NHK「NHKスペシャル 未解決事件」の公式サイトより。

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■なぜ新聞は社説に取り上げないのか

5月の大型連休に新聞を読み比べていてたいへん残念に思うことがあった。

31年前の5月3日、朝日新聞阪神支局に散弾銃を持った男が押し入り、記者2人を殺傷した襲撃事件についての社説が、朝日新聞以外の全国紙に掲載されていない。

あの事件は朝日新聞だけの問題ではない。脅しと暴力で言論を封じ込めようとした許し難い事件だ。新聞やテレビといった既存メディアだけでなく、ネットメディアも含めたメディア全体で追い続けるべき問題である。なぜなら「報道の自由」を守るために欠かせないことだからだ。

報道の自由を守るとは、私たちの社会を守ることだ。報道が規制されれば、社会はいずれ独裁主義や全体主義に覆われてしまう。それは歴史が教えている。

それなのに今回、言論の中心的役割を担うべき新聞各紙の社説が、テーマとして論じていない。本来、毎年この時期に社説として書くべきテーマのはずだ。

ましてや世界中でテロが多発生し、ジャーナリストが命を落とすような事件も目立つ。「30年という大きな節目を過ぎたから社説として取り上げる必要はない」「安倍政権下では5月3日の憲法記念日のほうがニュース価値がある」という言い訳は通らない。

幸い、NHKは今年1月27日と28日の2夜連続で、「NHKスペシャル 未解決事件」で取り上げていた。番組内の実録ドラマでは草なぎ剛さんが記者を演じていた。

放映の反響は大きかったと聞く。それなのに新聞はなぜ、社説のテーマに取り上げなかったのか。

■「卑劣なテロの記憶を風化させてはならない」

5月2日付の朝日社説は「朝日襲撃31年 異論に耳傾ける社会に」との見出しを付け、「取材の最前線をねらった凶弾への憤りを胸に、新聞の役割を再確認したい」と書き出し、こう主張する。

「赤報隊を名乗る犯人が起こした8件の事件は、03年3月までに公訴時効が成立している。だがそれは刑事手続き上の話だ。卑劣なテロの記憶を風化させてはならない」

朝日は「言論の自由」を守るべきメディアの役割を忘れていない。公訴時効が成立しても、事件を決して風化させてはならないのである。

風化させないためにも新聞が毎年、社説として論じるべきなのだ。たとえば1985年の日航ジャンボ機墜落事故は、事故が起きた8月12日の前後に毎年、新聞各紙が社説として書いている。朝日新聞襲撃事件も同じだ。

新聞だけではない。ネットメディアにも取り上げてほしい。メディア全体が広く論じることで、あらゆる人々に言論の自由を守ることの大切さを考えてほしいからだ。

事件は1987年5月3日に起きた。目出し帽の男が散弾銃を撃ち、小尻知博記者(29歳)が死亡、犬飼兵衛記者が重傷を負った。

朝日社説は「重傷を負った犬飼兵衛さんは1月に73歳で亡くなった。常々『なぜ撃たれたのか、知りたかった』と無念を語っていた」と続ける。

■見えない「赤報隊」を追い続けて31年

今年2月21日、岩波書店から『記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実』という書籍が出た。著者は事件の発生当時から30年以上犯人を追い続けている元朝日新聞記者の樋田毅さん。NHKスペシャルで草なぎ剛さんが演じたあの記者だ。

樋田さんはまえがきにこう書いている。

「時効を機に、取材班が解散した後も、私は新聞社の本業の仕事の合間を縫って、1人で、あるいは昔の仲間の協力を得て、細々とだが、事件の真相解明への努力を続けてきた」

「6年前に定年のため再雇用の契約社員になった後も、1〜2か月に一度ずつ東京などに出向き、旧知の右翼に会うなど取材を続けた」

「見えない赤報隊を追い続ける。それが、私の記者人生を賭けた使命だと思い定めてきた」

樋田さんは新聞記者魂を持った男だと思う。

■あの事件のどこが「義挙」なのか

朝日社説に話を戻す。

「事件直後、多くの人が怒りを表し、当時の中曽根首相は『憲法の保障する基本的な権利への挑戦だ』と批判した。ところがいま、銃撃を『義挙』と呼び、『赤報隊に続け』などと、そのゆがんだ考えと行動を肯定する言葉がネット上に飛び交う」

朝日社説はこう指摘し、「大切なのは、異論にも耳を傾け、意見を交換し、幅広い合意をめざす社会を築くことだ」と訴えるがその通りである。

樋田さんも『記者襲撃』で「この未解決事件が日本社会にも朝日新聞社にも暗い影を落としており、その影響は近年ますます広がっているのではないか、と私は思う」と書いている。

朝日社説に出てくる「義挙」という言葉は、数年前から「ネット右翼」と呼ばれる人たちが使っているようだ。いったいあの事件のどこが「義挙」なのだろうか。卑劣以外のなにものでもない。またネットを使って偏った持論を展開するのは恥ずべき行為だ。

一般的に人は異論に耳を傾けないで、自分の主張を通そうとする傾向がある。それゆえ異論も頭に置き、両論併記でものごとを考察しようとする努力が必要なのである。

■価値観の違いを自覚することが大切だ

朝日社説を読んで、沙鴎一歩の脳裏には、3年前の冬、フランス・パリで起きた新聞社銃撃事件が浮かんだ。ジャーナリストのひとりとして「表現の自由」について深く考えさせられる事件だったからである。

事件は2015年1月7日のパリで起きた。イスラム教の予言者ムハンマドを扱った風刺画を掲載した週刊紙「シャルリー・エブド」のパリ本社が襲撃され、記者ら12人が殺された。

日本の新聞各紙も事件直後から「表現の自由を暴力で踏みにじる行為は許されない」という趣旨の社説を掲載し、テロの卑劣さと表現の自由の重要性を訴えた。

しかし事件から一週間後、シャルリー・エブドが特別号で、再びムハンマドの風刺画を強烈な皮肉を込めて掲載すると、日本の新聞各紙の社説の論調が一様に変わった。

「フランスで『表現の自由』であっても、イスラム教徒には『宗教への冒涜』になる。マスメディアは記事が社会に及ぼす影響を考慮する必要がある。表現の自由を守りつつ、宗教の違いなど価値観を異にする者が共存できる社会を模索すべきだ」

やはり異論に耳を傾け、相手の立場や主張を思いやることを欠いてはならないのである。

■「敵視」「排除」は安倍政権だけの責任ではない

赤報隊事件を扱った朝日社説に話を戻そう。

朝日社説はその終盤で「『反日』『国益を損ねる』といった言い方で、気に入らない意見を敵視し、排除しようという空気が、安倍政権になって年々強まっている」と指摘する。

沙鴎一歩もその空気は嫌いだ。しかし「反日」「国益を損ねる」といった言い方がはびこるのは、安倍晋三首相だけの責任ではない。背景にはネット社会の進展があるのだろう。

これまでニュースを伝えるのはマスメディアに限られていた。間違いがあれば訂正や回収が必要になる。このため新聞社や放送局は記者に教育を施し、うそや間違いがないように心がけてきた。

しかしネットでは、だれでも簡単に情報を流せる。「フェイクニュース」を流しても、訂正や回収の必要がない。このためうそやデマが広がりやすい。受け手には情報の真偽を見極める能力(リテラシー)が求められる。

「多様な言論の場を保証し、権力のゆきすぎをチェックするのがメディアの使命だ。立場や価値観の違いを超え、互いに尊重し合う民主社会の実現に、新聞が力になれるよう努めたい」

「言論の場の保証」と「権力のチェック」が、メディアの使命であることには異論はない。ただ「民主社会の実現」には新聞だけではなく、ネットメディアも含めたメディア全体がいっしょになって考えていくべきだと思う。

(ジャーナリスト 沙鴎 一歩)