改革するのも面白そうだと思ったのです」

「親の会社を乗っ取りたい」という野望を山根氏が抱くようになった背景には、お父さんの独自な教育方針があったようです。後を継げとは言わなかったものの、子育てに関心がなかったわけではなく、むしろ機会をとらえては帝王学を学ばせる教育熱心な親でした。

「幼い頃、時間を守らないと『銀行は1分も待ってくれんぞ』と叱られたものです。もちろん意味がわからず、きょとんとしていましたが。

一方、好きなことをやらせ、体験の幅を広げるためには投資を惜しみませんでした。例えば高校のとき、担任の先生に社会性を身につけるためアルバイトをさせてはと勧められたのですが、父は『18歳の1時間を700円で売らせたくない』とはねのけ、好きなテニスに邁進させてくれた。その後、デザインの勉強をしたいと言い出したときも、まず本場を見てこいとヨーロッパ旅行に行かせてくれました」

親元に身を置いていては得られない知を、未知の世界でつかみとってきてほしい――「おまえには継がさへん」と言い続けたのも、もしかするとその一心からかもしれません。

■会社を成長させる「スクリーニング戦略」

第二のポイントは、ビジョンをフィルターにしての「スクリーニング戦略」です。14年、当時30歳の山根氏は、マザーズ市場最年少(当時)で代表取締役社長に就任しました。しかし、そこからの道のりは険しく、まさにハードな事業承継が展開されることになります。

一般客も1つから買えるショールーム●通常、工務店や業者が紹介する商品の中からしか選べないが、ここでは個人でも1つから購入できる。

山根氏が入社してみると、ワンマン経営者だった父親がすべてを取り仕切ってきたために、現場の人材はまるで育っておらず、挨拶や時間厳守といった基本すらできていない状況だったといいます。おまけに、役員たちは個人的な感情のもつれから組織間で内輪揉めを起こしており、全社的な経営体制がまったく築けていなかったそうです。

「社内の膿を出し切らなくては」

翌15年、社員総会の場で山根氏は全役員、従業員を前に次のように宣言します。

「うちは弱小校だが、これからは甲子園を目指すつもりだ。行く気がない人は今すぐ船を降りてほしい」

その第一歩として、社員個人には「TOEIC650点」「簿記3級」などの資格をとらなければ総合職に就かせない、というハードルを設けます。グローバルで勝ち残る建材のSPAとなるために必要な「資質」と「覚悟」を問う、厳しい基準を示したのです。言いかえれば全社にビジョンを示し、古い体質を一新するぞ、と決意表明したことになります。社員の間には当然、困惑と動揺が広がりました。およそ4割が辞め、後を追うように会社を去る人が次々に現れたといいます。最終的に残った古参の社員はわずか10名ほどとなったそうです。

これまで本連載でも取り上げてきた第二創業を起こし、業績を伸ばしている企業はいずれも、継いだ経営者が会社の強いビジョンを掲げて、その達成に向けて会社を動かしていました。しかし、そのやり方は、大きく2つに分かれます。

1つは「洗脳型」。トップがひたすらビジョンを語り続けることで、社員のマインドを変え、目指すゴールに到達しようとするものです。そしてもう1つが山根氏の採用した「スクリーニング型」。トップが明確なビジョンを新しく掲げて、合う人と合わない人とを選別する。経営学では「情報の非対称性」という考えがあります。この場合、従業員が本心で何を考えているかという情報が、経営者にはわからない(=非対称である)ことを指します。しかし、そのままではやる気がない社員が多く会社に残り、それを見てバカバカしいと思ったやる気のある社員がモチベーションを落としかねません。そこで山根さんは強烈なビジョンを掲げることで、やる気がない社員に自主的に離れてもらう施策をとったと言えるのです。

このスクリーニングがあったからこそ、山根さんのビジョンに共感する、本当にやる気のある社員だけが残り、その後の成功の土台になったと言えるでしょう。その後サンワカンパニーは、採用を強化し、現在は約200名に達しようとしています。「会社のカルチャーをつくるのは新卒社員だ」という信念から、山根氏は新卒採用にも注力をしています。

業界では珍しい分割払い&SNS解禁●建築資材のショールームは撮影禁止のところが多いが、撮影も可能。個人向けに分割払いのサービスもはじめた。

ハードランディングな改革を成功させた山根氏は、地道な改革も進めていきます。デジタル広告に力を入れ、認知度をじわじわ上げていったこともその1つ。

ほかにもスマホのWi-Fiを通して匿名データを取得できる「Wi-Fiビーコン」をショールームに設置。実際の接客データとウェブ上のデータとを紐づけて集客に活用するなど新しい取り組みも積極的に仕掛けます。

「ショールームに『写真OK』のPOPを置き、SNSで拡散してもらうなど、とにかく地道な努力を重ねました。一連の改革を『地味イノベーション』と自分は呼んでいるのですが、効果は確実に上がっています」

■「社会的正当性」を強化する人材登用

最後のポイントは、山根氏の打ち手の中でも興味深い、「レジティマシー(社会的正当性)」の巧みな活用です。経営学では、人は「社会的正当性がある」ものを重視する傾向があることがわかっています。ここで山根氏が正当性確立のために活用したのは、「年配の優秀なサポーター」でした。

例えば16年にヘッドハンティングした津崎宏一氏は、上海駐在時代に知り合った管理分野のスペシャリスト。現在は取締役副社長に就任しています。それまでは若い山根氏が孤軍奮闘していたものの、年長の古参幹部たちに自分の行動の正当性を認めてもらうのに、苦慮することもあったそうです。そこに40代の経験豊富な津崎氏が味方についたおかげで、年配層からの経営陣への信頼をしっかりと獲得できるようになりました。

さらなるサポーターとして獲得したのが、ライフネット生命保険の創業者、出口治明氏です。17年にサンワカンパニーの社外取締役に就任します。

「ライフネットを退任されるというニュースを知ってすぐ、それまで面識ゼロだった出口さんにオファーの手紙を送りました。すると翌々日、ご本人から連絡をいただき、さっそくお会いすることに。『変な会社じゃなければ、先着1社はお受けしようと思っていました』とのことで、就任が決まりました」

■グローバル展開の構想は着々と実現

このように若い山根氏は、自分よりも年配で、しかし信頼できるサポーターを社内に加えることで、社内で正当性を勝ち得てきている、と考えられます。おかげでグローバル展開の構想は着々と実現しています。16年、台北にショールームを開設。18年にはアジアの企業で初めてイタリア・ミラノサローネ・アワードを受賞。「次なるターゲットは中国、そして米国です」と山根氏は目を輝かせます。

創業者である山根氏のお父さんは、大活躍する息子のこんな未来をどこまで想像していたのでしょうか。社長であることを語らず、束縛もせず、息子に「知の探索」をさせ続けた父。じつは「自分を超える経営者に育ってほしい」という思いを人知れず秘めていたのではないでしょうか。だとすれば、第二創業を息子に果たさせたお父さんもまた、とてつもない慧眼の持ち主であったのかもしれません。

▼第二創業のポイント:息子に後継ぎと伝えず、ひたすら「知の探索」をさせる

会社概要【サンワカンパニー】
●本社所在地:大阪市北区
●資本金:3億9800万円
●売上高:93億2900万円(前年比106%・2018年9月期)
●従業員数:190名
●沿革:1979年、建築資材の輸入販売業として設立。2000年、建築資材のインターネット通信販売事業を開始。13年、東京証券取引所マザーズに上場。

----------

入山章栄
早稲田大学大学院 経営管理研究科准教授
三菱総合研究所を経て、米ピッツバーグ大学経営大学院でPh.D.取得。2008年よりニューヨーク州立大学バッファロー校ビジネススクールの助教授を務め、13年より現職。専門は経営戦略論および国際経営論。著書に『ビジネススクールでは学べない 世界最先端の経営学』。

----------

(早稲田大学大学院経営管理研究科教授 入山 章栄 構成=西川敦子 撮影=福森クニヒロ)